第10章 船内プール

第10章 船内プール

「ルーカス、どうされたのですか?随分手間取っているようですが、何か不具合でも?」
薄緑色のカーテンの向こうから、ターレスは男に声をかけた。
「ふ、不具合って…、ちょ、ちょっと待ってくれよ。この布は…、本当にこんな付け方でいいのか?」
「どれどれ、ちょっと失礼」
ターレスはカーテンの隙間から中を覗き込むと
「そう、それでいいのですよ」
と、こともなげに言った。
「いいのですよ、って、そんな簡単に言われても…。こんな破廉恥な格好で人前に出るというのは、ほとんど犯罪行為じゃないのか?」
「そんな心配は無用です。20世紀後半以来、そのスタイルは公式な場所でも認められていますし、私だって、ほら」
そう言いながら、ターレスは勢いよくカーテンを開けて男の前に姿を現した。彼は引き締まった無駄のない体に競泳用の水着をすっきりと身に着けていた。男は、目のやり場に困りながら、体を斜めにして、カーテンの隙間に体を隠しながら
「こんな恥ずかしい格好をよくもみんな出来るものだ」
と、もじもじしながら言った。
「別のタイプのものもあるので、次回からはあなたはそれを使われたらいいですよ。でも、スピーディーな動きにも無理なく対応できるので、私はこれを愛用しているのですが…。そんなことより、さあ、早くこちらへ。みんな似たようなの格好なのですから、じき慣れますよ」
ターレスはそう言うと、男の腕をつかむと更衣室の外へ彼を連れ出した。
 すりガラスのドアを開けると、そこにはターレスの言った通り裸同然の老若男女が大勢ひしめきあっていた。そこは、男が以前ターシャに案内されたことのある船内プールだったのだ。
 男はその部屋の中の異様な光景に絶句した。彼の目の前を、下着よりも小さな必要最低限の布で体を隠しただけのグラマラスな女性や、体積が標準の3倍はあるかと思われる男性が全身の贅肉に波紋を作りながら、何食わぬ顔で通り過ぎていった。
「確かに、僕らはこの中では比較的まともだな」
 男は部屋の雰囲気に圧倒されながら、小さくそう呟いた。
「ここはプールといって、水泳を練習する場所です。それは、きっとあなたもご存知でしょう。しかし、このプールには他にも目的があって…」
プールサイドでそう説明するターレスの言葉を男が全部聞き終わらないうちに
「ちょっと、ごめんよ!そこ、どいた、どいた!」
と、彼の背後から大きな声が聞こえた。男が驚いて声のする方を見ると、威勢のいい少年が助走をつけてプールの中に飛び込もうと、男のいる方に走ってくる姿が見えた。慌てて男が体をよけると、その少年は大きな水しぶきを上げてプールの中に勢いよく飛び込んだ。
「なんだ!あいつは!全く、はた迷惑な…」
男は顔にかかった水しぶきを嫌そうに手でぬぐいながら少年の飛び込んだ辺りをにらんでそう言った。
「この部屋はかなり人口密度が高いですから、気をつけていないと…ほら、まただ」
 今度は逆の方向から人々のどよめきが聞こえた。大勢の人の波が大きくうごめき、男とターレスはその人ごみに飲み込まれた。
「キャー!ちょっと押さないで!」
「イタタ!もう少し後ろに下がってくれ~!」
人々はもつれ合いながらプールの方に押されていった。
「うわー!」
にぎやかな悲鳴を上げながら、そのうちの何人かがプールの中に落ち、また、何人かはわざと弾みをつけてプールに飛び込む音が聞こえた。その、一見非常事態とも思えるような場面に遭遇しながら、なぜかそこにいる誰もが笑顔だった。中に落ちた人間は、ふざけて近くにいる他の人間の足を引っ張り、プールの中に引きずり込んだ。
「なんだ?この騒ぎは?」
男は焦りながらその場から必死に逃げようとした。
「こうなると、もう逃げられません。一種のお祭りのような状態ですから」
ターレスは、冷静にそう言ったかと思うと、
「…ああ、だめだ。つかまってしまった…。では、お先に」
と言って、笑いながらプールの中に落ちて行った。
「おい、ターレス、ちょっと待ってくれ!一人にしないでくれ!僕は…、僕は!」
そう叫んでいた男も、やがて右足を何者かにつかまれて、ずるずるとプールのふちに引っぱられていった。泳げない彼は左足を踏ん張って必死に抵抗したが、その抵抗も虚しく、男はプールの中に引きずり込まれてしまった。
