第4章 迷走

第4章 迷走

 そこまで映像を進めると、ターシャは細い指で壁のボタンに軽く触れ、壁の隙間から金色の円盤を先程と同じ鮮やかな手さばきでスルリと取り出した。壁の映像は消え、男はほっと胸を撫で下ろした。 

「どう?前回のあなたの人生の始まりの一場面を見た感想は?」 

ターシャの質問に男は 

「あまり面白いものではないな」 

と、言葉少なに答えたきり、黙り込んでしまった。 

「あなたが前回の生について何か知りたいことがあれば、いつでもここに来てこの映像の続きを見るといいわ。二巻以降は受付に頼んで出してもらってね。あなたの死亡年月日と亡くなった地名と生前の名前が分かればすぐに検索できるから」 

そう言って、ターシャは先ほどの薄い円盤を半透明のケースに入れて男に手渡した。 

「そんなものいらない」 

と言おうとしたが、その言葉を飲み込んで、男は黙ってそのケースを受け取った。
 未知のものに対する好奇心が、生前からこの男には強く働いていた。言わば「怖いもの見たさ」のような感情に、彼はどうにも抗えない性分なのである。 

「この部屋の案内はこれくらいにしておきましょう。大まかな利用方法さえ分かっていれば、後は係員に尋ねれば何でも教えてもらえるはずよ。ここの担当者は皆親切だから」 

そう言って、ターシャはいきなりソファーの肘掛からすっと立ち上がると、来たのと同じ階段を下りて、図書室の出入り口に向かって歩いて行った。 

「ちょ、ちょっと待てよ…」 

男は慌てて立ち上がると、急いで階段を駆け下りてターシャの後を追った。 

「何てマイペースな女なんだ」 

憎々しげにそう呟く彼に、襟元に金の縁飾りのついた紺色の制服を着た受付の女性がカウンターの中から優しく微笑みかけた。 


 果てしなく続く迷路のように曲がりくねった細い廊下を、ターシャの後を追って男は懸命に歩いていた。 

「ねえ、君は美人で有能な女性だ。確かにそれは僕も認める。ただ、もし一言僕に意見を言わせてもらえるなら…」 

息を切らせながら男は、見失いそうなほど先を歩くターシャに大きな声で呼びかけた。 

「なぁに?随分持って回った言い方ねぇ」 

ターシャの声は少し遠くから、壁のに跳ね返った反響音と一緒に聞こえてくる。 

「君は、もう少し、思いやりというものを持った方が良くはないだろうか?」 

「それは、どういうこと?」 

「つまり、その…、僕はこの船は初めて…ではないかも知れないが、記憶にある限り初めてこの船に乗るわけで…。君は僕にこの船の中を案内しているのだから…」 

「だから?」 

「だから、その…。もう少しゆっくり歩いてはどうだろうか?君の足は速すぎて、僕は付いて行くのに精一杯で、とても場所を覚えるところにまで頭が回らないんだ」 
「あら、そうだったの?ごめんなさい。それはちっとも気がつかなかったわ。あなたは普段から人と歩く時にはこのくらい距離を開けて歩く習慣があるのだと、私思っていたものだから」
意外なほど素直にターシャは男に謝って、こう言葉を続けた。
「人間は生前暮らしていた文化的背景によって、実に様々な行動様式を持っているのだもの。以前私が受け持った乗客の中には、他人には決して姿を見せないように分厚い布で全身を覆っていた人や、よほど急ぐとき意外は後ろ向きに歩く人なんかもいたのよ」
「そいつら一体何人なんだ?」
男の呟きは彼女の耳には届かず
「じゃあ、これからはもう少しゆっくり歩くことにするわね。どう?これなら、私に追いつけるでしょう?」 
と、ターシャは言った。
「あ あ、声は近くで聞こえるんだが、まだ姿は見えないな。この角をどっちに曲がるんだい?」 
「そこは右よ」 
「右、ね」 
「そう、そしたら突き当たりに大きな大理石の彫刻が立っているでしょう。そこを左」 
「え?大理石の彫刻なんかないよ。今僕の目の前にあるのは、一角獣の絵が織り込まれたタペストリーだ」 
「あら、まだそんな所に居たのね。それは私が今言ったところから逆の方向だわ。それならもう一度さっきの場所に戻らなければ。今来た道を引き返して。もとの場所に戻ったら、そこを左に曲がってその角を右」 

