第9章 養母

第9章 養母
  
 翌朝男が目覚めると、例のごとくそこにはターシャの作ったなだらかなシーツの窪みと彼女のほのかな残り香があった。彼はゆっくりと体を起こして、着替えを済ませるとそのまま昨日と同じように図書室に向かった。

 昨日から、彼の中に何とも釈然としないモヤモヤとした思いが広がっていたが、それがどういった種類の感情なのか、彼自身うまくつかめずにいた。純粋で可憐な、彼の実母マーガレット・ハミルトンの理不尽とも言えるあまりにあっけない生涯。貧しい画家に恋をして自ら破滅の道を選んでいった彼女の人生に、いったいどんな意味があったというのだろうか?ターシャはそこには「愛」というものがあったのだろうと言っていた。しかし、自分にはどうもそうとは思えない。男は何かに突き動かされるように、図書室のカウンターの前に立ってこう言った。
「昨日見た映像の続きはもうないのかい?」
 昨日と同じカウンターの女性は、思慮深さのこもった優しい笑顔でこう言った。
「死亡年月日が流れたら、その方の記録はそこまでで終わりです」
「そうか…」
と男は少し落胆したように言った。すると、カウンターの中の女性は
「それでもどうしてもその続きが見たい場合は、その方に関連の深い方の記録の中から間接的に欲しい情報を拾い集める、という方法があります。でも、それも身内の方の記録のみに限られるのですが…」
と、遠慮がちに言った。
 そう言われて男はしばらくその場で黙って考え込んでいた。そして、ある一つの考えが浮かび、ハッとして顔を上げた。彼はカウンターの上のメモ用紙に文字をサラサラと殴り書きして
「この女の記録を。死んだ場所と死亡年月日は分からないが…」
と言って、係りの女性に手渡した。
 そうして貸し出された映像の記録は、昨日見た母親のものの3倍以上の量があった。男がおおよその見当をつけてその中から一枚抜き出して壁の隙間に差し込むと、彼の目の前に母親の映像に出てきたのとほぼ同じくらいの年代のローズ・ハミルトンの苛立った表情がいきなり現れた。彼は、不快な気持ちを抑えながらしばらくその映像を早送りしていたが、やがて
「オギャー!オギャー!」
と顔を真っ赤にして激しいく泣きわめく赤ん坊の出てくる場面で早送りを止めた。


「それで、このくらい小さい赤ん坊には、いったいどのくらいの間隔でお乳を与えればいいの?」
 若いローズは不愉快そうな顔に努めて笑みを浮かべながら、側にいる粗末な身なりの女に尋ねた。
「それ、赤ちゃんの気分次第。お乳欲しくなったら、こうやって泣いて知らせるです」
たどたどしい英語でそう言いながら、その女は側のベビーベッドの上に寝かされている赤ん坊を慣れた手つきでゆったりと抱き上げると、側にあった椅子に腰掛けた。そして自分の洋服の胸元をはだけて中から大きく張った乳房を出すと、赤ん坊の口にそっと含ませた。すると赤ん坊はすぐさま乳房に吸い付いて無心に乳を飲み始めた。
「可哀そう。よっぽどお腹、空いてたねえ」
そう言って、授乳中の女は優しく赤ん坊の頭を撫でた。そのまましばらく赤ん坊は女の乳を吸い続け、満腹になると乳房から口を離して、すやすやと静かな寝息をたてはじめた。そうやって静かになった赤ん坊を見て、ローズは安心したようにホッと大きなため息をついた。そして、女に向かって
「しばらくの間、あなたにこの子の乳母になってもらいたいの」
と唐突に言った。
「ウバ?…ですか?」
女はこの急な申し出に少し当惑したようだったが
「私なんかが、こんなお屋敷に出入りして…。でも、奥様が嫌じゃなければ、…そりゃ私は喜んで…」
と顔を高潮させてそう言った。
「それは、まあ、今回のことは急な事態でもあるし…。まあ…、とにかく、…あなたに、お願いしたいのよ」
ローズは苦しい言い訳をするように、言葉に詰まりながらそう言った。
「ただ…、うちもまだ乳のとれない赤ん坊、いるで…」
うつむいてもじもじしながら、女は何か言いにくそうにした。
「なあに?」
ローズは、威厳を保つかのように顎をなかば上向きにして、威圧的な目線を投げかけながら女に尋ねた。
「その…、二人分の乳出すの、なかなか大変で…」