「やめてくれ~!助けてくれ~!」
大きな水しぶきを上げて男はプールの中に落ち込んだ。
「あ~!死ぬ~!」
頭まで水の中に浸かった彼は、口から大きな泡をゴボゴボ吐きながら、必死に体を動かした。
「助けてくれ~!死ぬ~!」
「大丈夫、死にませんよ。そもそも、我々はまだ生まれてもいないのですから」
必死にもだえ苦しむ彼の耳に、ターレスの冷静な声が聞こえた。男が苦しみに表情をゆがめつつ何とか水中で目を開けると、彼の目の前には穏やかに微笑むターレスの顔があった。
「体の力を抜いて、普通に息をしてみて下さい」
「だ、だめだ!そんなことをしたら、ホントに死んでしまう!」
「だから、まだ死にませんってば…」
ターレスはあきれて苦笑いしながら、しばらく男がその状態に慣れるのを待った。
 かなりの時間をかけて男は、その水の中が彼の思っていたものとは違
うということを体で把握していった。その水は温かくほのかな塩分を帯びていて、なおかつその中で普通に呼吸が出来るのだった。
「なんだ、…死なないじゃないか」
男はそのことが分かるとその場で大きく深呼吸してみた。しかも生前テムズ川で溺れた時のように体は重くなく、陸上を移動するよりも軽いかすかな抵抗感しか体に感じないのだった。
「なんだ、水の中ってこんなに楽なのか」
男は、気の抜けた声でそう言った。 先ほどまで強く握り締めていた彼の手のひらにはくっきりと爪のあとがついていた。
「あちらの世界で実在する水の中はもちろんこんなものではありませんが、このプールは少し特殊な作りになっています。そう、いわばこの中は、母親の胎内の様子を疑似体験できる空間になっているのです」
「母親の胎内…」
 男はふいに昨日図書室で見たマーガレットの映像を思い出した。若く可憐で美しい、優しい母の胎内。それは温かく清らかで心から安らげる場所であったに違いない。男は再び深呼吸しながら、全身の力を抜いて水中に体を投げ出した。まるで無重力空間を遊泳しているように、彼はその肉体の存在感から解き放たれた心地よさにうっとりと目を閉じた。そうやって水中でたゆたいながら、彼は心から安心している自分に気づいた。自分の全存在を受け入れ、全てが許されているような、その甘く心地よい感覚に彼はしばし我を忘れた。
 どれくらいそうしていただろうか、男がふと我に帰って目を開けると、そこにターレスの姿は見あたらなかった。水中は澄んだ薄い青色で、まわりの景色はまるで海の中のようだった。ターレスばかりかあれだけ沢山いたはずの人間の姿はまったくなく、代わりにそこには様々な種類の魚達が自由に泳ぎまわっていた。彼の目の前を無数の魚の群れが通り過ぎて行った。
いつもの彼ならターレスの不在にひどく動揺するところであろうが、なぜかその時、彼の心は不思議と穏やかだった。彼は目の前を通り過ぎる魚を真似て、体を水平にし、ゆっくりと足を動かしてみた。すると何の抵抗もなく彼の体はグンと前に進んだ。彼はこのプールの中で、(彼の知る限り)生まれて初めて泳ぐということに成功したのだった。
 それは彼にとって、実に画期的な体験だった。水中で泳ぐということはこんなにも開放的で気持ちのよいことなのだ、と 彼は一瞬驚き、その驚きはやがて感動に変わった。
 ターレスの話によるとこの感覚は普通の水の中とは違うということだったが、男は妙に嬉しくなって、体を水中に解き放ちしばらくの間魚になったような気分でプールの中を泳ぎまわった。
 そのプールの中は、はじめ外からみた印象以上に男には広く感じられた。否、実際水中から眺めると、果てしなく広い海のように彼には思えた。温かい水中を色とりどりの魚達がゆったりと泳ぎ、プールの底には花園のような美しい珊瑚礁が広がっていた。その珊瑚の絨毯とすれすれの距離を保ちながら、男はしばらく夢中で遊ぶ子どものようにその果てしなく広い水中を得意になって泳ぎまわった。そうやって泳ぎながら男はふと、生前、しかも子どものころに聞いた東洋の御伽噺の中に出てくる海底の城のことなどをぼんやりと思い出していた。「なぜそんな異国の物語を自分は知っていたのだろう?その話の中には確か亀が出てきて…」そんなことを漠然と思い返していると、不思議なことに彼の目の前に、今彼が思い描いていた通りの大きな海亀が姿を現した。