「え?そんなに一度に言われるとますます分からなくなりそうだ…。元に戻って…左で、その次を右…。あれ?ここは…行き止まり、なんだけど…」 

男が所在なさそうに呟いても、すでに彼の耳にはターシャの声は聞こえなかった。 

「ターシャ?」 

不安になって少し大きな声で男はもう一度 

「ターシャ!」 

と呼びかけてみたが、彼の声は虚しくこだまするばかりで、ターシャの声はどこからも返ってこなかった。 

「どうやら本格的に道に迷ってしまったみたいだ」 

 途方にくれて立ち尽くす男に、壁に掛けられた絵の中の少女が、モナリザに似た妖しい微笑を投げかけていた。 

「とにかく、何か目印のある場所に戻ろう」 

そう呟きながら、男は迷路のような細長い廊下を、曖昧な記憶を頼りに元来た場所を目指して歩いた。 

「ターシャ~」 

と彼が情けない声で呼んでみても、どこからも返事は返ってくるはずもない。そして、そうやって歩けば歩くほど、男は全く見たこともない場所に迷い込んで行くようだった。 

 そうしてどれくらい歩き続けただろうか、男は階段の踊場にたどり着いた。 

 彼の目の前には、登りと下りの二本の階段がまっすぐに伸びていた。正面の壁には「汝自らを知れ」という、男には解読できない墨で書かれた漢字の書が飾られていた。 

 彼はその場で、しばらく腕組みをして考えた。 

(待てよ、これは、何かの策略かもしれない。自分がどちらを選ぶかを管理当局に試されている可能性は、今までの経緯からみても、十分考えられる) 

 男はその傾斜の急な階段を怪訝そうな顔つきでしばらくじっと眺めていた。 

(おそらくこの場合、正解は登りの階段じゃあないだろうか?あえて大変な方を選ぶことで何か教訓めいたことを学ばせるというのが、奴らの魂胆にちがいない) 

 それを分かった上で、当局の策略にはまりたくはないというのが彼の本音ではあった。しかし、この窮状、迷路のような廊下でぐるぐるあてもなくさ迷う今の状態から抜け出すには、ここは正しいと思われる選択肢を選ぶ方が無難ではないか、と彼は判断した。前世の42年間で彼は人並みに妥協するということを学んでいたのだった。 

 そこで、登りの階段の手すりに男が手をかけたその時、反対側の階段の方からどっと楽しそうな笑い声が聞こえてきた。刹那的に沸き起こる嘲笑、その享楽的な雰囲気は彼が生前から親しんでいたのと同じものだった。またしても自分の心の中に好奇心の芽がムクムクと芽生えているのを男は感じた。何となく直感的に正しい道を感じ取りながら、あえて違う方向に引き寄せられてしまうという悲しい性に逆らいきれぬまま、男は吸い寄せられるように目の前の階段を下りて行った。 

 30段以上もある相当長い階段を一気に下りると、男は目の前の木で出来た粗末なドアを押し開けた。扉は軽く、しかし大きな音をたててきしみながら、男を部屋の中へいざなった。 

 

 部屋の中は薄暗く、部屋の中央にある赤いライトが部屋全体を赤く不気味に照らしていた。ぶつかり合うグラスの音、きついウオッカの匂い、下卑た男たちの歓声とヒステリックな女の笑い声、それらが赤いライトに照らされて部屋全体にたちこめる薄紫色の煙草の煙にのって、部屋中に流れる空気を生み出していた。 

 男はその部屋の生暖かい空気に、郷愁に近い妙な懐かしさを覚えていた。そこは、生前彼が入り浸っていた場末の酒場と同じ匂いを持っていた。隅の、空いた丸テーブルを見つけて、男は椅子に腰掛けた。 

「久々に酒が飲める」 

彼は、この船に乗って初めて感じた気分の高揚と開放感に、思わず口笛を吹きながらそう呟いた。 

アブサンをストレートで…」 

通りすがりのウエイターに男が酒を注文すると、ウエイターは無言で手に持っていた空の グラスを男の目の前に置いて、そのまま立ち去ってしまった。あっけにとられて空のグラスを見つめる男に 