 何だそのことか、と言わんばかりにローズは横目でチラリと女を一瞥して
「それなりのお礼はさせてもらうつもりよ。あなたがたっぷりお乳を出せるように月々の謝礼も…。ほら、これで足りるかしら?」
そう言って、ローズはコインの入った布袋を無造作に女の座っている椅子の側のテーブルの上に投げてよこした。女は恐る恐る中を覗き込んで
「ええっ?こんなに!」
と驚いてローズの顔を見上げた。
 そこに下女のアンナが現れ、三人の女達は、そこで今後の授乳に関する約束事を取り交わした。屋敷のすぐ側の長屋に住むその女は、当面3時間に一度のペースで、決まった時間に屋敷を訪ねて赤ん坊に授乳すること。夜中に赤ん坊が乳を欲しがって泣き出した時には、アンナがその女の所に赤ん坊を連れて行って乳を与えてもらうこと。また、赤ん坊の授乳時間にその女の子どもの授乳が折り悪く重なった場合は、そこの子どもも屋敷に連れて来ても良いことなど、何点かの取り決めをした。話が終わって女が帰ろうとした時、ローズは女を呼び止めてこう言った。
「断っておくけれど、私はまだ『奥様』じゃありませんからね。あの子が生まれたのにはいろいろと込み入った事情があったんだけど…。ただし、これからは私の子どもとして育てるつもりだから、このことはここだけのこととして、決して口外しないでもらいたいの」
「分かりました」
女は神妙な顔で頷いた。そして話が一段落したところで、今度は自分の子どもに授乳するために、急いで屋敷を後にした。
「ああ、嫌だ嫌だ」
女の姿が見えなくなると、ローズはアンナに向かって散々文句を言った。
「あの女の着てる物ったら、いったいどれだけ着倒したらあんな煮しめたような色になってしまうのかしら?アンナ、これから仕立て屋に行ってあの女の身に合うような服を2.3着仕立てて大至急届けるようにと伝えて来て」
「ええ?ローズお嬢様、そんなことまでしてやるおつもりで?」
アンナはびっくりした顔でそう言った。
「だって、あんな汚い格好で屋敷の中をしょっちゅう出入りされたらたまらないわ。それに、この子に悪い病気でもうつされたらと思うと…。次に来たときにはお風呂に入れて身奇麗にさせてから乳を飲ませるように、約束の時間より早めに長屋に迎えに行って来て」
そう言い放つと、ローズはやおら赤ん坊の方に向き直って、その安らかな寝顔を覗き込んだ。
「まあ、この子は、何にも知らずに幸せそうな顔で寝ちゃって。かわいいわね、この小さな爪、まるで桜貝の子どもみたいだわ」
ローズはなんとも言えない優しい表情でうっとりと目を細めた。
「そう、本当にかわいい赤ちゃんですこと。特に口もとなんてマーガレット様にそっくり…」
アンナはうっかりそう言った後、慌てて口をつぐんだ。そして、急に
「さあ、お風呂の準備と仕立て屋のお使いと、ああ忙しい忙しい」
と言って、逃げるように部屋を出て行った。
 アンナが去った後の部屋には、静かに眠る赤ん坊と、その寝顔を複雑な表情で見守るローズの二人だけになった。ローズはゆっくりふり向くと、壁に飾られているマーガレットの肖像画に視線を移した。

 しばらくその絵をじっと見詰めるローズの目から、突然大粒の涙があふれ出て、ぼとりと絨毯の上に落ちた。涙は後から後から止めどなく湧き上り、ローズはその場にしゃがみこんで肩を震わせながら声を殺して泣いた。泣きながら彼女は押しつぶしたような声で
「何だって、あなたは…、あたしに内緒で…。もっと早く言ってくればこんなことには…。ほんと、…なんて、…バカな子!」
と、言いながら、絨毯の上にへたり込んだ。
 すると、その時突然赤ん坊が、またしても大きな声で
「オギャー!オギャー!」
と泣き始めた。ローズは慌てて涙をぬぐって立ち上がると、ぎこちなく赤ん坊を抱き上げて、一生懸命あやし始めた。
「おおよしよし、どうしたの?さっきお乳を飲んだばっかりでしょ?今度はなあに?」
そう言いながら、赤ん坊に顔を近づけたローズは、急にムッとした不快な表情で赤ん坊から顔を背けた。
「アンナ!」
 ローズは赤ん坊をベッドの上に戻すと、ハンカチで鼻をかみながら廊下に出て大きな声でアンナを呼んだ。
「アンナ!どこにいるの?ちょっと来てちょうだい!」
ローズがいくら大声で呼んでも屋敷の中はシンとしたままだった。
「もう、あの役立たず!」
そう言いながら、ローズはもう一度恐る恐る赤ん坊に顔近づけ、再びウッと顔を背けた。
「やっぱり」
そう言って、ローズは観念したように恐る恐る赤ん坊のオムツに手を伸ばし、その白い布を開いていった。そして、数秒後、ローズは無言で目を閉じ、顔をしかめた。
「ああ、こんなことならアンナにお使いなんてさせるんじゃなかった」
ローズはブツブツ一人で文句を言いながら、部屋の中をうろうろ歩き回って探し物を始めた。その間も赤ん坊はずっと火がついたように泣きじゃくっている。
「ちょっと待ってね、今、換えのオムツを探してるから」
赤ん坊にそんな言い訳が通用するはずもなく、ひどい泣き声の中で彼女はやっとの思いで換えのオムツを探し出し、赤ん坊のオムツ交換にとりかかった。