「なんだ、随分奇遇だなぁ…」
 男は何気なく海亀の顔を横目でちらりと見た。すると、海亀は黒くつややかな優しい目で男をじっと見詰めた。何となくその目に吸い寄せられるような不思議な気持ちで、男はその海亀の泳ぐ方に一緒に泳いで行った。
 突然男の前に現れた海亀は、男との間に一定の距離を保ちながらゆったりと泳いでいったが、それはまるで彼をどこかに案内しているかのようでもあった。美しい珊瑚の絨毯やうっそうとした海草の林の間をすりぬけながら、海亀は徐々に深い海の底へ男をいざなった。
 そうやって、しばらく経ったころ、男の目の前の海面は一旦途切れ深い溝につながる場所に行き着いた。
「これは海溝か?」
 生前目にした図鑑で紹介されていた海底の挿絵の説明書きには、確かそんな単語が載っていたのではなかったか?と、自分の記憶力の良さに変に感心しながら、男はしばらくその眼下に見える深い溝を覗き込んだ。先ほどの海亀は一旦進むのをやめ、その黒い瞳でじっと男を見詰めた。
「なんだ、そんなに見るなよ…」
 男は、その亀のもの言いたげな視線に少し戸惑いながら、視線をそらして再びその深い溝の中を覗き込んだ。すると、海亀は、ゆっくりと体の向きを変え、その溝の底に向かって再び泳ぎはじめた。
「えっ、そっちに行っちゃうのか?」
 男は一瞬躊躇したが、亀の姿が見えなくならないうちにと、思い切ってその溝の中に潜ってみることにした。この水中の開放感は、臆病な彼の心を幾分大胆にしていた。
 その溝の中は外から見たよりも明るく、しかし男の想像以上に深かった。しかも溝の幅は途中から徐々に狭くなっていた。男は一瞬あまり深みにはまらないうちにひきかえそうかとも考えたが、しかしどういうわけかその狭い空間は、彼に不思議な安心感をもたらすのだった。特に急いで帰らなければいけないという時間の制約もなく、しかも、その体は未だ実態を伴わない仮の状態、それならばこの不思議な空間をもことさら恐れる必要はない、男はそう思った。否、もっと正確には、彼はまだ帰りたくないと感じていた。その深い溝の中は温かく、彼にはとても居心地が良かったのだ。
 やがてその溝は、溝と言うよりむしろ縦穴と言うのが適切なほど幅が細くなっていった。そして少しカーブした先で行き止りになり、その行き止まりの奥に、小さな小部屋のような空間が広がっていたのだった。その空間は、ほんのりと明るく、壁面はびっしりとピンク色の珊瑚で覆われていた。小部屋の入り口近くで、先ほどの海亀が男の来るのをじっと待っていた。男は招き入れられるかのように、その珊瑚の小部屋の中に入って行った。
そこは暖かく優しく甘い良い香りのするところだった。ちょうど珊瑚が一部盛り上がってできた台のような場所に、男はゆっくりと体を横たえ、大きく深呼吸した。すると彼は全ての煩わしさから解き放たれたような安堵感に包まれた。男は体を小さく丸めてうっとりと目を閉じた。ピンク色の珊瑚は柔らかく、まるで毛布のようで、男は全身を優しく包まれたような心地がした。もうどこにも行きたくない、と感じながら、今まで一度も感じたことのない安心感を、男はその空間で感じていた。
「なぜだろう?こんな気持ちになるなんて」
男は一人呟いた。そしてゆっくりと小部屋の入り口付近に目をやった。 そこには先ほどの亀が、黒い瞳でじっと男を見守っていた。
 彼は、ふと自分の横たわっている珊瑚の台の周りに目をやった。そこには人の頭よりも大きな二枚貝と、難破船の中から発掘したかのようなカキや海草に覆われた砂時計があった。男は何気なくその砂時計を逆さまにして中の砂が落ちるのをぼんやりと眺めた。
ゆったりとした時間の流れは、まるでそれが永遠であるかのごとく穏やかだった。その場所で動いているものは、その砂時計の中の砂ばかりだった。
「ああ、このままいつまでもここでこうしていたい」
男は感じたことをそのまま声に出して、珊瑚の台の上で大きく伸びをした。そして再び体を丸めると、本当の赤ん坊のようにすやすやと安らかな寝息をたてて深い眠りに落ちていった。