「あら、あんた見かけない顔だね」 

と近くにいた若い赤毛の女が親しげに声をかけてきた。

 女は、肩にかけた羽飾りのついた黒の長いショールをたくしよせながら、彼の隣の椅子に腰を下ろした。 

「最近乗ってきたお客だね。そうやって黙って待ってたら、ここではいつまでたっても酒にはありつけないよ」 

女は幾分酒の入った上機嫌な声で、気安く男に微笑みかけた。 

「おい、ジーナ、そんなとこで新入りの相手なんかしてねえで、俺たちのゲームに入れよ。今、メンツが足りねえんだ」 

隣の丸テーブルから、腕に蜘蛛の刺青のある太ったスキンヘッドの男が女に声をかけた。ジーナと呼ばれたその女は 

「ここでの遊び方はね、こうだよ」 

と彼に言い残して、三人組の男達の囲む丸テーブルの前の椅子に座りなおした。 

「よし、じゃあ始めるぜ。今度のカモはこいつだ」 

そう言うと、スキンヘッドの男は両手の指を固く握り締めて何かをひねり出すように力を込め、そして一気に掌を大きく開いた。すると、男の手の上に大きなシャボン玉のような、丸い透明の球体が突然現れた。その丸い玉は男の手の動きに合わせて徐々に大きくなっていき、バスケットボール程の大きさに膨らんでいった。男がそっと手を離すと、その透明な玉はふんわりと軽やかに空中に浮かび、その中に薄っすらと小さな人の形をした映像が映し出された。 

 その球体の中に映し出された人影は次第に鮮明な映像に変わった。そこに映し出されたのは、濃い灰色の背広を着た、華奢で猫背の東洋人の男だった。その男の背後で 

「スズキ課長、お疲れさまです」 

と、若い女の声が聞こえる。スズキ課長と呼ばれた男は 

「ああ、お疲れさま」 

と力なく答えると、使い込んでくたびれた黒い鞄を抱えて、とぼとぼと歩き出した。 

「こいつは、先月から医者の指示で酒を止めてるんだ。『肝臓の状態が極めて良くない、このままでは肝硬変になるだろう』と脅されて。こいつは、太ったかみさんと反抗期でこいつとは口もきかない中2の娘と学校に行き渋って家に引きこもってる小5の息子、そして二年前に田舎から引きとった足の悪い母親と5人で暮らしてるんだ」 

「そう、知ってるぜ。その母親とかみさんがものすごく仲が悪いんだろ。寄ると触るとお互いこいつに相手の悪口を言い合うんだから、こいつもたまったもんじゃねえ。だんだん家に足が向かなくなって、代わりに酒の量が増えてきたのも、こいつにゃあ気の毒だが、俺たちにしてみりゃしめたもんだぜ。何せこいつは去年ぐらいからすっかりこのテーブルでは常連のおいしいカモだからな」 

同じテーブルの縮れ毛の男が、丸い小さなサングラスの薄いブルーのレンズ越しに細い目を一層細め、尖った顎を撫でながらニヤニヤ笑ってそう言った。 

「それじゃあ、まず俺から始めるぜ」 

そう言うと、もう一人のあばた顔の男がおもむろに椅子から立ち上がった。そして、肩に 

無数のスパイクの打ち込まれた黒の革ジャンの袖をまくりあげて、その透明な球体を自分の側に引き寄せると、その脂ぎった額を玉に近づけた。すると、その額から黄緑色の細いチューブのようなものがニュルニュルと伸びだしてきた。その黄緑色のチューブは途中で二本に枝分かれすると、玉の表面を突き抜けて映像の中の小さな男の両耳の後ろにスルリと入り込んでいった。 

「そうやってまっすぐ家に帰ったところで、お前を待ってるのはかわいくねえ子どもらと嫁姑の醜い諍いだけだぜ。一杯やって、気分転換していきなよ。仕事の後の一杯は、最高だぜ。今夜は焼き鳥なんてどうだい?あんたの好物のスナギモにはビールがピッタリだ」 

あばた顔の男は、映像の中のスズキ課長に向かってそう囁きながら一瞬眉間に皺を寄せた。 

すると、額のチューブの黄緑色が蛍光色に変わって、スズキ課長の体が一瞬ピクリと動いた。 そして、玉の中のスズキ課長の心の声が、少しくぐもった声で聞こえてきた。

「そういうわけにはいかないよ。それに、家族のことは仕方のないことだ。子どもたちは二人とも今は難しい年頃だし、妻と母親の両方の言い分も私にはそれなりに理解できる。今まで長い間別々に暮らしてきたんだ、本当の家族になるにはもう少し時間が必要なんだよ」 

一瞬立ち止まったスズキ課長は、少し寂しげな笑いを口元に浮かべ、再び歩き始めた。

「じゃあ、今度はおいらの番だ」 

 今度はブルーの丸眼鏡の男が、あばた顔の男の額からチューブを外し、それを自分の額につけて、優しげな口調でこう付け加えた。 

「今日も一日、あんたはホントによく働いたよな。あの得意先のイヤーなオヤジにも散々頭を下げて何とか契約を取り付けた。今度のはかなりデカい仕事だったじゃないか。やっぱりあんたじゃなきゃ、他のヤツじゃなかなかああはいかないぜ。今日はお祝いだ、細かいことは気にせずに、パーッと飲もうぜ、パーッと」 