 ローズは顔をしかめたまま赤ん坊のお尻を丁寧に拭き、オムツを新しいものと取り替えた。冬だというのに彼女の額には薄っすらと汗がにじんでいた。   

 そうしてしばらくの格闘の末、彼女が無事その仕事を終えようとした刹那
「キャッ!」
と彼女はその顔に似つかわしくないほど高い悲鳴を上げた。赤ん坊はまるで噴水のように勢いよく放尿し、ローズはそれをまともに顔面で受け止めてしまったのだった。
「全く元気な子ね。お乳の飲みすぎよ」
仏頂面をしたまま、ローズはオムツを更に新しいものと交換し、元のように赤ん坊に当てて、産着できれいに包み直した。そして、側に置いてあった洗面器に水差しから水を注ぎ、手と顔を何回も洗った。
濡れたオムツを換えてもらって気持ちよくなったのか、赤ん坊は再び静かに眠り始め、
その安らかな寝顔を見届けると、ローズは両手を強く握りしめキッと険しい表情をして
「さあ、こうしてはいられないわ。これから葬儀の準備に取り掛からなくては」
と言って忙しそうに立ち働き始めた。


 すると場面は変わって、画面全体に色鮮やかなステンドグラスが大きく映し出された。
そこはほの明るい教会の礼拝堂で、その広い部屋の中には、黒装束に身を包んだローズとアンナ、それに屋敷の使用人らしき男女数人が集まり、葬儀がひっそりと執り行われていた。棺の中には真っ白な花に取り囲まれたマーガレットの姿があった。彼女の亡き骸は少しやつれて青白かったが、それでもまるで蝋人形のように完成された悲しい美しさをもって静かにそこに横たわっていた。花を捧げた後、アンナはワッと棺に取りすがり、声を上げて泣いた。その声につられて他の使用人達も皆すすり泣いた。ローズ一人が毅然とした表情で、まっすぐに祭壇の十字架に掛けられたキリスト像をじっと見詰めていた。
 やがて棺は墓地に運ばれ、穴の中に納められると上からゆっくりと土をかけられていった。そうっやって滞りなく葬儀は終わり、人々は肩を落として重い足取りで家路へと向かった。途中一行は墓地のはずれで放心したようにとぼとぼと歩いて来る、みすぼらしい男とすれ違った。ローズはその男の存在には全く関心を示さない様子だったが、その少し後ろを歩くアンナはその男の姿に気づくと途端に表情を硬くした。アンナは肩がブルブルと震えるのを女主人に悟られぬよう必死で耐えているようだったが、その男とすれ違う瞬間、渾身の力を目に込めてその男をキッと睨みつけた。男はそんなアンナの強い視線にも気づかぬほどぼんやりとうつろな顔で、ただ何かに吸い寄せられるように墓地の方に向かって歩いて行った。

「最低」
アンナは抑えきれぬ怒りと戦うように拳を握り締めながら吐き捨てるように小さく呟いた。その男こそ、けなげなマーガレットを死に導いたあの絵描きだということを、アンナはその場の誰にも告げられないもどかしさに打ち震えていたのだ。