 眠りながら、男は夢を見た。そこは真っ白な部屋の中で、男は大きなキャンバスに向って絵を描いていた。キャンバスには古い技法を模して描かれた聖母子像、幼いキリストを胸に抱いたマリアは深いブルーのローブをまとって、慈愛に満ちた笑みを口元にたたえていた。彼はそのまま視線を右にゆっくりと移した。
 キャンバスの向こうには聖母の衣装を身に着けたモデルの姿があり、それは彼の生みの母マーガレットだった。そして、その胸には幼いハロルド、つまり赤ん坊の頃の自分が抱かれ、スヤスヤと小さな寝息をたてて眠っていたのだった。マーガレットは、絵の中の人と同じ完成された美しい微笑を男に投げかけた。男は何も言えず、身動きできずにそこに立ち尽くしていた。何か話しかけたいと思っても、それは言葉にならなかった。男が「母さん」と呼びかけるには、彼女はあまりにも清らかで気高く、そして現実感がなかった。それでも男はマーガレットの姿から目が離せずにいた。彼女の胸で安らかに眠る赤ん坊はよく肥えた血色の良い頬をしていた。男はその赤ん坊のこともじっと見つめた。何も知らずに美しい母の胸に眠る、この赤ん坊の姿を見ていると、ふいに男の心に嫉妬心が湧きあがった。「なぜ、おまえがそこでそうして安らかに眠っているんだ。その人に抱かれるはずなのはこの僕だ。僕はおまえで、おまえは僕なんだ」。男がそう思った瞬間、彼の背後から小さな低い羽音が聞こえた。それは大きな蜂の羽音で、蜂はゆっくり旋回しながら部屋の中を飛び回った。マーガレットが小さな声で「あっ」と言った瞬間、その蜂は赤ん坊の頬に止まり、そこに針を刺した。突然赤ん坊は激しく泣き出し、その声を聞いたマーガレットは氷のようにっ体をこわばらせた。そして、赤ん坊を抱いたまま、ふっと気を失ってその場に崩れるように倒れた。男は慌てて助け起こそうとしたが、やはり彼の体は動かず、一言も発することさえできなかった。彼の目の前のキャンバスからはだんだんと色が抜け落ちていった。濃い青のローブは色あせた水色になり、輪郭線も徐々に薄くなっていった。
「ああっ!」
男が必死で手を伸ばして画面に触った時には聖母子の像はほとんど見えなくなり、大きな画面には、中心に描かれた赤ん坊の姿が薄っすらと残っているだけだった。その赤ン坊の頬の辺りから血のような赤い絵の具が小さくにじんでいた。そして、画面の向こうに横たわる母の姿もあっという間に色がなくなり、マーガレットの姿は白い砂の塊となった。
「母さん!」
男は初めてその夢の中で叫んだ。
 すると一陣の風が吹いて、砂の塊をあたりにばら撒き、砂の中から生身の赤ん坊の姿だけが現れた。赤ん坊はまた激しく泣き出した。
 男は悲しみと怒りに泣き崩れた。そして、赤ん坊と一緒になって声をあげて泣いた。
 キャンバスに残った赤い絵の具はどんどん広がってキャンバス全体を真っ赤に染め、更にその赤はキャンバスから滴り落ちて、床にひざまずく男の上にも滴り落ちた。それは真っ赤な血だった。
 キャンバスからあふれ出た血はあっという間に床をつたって広がり真っ白な部屋を真っ赤に染めた。床の上に転がった赤ん坊は徐々に血の海に溺れていった。そして今にも赤ん坊の泣き声が止まりそうになった時、黒い服を着た腕に抱きかかえられた。それは喪服を着た、年取ったローズ・ハミルトンだった。ローズは血にまみれながら赤ん坊をその胸に抱いた。ローズの胸に抱かれた赤ん坊はどんどん姿が小さくなりやがてひとかけらのパンになった。血にまみれたローズは、真っ赤な血の海の中を黒い喪服を引きずりながら男の方に向かって歩いて来た。
「来るな!」
男は叫んだ。
「来るな、来ないでくれ!」
 ローズは男に、赤ん坊が姿を変えたひとかけらのパンを差し出した。
「お食べ。これはあなたよ」
「嫌だ!」
 すると、ローズは手に持ったパンを自分で食べた。そして、愛しそうに
「ああ、ハロルド」
と言って男に向かって両手を広げた。
血まみれのローズに抱きしめられた男は
「やめろ!離してくれ!」
と大声で叫んで、その声で目を覚ました。
「ああ、嫌な夢を見た…」