「そうしたいのはやまやまだが、そうもいかないんだ。先月ついにドクターストップがかかって、しばらく禁酒しなければならなくなったんだ」 

スズキ課長は、がっくりと肩を落として、薄く禿げかかった頭をポリポリと掻きながら、なおもとぼとぼと歩き続けた。彼の心の声は、先ほどと同じように、音声を伴ってあたりに響いていた。 

「そんなんじゃだめだぜ、貸してみな」 

今度はスキンヘッドの男がチューブを引ったくり、額に付けると、低い凄みのある声で 

こう言った。 

「酒を飲む楽しみを取ったら、この先お前にどんな楽しみが残るっていうんだ?それに、おまえはいったい何のために、そんなにあくせく働いているんだ?唯一の息抜きの酒を取り上げられて、毎日往復二時間、満員電車に押し込まれながら仕事に通い、来る日も来る日も得意先のご機嫌取りとクレーム処理に追われるだけがおまえの人生なのか?そんなんでおまえは虚しくないのか?」 

スズキ課長は幾分深刻な表情になって一瞬歩みを止めたが、大きく一回深呼吸した後、思い直したように心の中でこう呟いた。 

「私には、社会人として、また一家の主としての責任があるんだ。今私が体を壊して働けなくなったら、四人の家族の生活はどうなる?子どもたちの教育費や高齢の母親の医療や介護費用もこれから年々嵩んでくるし、家のローンだってまだ半分しか終わってはいない。妻がパートに出たところで大した収入にはならないし、結婚してから一度も働きに出たことのない妻に、家事と仕事の両立を要求するのはあまりに酷だ。それに今だって、母親のことであれには随分苦労をかけているんだし…。今じゃああんなになってしまったが、あれでも昔はかわいい娘だったんだ。私が苦労をかけてばかりいるからストレスであんなに太ってしまったが…。とにかく、家族の生活を守るために、私は断固酒を断つべきなんだ」 

「あら、課長さん、今日はいつになく意志が固いんだね。でも…、あと一息だわ」 

そう言うと、今度は先ほどのジーナと呼ばれた女が額にチューブをペタンと貼り付け、ため息交じりの甘い声でこう囁いた。 

「でもね、課長さん、そんなに思い詰めるとかえって体に良くないわよ。お酒も適量なら逆に体に良いんだから。昔から言うでしょ?『酒は百薬の長』って。大丈夫よ、それだけ家族のこと考えてるんだったら、飲みすぎて肝臓を壊すなんてこと、まずないわよ。あなたは意志が強いんだもの。一杯くらい飲んだって、どうってことないわよ」 

すると、スズキ課長の体が、再びピクンと動いた。 

「そうだよな、私はこれだけ真剣に家族のことを考えて、毎日一生懸命働いているんだ。ビール一杯くらい飲んだってばちはあたらないよな。それに『酒は百薬の長』とは、確かによく言ったものだ。飲めば気持ちが楽になって、生きてるって実感が感じられるんだもの。いろんなことをくよくよ考えて癌にでもなっちゃ元も子もないんだし…。大丈夫、一杯だけ、ほんの一杯だけだから…」 

スズキ課長の心の声はそう言って自分を納得させると、彼の足取りはとたんに軽やかになり、数分後には、近くの居酒屋のカウンターに彼を座らせていた。 

「ちぇ、またジーナにいいカモを持っていかれちまったぜ」 

 男達の悔しげな声をよそに、ジーナは玉の表面に別の太い透明のチューブを差し込んで、下にグラスを添えた。すると、そのチューブから琥珀色の液体が泡を立てながらあふれ出してきた。 ジーナはビールをグラスに並々と注ぐと

「これがここでの酒の飲み方だよ」 

と言いながら、グラスを片手に隣のテーブル、つまり6497号のところに戻ってきた。 

「いったいどうなってるんだ?」 

 ことの成り行きを呆然と見守っていた彼にジーナは 

「あんた、恐ろしく察しが悪いんだね。要するに、こういうことだよ」 

と呆れた表情で、子どもを諭すように、彼に先程の一連の流れについて説明した。 

 ジーナの解説によると、この酒場は人間が日常生活を送っているいわゆる「実在世界」と想念で繋がっていて、こちらの世界からはあちらの世界に一方的にコンタクトがとれるのだという。 