 その時、鈍色の空から大粒の雨が降り始めた。

 
 屋敷に戻るとローズは黒いドレスのまま、再び忙しそうに動きまわった。アンナに弁護士を呼びにやらせ、赤ん坊を自分の養子として迎えるための手続きを早急に済ませるよう指示した。そして、ロンドン中で最も評判の良いベビーシッターを探すよう、ついでに昨日取り急ぎ見つけた乳母に代わるもっと素性の良い女を乳母として探し出すよう、アンナに命じた。
「だって、ローズ様、昨日あの女の服を仕立て屋に注文したばっかりじゃあ…」
アンナの言葉を途中でさえぎって、ローズは
「だから、あたしはああいった連中とは最初っからまともに付き合う気なんかないのよ。まあ当座はやむを得ないとしても、どこの馬の骨とも分からない移民の女なんかにいつまでもこの屋敷に出入りされたんじゃ、ハミルトン家の評判にも関わるし、第一この子の躾にも悪い影響が及ぶに違いないわ。代わりが見つかり次第、あの女には止めてもらうつもりよ」
といらついた口調でそう言った。アンナは仕方なく言いつけられた遣いを果たすために、外出の準備を始めたが
「まったくローズ様の気まぐれには付いて行けやしない」
とブツブツ独り言を言った。そうしている間にも、乳母となった長屋の女は3時間おきに足しげく屋敷に通い、赤ん坊に乳を与えた。赤ん坊は女の腕の中でさも心地よさそうに乳を飲み、それが済んだらすやすやとよく眠った。
 同じような場面がしばらく続き、男は映像を早送りした。すると、今まで登場したことのない若い女が次々に入れ替わり立ち代り現れる場面が出てきた。それがしばらく続いたところで彼は早送りをやめた。
「どうしてかしら?」
アンナが困ったように首をかしげ、背後には赤ん坊の絶叫が大音量でこだまし、そこに居合わせた者は皆、途方にくれた顔をしていた。ことに、赤ん坊を抱いたまま片方の乳房を出して乳を与えようとしている金髪の女が、最も困った顔をしていた。
「ハロルド坊ちゃんは、どうしてこんなにかんしゃくが強いのかしらねえ。あたしとローズ様とあの移民の女、それ以外の者には体を触らせようともしないで、こっちが頭がおかしくなりそうなぐらい泣きっぱなしなんだから。普通このくらいの赤ん坊はまだ人見知りなんてしないのに、まったく不思議だねえ」
そう言って、アンナがその金髪の女から赤ん坊をとりあげると、泣き声はピタリと治まった。ローズは残念そうに首を横に振って、その金髪の女は服の中に乳房をしまうとトボトボと部屋を出て行った。
「もう諦めましょう、ローズ様。今まで何人のベビーシッターや乳母がやってきたか知れないけど、みんな駄目ですよ。一日中ハロルド坊ちゃんの泣き声を聞きっ放しじゃあ、こっちが駄目になっちゃいます」
アンナは疲れきった顔でローズに訴えた。
「あたしはあの女は嫌いだけど、この子はあたし達とあの女以外の人間は一切受け付けないのね。まったくなんて子なの」
そう言いながら、ローズは赤ん坊をアンナから抱き取った。赤ん坊は澄んだガラス玉のような目でローズの顔をじっと見詰め、それからなんとも愛らしい顔でにっこりと笑った。
「まあ、あなたは。そんなにあたし達が良いのね。おお、よしよし、分かったわよ。それなら仕方ないわね」
ローズは、かわいくて仕方がないといった様子で赤ん坊をゆすったり頬を指で軽くちょんちょんとつついたりしながら、無心に赤ん坊をあやし続けた。程なくして、その部屋の中に先ほどから二人が噂していた例の移民の女が現れた。いつもはたいてい彼女一人きりだったが、その日はようやく首が据わったばかりのような乳飲み子を抱いて慌ててやって来た。
「すみません、この子に乳をやってる途中だったもんで…」
そう言って、女は側の椅子に腰掛けると、片方の乳を自分の子どもに、そしてもう片方をハロルドに含ませ授乳を始めた。ハロルドは自分で要求していない時でも、与えられればいつでも素直に乳母の乳房をくわえるのだった。
「ほんと、ハロルド坊ちゃん、ちっともわがまま言わずに、何て育てやすいの。うちのジョゼットも、少し見習って欲しい」
そう言って、乳母は両方の乳房にしゃぶりつく赤ん坊達を交互に見て、おっとりとそう言った。ローズとアンナは二人で顔を見合わせながら、不思議そうにその光景を眺めていた。
 男はそこでようやくあることに思い当たった。その女は自分の幼馴染ジョゼットの母親だったのだ。すると、ジョゼットは男の乳兄弟ということになるのではないか?そうした事実を知れば知るほど、こうして世話になっている移民の親子を影で忌み嫌い、後に露骨に毛嫌いして自分から無理やり遠ざけた、このローズ・ハミルトンの性根の悪さに男は改めて強い嫌悪感を覚えた。 

 そして、その時彼の脳裏に、先日の舞踏会でのラストと同じ映像が去来した。路上に倒れた若い男の骸。どこか見覚えのある朝黒いその顔。しかし、それ以上思い出そうとすると、またしても二日酔いのようなムカつきが、機能していない筈の彼の腹部にこみ上げてきた。

 彼が映像を止めてしまおうと壁のボタンに手をかけようとした丁度その時、映像の中で部屋のドアが静かに3度ノックされた。ローズが返事をすると眼鏡をかけて痩せた神経質そうな男が顔をのぞかせたが、その男は授乳中の乳母の様子を見て
「これは失敬」
と言って退室しようとした。しかし、その男の気配を感じるやいなや、ハロルドがまたしても大声で泣き出したので、そこで授乳は中断された。ローズは心なしか少し華やいだ様子で
エドワード、丁度いいところにいらしたわ。これからお茶にしようと思っていたの。今日はゆっくりして行けるんでしょう?これから色々決めなければいけないことも沢山あるし…」
と言って、いつになく女らしい仕草を見せた。エドワードと呼ばれたその男は
「そう、そのことで僕も話があったんだ」
と、ハロルドの泣き声に顔をしかめながらそう言って一旦部屋を出た。ローズは赤ん坊をアンナと乳母に任せて、その男の後について部屋を出て行った。
 銀製のティーセットの並んだ午後の紅茶用の背の低いテーブルを囲んで、ローズと先ほどのエドワードはゆっくりとアフタヌーンティーを飲んでいた。
「サンドウィッチはいかが?」
と愛想良く尋ねるローズにエドワードは
「いや、ありがとう。今日は少し胃の具合が良くないんで、折角だが遠慮しておくよ」
と丁寧に彼女のすすめを断った。
「あら、あなた最近ずっと体調が優れないのね。心配だわ」
ローズはそう言って、スコーンにジャムを塗ると控えめに口に含んだ。その部屋の窓からは、数日前に積もった雪がとけ残った後のぬかるみが至る所に出来ているのが見えた。ローズは白いナプキンで口元を丁寧にぬぐうとおもむろに話を切り出した。
「ねえ、私たちの式のことだけど…」
ローズは今まで男が見たこともないような奇妙な媚を目元に浮かべながらそう言った。
「ああ、それなんだが…」
エドワードは引きつったような愛想笑いを浮かべながら相槌を打った。
「マーガレットの喪が明けるのを待って、しばらくしてから季節のいい時期に挙げたいなって思うの。私、ドレスの裾を思いきり長く引きずりたいの。だから今みたいなお天気の時候は出来るだけ避けたいのよ」
「それはそうだね。結婚式の雰囲気は天気によって随分左右されるものだからね。でもねローズ、その前に…」
そう言うとエドワードは一瞬躊躇して言葉を選びながら
「あの赤ん坊、君の…ハロルドを…、親戚のどこかに養子に出すというわけにはいかないのかい?」
と言った。
 思いがけないエドワードの突然の提案に、ローズは一瞬驚いて目を見開いた。しかし、次の瞬間キッと顔をこわばらせて
エドワード、何を言うの?あの子は今やれっきとした私の子どもなのよ。あなたもそのことは随分前に了承してくれたはずじゃない?」
と突然声を荒げた。
「ああ、確かに始めはそれでもいいかなって、簡単に考えていたんだ。僕ももともと子どもは嫌いじゃないしね。でも、あの子は、…なんて言うかな、いつだって火がついたように泣きじゃくってばかりで…。僕にはその…、自信がないんだ、結婚すると同時に父親になるってことが。しかも、それは自分の子どもじゃなく誰か分からない男の…」
エドワード!」
ローズは顔を真っ赤にして叫んだ。
「それ以上言ったら承知しないわよ!ハロルドは誰が何と言おうと私の息子よ。そのことについてはいくらあなたにだって口出しはさせないわ!」
ローズのあまりの剣幕にエドワードは椅子ごと後ろに身を引きながら
「ああ、ローズ、お願いだ、そんな大きな声を出さないで。僕はただ、正直に自分の気持ちを伝えているだけなんだ」
「それがあなたの本心だと言うなら、なおさら我慢できないわ!」
ローズはカップの中の紅茶がこぼれそうになるほど激しくテーブルを叩きながらそう怒鳴った。
「だから、そんな言い方はよせって言ってるだろう?ローズ、落ち着いて。少しは僕の身にもなってくれよ。君は亡くなったハミルトン教授のお嬢さんだし、君との結婚は教授との約束でもあるわけだから、僕は何としても果たさなければならないとは思っているんだ。ただ、あの子のことは…」
「契約違反だ、とでも言いたいの?」
ローズは冷ややかな目でエドワードを見据えて言った。
「どうせあなたの狙いは父の残したこの家の財産なんでしょう?私だってそれくらい分かってるわ。父が生きていれば学内での昇進ももっと早かったでしょうに、お気の毒さま。でも、もういいの。あなたの言いたいことは良く分かったわ。さようならエドワード。この婚約はなかったことにしましょう」
そう言うとローズはエドワードに喋る隙を与えず、テーブルの上の呼び鈴を鳴らした。そして隣の部屋に控えていたアンナとは別の年取ったメイドに向かって
「お客様がお帰りよ。コートを取って差し上げて」
と言うと、エドワードの方を振り向きもしないで大きな音を立ててドアを閉めて部屋を出て行ってしまった。
 その映像を見ていた男は、半ばあっけに取られてしばらくポカンと口を開けていた。さっきまで仲良さそうにお茶を飲んでいたかと思ったら、あっという間に一方的に、ローズは婚約を解消してしまったではないか。それも、赤ん坊のハロルド、つまり自分のためにあんなにもムキになって逆上するなんて。
「何て気の強い女なんだ」
男は吐き捨てるように独り言を言った。そして、なぜかいつになく動揺していた。ローズが婚約していたなんて、彼には全く思いもよらないことだった。
「よくあんな女と結婚しようなんて…。あの男も財産目当てとは言え、まったく物好きな…」
そう呟きながら、男は映像を止め、壁の隙間から金色の円盤を取り出し、ケースに仕舞おうとしたが、うっかり手元が滑って円盤を床に落としてしまった。それを拾おうと床にしゃがみこんで、もたつきながら何とか彼は円盤を仕舞うことができた。彼の手は細かく震えていた。