「ああいう真面目で気の弱い人間は、こっちからのメッセージを感受しやすいんだよ。あっちの言葉で『魔が差す』っていうのは文字通りこういうことなんだ。こっちの世界はあんたも知っての通り五感を超越してる、つまり何にも感じないわけじゃない?でも、あたしらみたいなあの世で好き勝手やってた人間には、そういうのは絶えられないんだよ。だから、ここでは「実在世界」のおいしいところ、いわゆる「スピリット」を、あんな風に上手にいただくってわけ。それに、あたしらもあっちの世界で暮らしてた頃は、実際はこっちの世界の住人に今みたいな感じで美味しい所は吸い取られてたんだから、自分がこっちにいる間にしっかり良い思いをしなけりゃ、割に合わないってわけ。でも、どうせならあの課長さん、もう少しましな酒を選んでくれるといいんだけどさ…」 

そう言いながら、ジーナは、スズキ課長の飲んでいるビールの「スピリット」に軽く口をつけ、つまらなさそうに男の方にまわしてきた。それを何気なく口に含んだ彼は 

「なんだ?この苦いだけの水みたいな液体は?」 

と言って、不味そうに顔をしかめた。 

 ジーナからの説明に一応納得して、男は改めて周りを見回した。先ほどの三人はその後何もしなくてもどんどん溢れ出してくるスズキ課長の酒を汲み交わしながら、すっかり上機嫌だったし、その他のテーブルでも皆各々、それぞれ数人ずつで中央の丸い玉に寄ってたかって何か囁きかけていた。中には数人で同時にチューブを突っ込まれている玉もあり、辺りは一面白い煙が立ち上っていた。 

「あれは、煙草のテーブルだよ」 

ジーナは尚も説明を続けた。 

「それから、あれはギャンブルのテーブル」 

見ると、そこのテーブルの玉の中にはパチンコに熱中している男の姿があった。 

「あの玉の中の男は、もう相当前からあの連中に捕まってるんだ。彼は借金を繰り返しながらそれでも賭け事が止められなくて、彼の家庭はもう崩壊寸前」 

ジーナは何食わぬ調子でそう言った。 

「それでも、あの男は、自分が好きでそうしているんだろう?」 

素朴な疑問を投げかける彼に、ジーナは無言で首を横に振った。 

「別に、あっちの人間は好きで酒や煙草やギャンブルにはまってるわけじゃないんだよ。だって、ホントに好きなら、もっと楽しそうにやるだろ?」 

「それもそうだな」 

 確かにジーナの言うとおり、玉の中でこちらからコントロールされている人間たちは、みんなそれぞれ何か思いつめたような必死の形相をしていた。 

「要するに、こっちの人間の暇つぶし、一種のおもちゃみたいなものなんだよ、奴らは。こっちの世界には、あたし達感覚重視の人間にとっては全くもって何の楽しみもないんだ。ただ、こんなふうにあっちの世界からスピリットを吸い取って味わうことは出来るし、実際、スピリットで得られる快感は、あっちの世界で楽しむ快感の何倍も強いものなんだよ」 

「なるほど、そういうわけか…」 

 店の奥の、赤いスポットライトが一段と色濃く当たっているテーブルで、裸の恋人たちの入った玉を囲んで恍惚の表情を浮かべている数人の男女を見ながら、6497号は妙に納得しながらうなずいた。 

「よおジーナ、今度は俺たちのゲームに入れよ」 

遠くからの呼び声にジーナは気だるそうにうなずき返しながら 

「じゃあね、新入りさん。あんたも適当に楽しみなよ。ここにはここの過ごし方があるからね。まあ、それもそのうち分かると思うけど。でも、あの奥の部屋にだけは入っちゃいけないよ。あそこはあんたには刺激が強すぎるからさ」 

 赤いスポットライトの奥の小さなドアを顎で指してジーナは少し声を潜めてそう言った。 

「あの奥には何があるんだ?」 

「だから、あんたには関係無い所さ。あたしも何回かは入ったことがあるけど、あそこの中の奴らのやってることはあたしには性に合わないね。まあ、あたしらのやってることも端から見りゃ決して褒められたことじゃないんだろうけど、でも、ここには一応ここなりのルールってもんがあってね」 

「ルール?」 

「そう、ルール」 

ジーナは思わせぶりな表情で静かにうなずいた。 

「『決して無理強いしない』っていうのがここでのルールなんだ。だから、玉の中で踊らされてる連中も、心底強い意志を持てば、あたしらの誘惑に負けずにすむんだ。でも、あの部屋の中は…」 

一瞬の沈黙の後ジーナは低い声で呟いた。 

「あの中は、無法地帯だ」 

 そう言われて、男は改めてその入り口の小さなドアを見つめた。赤いライトと煙草の煙に霞みながら、その小さなドアはひっそりとそこに存在していた。