 

 それからしばらくして、タバコの煙がゆらゆらと立ち昇る騒がしい場所に、彼はいた。それはいつかの賭博部屋だった。船内見取り図を見ながら、今度は迷わず自分の意思で、男はその部屋に来て、カウンターに腰掛けていた。
「何だか冴えない顔して、どうしたの?」
いつかのジーナという女がそんな彼を見つけて、隣の席に腰を下ろした。
「ああ、何かやるせなくてね。何で、僕はこんなところでこんなことやってるんだろうって。…全て無意味に思えてきたんだ」
「あら、あんた幸せな人ねえ、今頃そんなこと言い出すなんて。ここに居るあたし達はみんな、その虚しさを忘れたくてここに入り浸ってるっていうのに」
ジーナはタバコの煙を吐きながら、飲みかけのジンの入ったグラスを男の前に置いた。
「まあ、僕も前からそうだったんだ。生きてた時から酒場に入り浸って、飲んで現実を忘れて…。でも、あの時とは何か違うんだ、あの時はまだ…」
男はそう言いながら、ジーナの置いたグラスを手に取って中の氷をじっと見詰めた。
「まだ、憎しみの対象があった?」
男は手に取ったグラスの中の酒を一気に飲み干すと、大きな音を立ててグラスをカウンターの上に置いた。
「別にあいつのことを許したわけじゃない」
「でも、憎み続けることが難しくなってきたんでしょ?」
ジーナは全ての事情を察するようにそう言った。
「君は、何で?」
男はジーナの顔をじっと見詰めてそう呟いた。
「何で分かるのか、って?みんな似たようなものだからよ。この部屋に居るってこと自体、みんな似たり寄ったりな事情があるのよ。あたしもね、許すべきだけど許せない、そういう奴がいてね。もうずーっと昔の話なんだからそんなこと忘れちゃえって、まともな人は思うんだろうけどさ。そうもいかないのよね。人の心って難しいものよね」
それからしばらく二人は無言でその場に座っていた。
「あれ、見たの?」
ふいにジーナがそう言った。
「あれ、って?」
「あの図書室の…」
「ああ、見たよ。人のを。…全部じゃないけど」
「どうだった?」
「どうって…」
そこでまた再び沈黙が続いた。
「そうよね、どうって一言で言えるようなもんじゃないわよね」
そう言って、ジーナはタバコを灰皿の上でもみ消した。
「何だかさあ、ずるいよね、当局の連中は…。ああやって過去の映像を見せつけられたら誰だって、一度や二度は嫌な相手からも優しくされてたりするんだけどさ。でも、だからってそれで全てが帳消しになるってわけでもないじゃない?そんな単純なものじゃないし、そんな簡単に納得いくってもんでもないでしょ?だいたい、そんなに簡単に許せるようなもんなら、それまでのあたしの人生いったい何だったの?って感じでさ…」
 ジーナの言葉を聞きながら、男はその日見た映像を記憶の中で反芻してみた。社会的弱者に対する差別心の強いローズ・ハミルトン。彼女のその部分を自分は生前ひどく嫌悪し反発してきたのだった。しかしまた、ローズ・ハミルトンは小さい赤ん坊であった自分を必死に守ろうとする、母としての強さと深い愛情を持っていたのではなかったか?
「いや、ちがう、あれはあいつのエゴ、自己愛の延長に過ぎなかったんだ」
男は一人でそう呟きながら、ブルブルと首を横に振った。昨日まで彼のイメージの中に巣くっていた鬼のようなローズ・ハミルトンの顔と今日の映像の中の若いローズの顔とが男の脳裏で交互に入れ替わり、彼を混乱させた。男は目を閉じ、眉間に深い皺を寄せ、うつむいて頭を抱えた。
 その姿を黙って見ていたジーナは、深いため息をついて諦めたように小さく首を振ると、何を思ったか急に通りすがりの若い男の手からアルコールの入ったグラスを巧みに奪い取って、中のウオッカを一気に飲み干した。きつい酒を一息にあおって、ジーナは顔をしかめながらバタンとカウンターの上につっぷしてそのまま動かなくなった。黒いドレスからむき出しのジーナの細い肩は妙に痛々しく、男はそんなジーナの姿を見ながら彼なりに様々な思いを巡らした。この女にも何か特別な事情があるのだろう。許せない過去を背負ってこの船底の賭博部屋でいつまでも時間つぶしをしているジーナの身の上をあれこれ憶測するうち、男は自分の心が一層やさぐれていくのを感じた。


「ちょっと飲みすぎではないですか?」
しばらくして二人の背後からそう言ってたしなめる声が聞こえた。
「うるさいわねぇ~、ほっといてよ~」
急激に酔いが回ったジーナは、悪酔いして背後の相手を追い払おうと右腕を大きく後ろに振り上げた。

 しかし、そこで大きくバランスを崩した彼女は、そのままカウンターの椅子から滑り落ちそうになった。
「おっと、危ない」
そう言って、背後の声の主は崩れ落ちそうになるジーナの体をしっかりと抱きとめた。ジーナの長い赤毛は青い服を着たその人物の肩に触れ、その金色の髪の毛と一瞬交じり合った。
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
そう言いながら、自分の肩にかかったジーナの髪の毛を優しくもとに戻そうとするのは、男の見覚えのある顔、舞踏会で分かれたきりになっていたターレスだった。 
「何であんたがこんなところに?」
男は驚いてそう言った。
「あら、知り合いなの?」
ジーナはターレスの顔をチラッと見て、礼も言わずに素早く体を離した。そして、警戒したような怪訝そうな目つきでターレスの様子を伺った。
「あなたは余程この場所がお好きなようですね」
ターレスは困ったような笑顔を浮かべながら男に親しみを込めてそう言った。
「ああ、何となく落ち着くんだ。性に合ってるんだよ、僕にはこういう場所が」
男は自嘲的にそう答えた。
「本当にそうでしょうか?」
ターレスは含みのある笑顔でそう言った。
「何よあんた、その言いぐさは?」
酔っ払ったジーナは、ターレスにからみ始めた。
「この人がここが好きだって言ってるんだから、いいじゃない、ほっといてやんなよ。だいたいあんた、ここに何しに来たんだよ。ここはねえ、あんたみたいな苦労知らずのお坊ちゃんが来るような場所じゃないんだよ。とっとと帰んな」
ターレスはそんなジーナの言葉に全くひるむことなく、穏やかにこう答えた。
「私はここに、この方を迎えに来たのです。彼はここにいるべき人ではない」
「何で、あんたそうやって勝手に人のこと決めんのよ!」
ジーナはますます酔いがまわって一層激しい口調でターレスに食って掛かったが、ターレスは相変わらず穏やかな笑顔のままジーナの目をじっと見詰めて
「それからあなたも。あなたも本当はここにいるべき人ではない」
と静かにそう言った。
「何よ!あんたにあたしの何がわかるのよ~!」
ジーナは怒ってこぶしを振り上げながらターレスに殴りかかろうとしたが、ターレスは顔色ひとつ変えずにジーナの細い手首をつかんだ。
「イヤ!バカ!離せ!このスケベ~!」
ジーナはまるで駄々っ子のようにバタバタと身をよじって暴れた。
「わかった、わかった」
傍でその様子を見ていた男は、二人の間に入って、ジーナをやんわりとカウンター席に押し戻した。
「今日はどうもゆっくり飲めそうにないんで、帰るよ」
元来もめごとが好きでない男は、ジーナにそう告げると
「行こう、ターレス」
と言って、そそくさとその場を立ち去ろうとした。
「お嬢さん、また来ますよ。今度はあなたを迎えに」
「何を~!?」
ターレスの言葉を聞いたジーナが再び荒れ狂う前に、男はターレスの肘をつかんで逃げるように部屋の外に出た。

 大きな音をたててドアを閉めると男はホッと肩をなで下ろし、深いため息をついた。
ターレス、君は、酔っ払いをからかうのが趣味なのか?」
男はそう言って横目でターレスをあきれたように見た。
「いいえ、そんな変な趣味は私にはありまあせん。ただ、本当のことを言っただけなのに彼女はひどく怒ってしまった。もっとも、本当のことを言われると大抵の人は怒るものですが…」
ターレスは爽やかにそう言った。
「それに、私は効率よく目的を果たしたまでです。私はあなたを迎えにここに来た、やはり前世のご縁があるせいでしょうか?なぜかピントくるのです、あなたがどこにいるか。…そして、あなたは自ら進んで部屋を出た。私は一言もあなたを促していないのに…」
そう言うとターレスは楽しそうに笑った。
 男は、ターシャのみならずターレスにまで自分の性質を見透かされているような気がして、ムッとして天井を見上げた。
「ルーカス、あなたがここに来たのには何か思うところがあったのでしょうね。でも、こんなところで時間をつぶしてもあなたの求めるものはここには何もありません。もし良かったら、これから私が行く所にしばらくお付き合い願えないでしょうか?」
ターレスは極めて礼儀正しく男を誘った。
「ああ、君がどこに行くのか知らないが、どうせ僕はいつも暇を持て余しているんだ。別にどこでも付いて行くが、ただし…」
「ただし?」
ターレスは、きょとんとした顔をして男の言葉を繰り返した。
「さっきみたいな面倒はごめんだ。僕は厄介ごとに関わるのは昔から嫌なんだ」
「そうですか?それは知りませんでした。あなたはてっきり面倒なことに自分から近づいて行くのがお好きなのだと…」
そこまで言って、ターレスは男の不貞腐れた目線に出会い、急いで言葉を付け足した。
「分かりました。極力、穏やかに過ごせるように努力しましょう」
「そうだ、はじめからそう言えばいいんだ」
男は気だるそうに首をまわしながら仏頂面をしてそう言った。
「では、行きましょう。そうだ、その前にこれを。私の物ですが、良かったら使ってください」
そう言うと、ターレスはズボンのポケットの中から何か黒っぽい小さな布を取り出して、何気なく男に手渡した。
「なんだ、この布切れは?」
男は手渡されたその不等辺六角形の布を二枚つないで一部袋状になった不思議な形の布切れを両手で引っ張りながらそう尋ねた。その布は弾力性があり、一方向によく伸びた。
「それもあなたの生きていた時代には違った形だったのかもしれませんね。これから行くところにはそれは是非必要ですから、あなたのお好みではないかもしれませんが、とりあえず今回はそれを使ってみて下さい」
ターレスは男の質問には直接答えず、もってまわったような意味深な言い方をした。これから何が始まるのか、男は不信がりつつ、ターレスの後に付いて長い階段を上り迷路のような通路を歩いて目的地に向かった。そして、そのガラス張りのドアの前にたどり着いた瞬間、彼は色々なことに合点がいった。
「ここは…」
そう言って黙りこむ男に向かって、ターレスはにっこりと、いつもの爽やかな微笑を投げかけた。