 男は額を手で押さえながらしばらく呆然としていたが、その場所の持つ独特の心地よい雰囲気を思い出して、幾分気を取り直した。側の砂時計の砂はまだ半分以上残っていて、永遠とも感じられる時間の上にゆっくりと砂を落としていた。男が入り口付近に目をやると、そこには彼をこの場所にいざなった海亀の姿は見当たらなかった。男は再びゆっくりと目を閉じて、その空間の持つえもいわれぬ心地よさにうっとりと身をまかせた。
「ああ、何ていい気持ちなんだ」
 男は丸い珊瑚の小部屋の中にゆったりと浮かんでいた。そして彼は、ターレスの言っていたこのプールの役割について改めて思い返してみた。
 確かにそこは「母親の胎内」を疑似体験できる場所のように彼には感じられた。暖かい水に体を漂わせながら、男は擬似胎内の心地よさにしばし我を忘れた。すると、しばらくして
「えっ?ちょっと、姉さん。…それ、本気なの?」
と唐突に、どこからともなく甲高い女の声が聞こえてきた。
 男はギョッとして、体をこわばらせ、あたりをキョロキョロ見まわした。
「そうよ、本気よ。本気に決まってるじゃない」
同じ方向から今度は別の女の声が聞こえてきた。男はなんだか気味が悪くなって、声のする方をじっと凝視した。そこには先ほどの砂時計と、旅行鞄ほどの大きな二枚貝があるだけだ。男はその貝を、固唾を呑んでじっと見詰めた。
「だって、姉さん、そんなの無謀よ」
先ほどの女の声は確かにその貝の中から聞こえてくるのだった。男は恐る恐る手を伸ばして、その貝を持ち上げ自分の方に引き寄せた。
「そんなこと言ったって、今さらどうしようもないじゃない」
その声は確かに貝の中から聞こえてきていた。男はいつもの好奇心がまたしても自分の中でむくむくと大きくなっていくのを感じた。彼は一瞬躊躇したが、大きく息を吸い込んで思い切って貝の口をこじ開けようとした。貝の口は彼の予想以上に固く、そう簡単には開かなかったが、どうにか5センチほど開いた隙間から、貝は苦しそうに大人の握りこぶし大の、水晶に似た透明な玉を吐き出した。その玉は不思議なきらめきを放ちながらゆらゆらと水中を漂った。男は貝から手を離し、代わりにその透明な玉を両手の中にすっぽりと収めた。
「こうなることは始めから予想してたわ」
その玉は、尚も言葉を発し続ける。 男はゆっくりと手を開いて、その玉の中を神妙な面持ちで覗き込んだ。その玉には、男がその日図書室で見たのと同じように、人が生活している様子が映し出されていたのだった。
「だったら、姉さんどうして…?」
そう言って困った顔をしているのは、30台前半と思われる女だった。細い顔にアーモンド形の奥二重の目はいかにも東洋人らしかった。 しかし、髪の色は部分的に茶色っぽいので、男にはこの女の国籍が分からなかった。どこかで見覚えのあるような気もするその女の顔を、男はしばらく凝視した。異人種の人間の顔は、慣れるまでなかなか識別しにくいものだ。
「あの男とは、そもそもはじめから長く付き合うつもりなんてなかったのよ。ただ私は…」
そう言って口を真横にきつくむすんでいる「姉さん」と呼ばれる四角い顔の女は、意志の強そうな目でキッと若い方の女をにらんだ後、ゆっくりと視線を自分の腹部に落として、ふいにすがすがしい面持ちで何か言いかけた。するとそこに
「たっだいま~。あっ、ケイコおばちゃん来てるの?」
という、にぎやかな子どもの声が響いた。
「アイちゃんお帰り、学校、今日は早かったのね」
四角い顔の女は優しそうな顔で子どもの方を振り返った。そこに現れた少女の顔を見て、男は
「あっ」
と声を上げた。それは、先日男が行きがかり上偶然悪霊から救った、あのオトクラアイコという少女だったのだ。
「うん、今日は先生達の研修会で半日授業だったの。それよりさぁ、聞いてよ、おばちゃん」
アイコはランドセルをソファーの上に放り投げて、テーブルの上のお菓子をつまもうとした。
「ちょっとアイコ、ちゃんと手洗ったの?それに、リビングにランドセル置きっぱなしにするの、いいかげんやめてくれない?自分の物は自分の部屋に持って行きなさいって、いったいあんたは何回ママに言わせるつもりなのよ?」
奥二重の女はヒステリックにそう言った。
「は~い」
気だるそうな声を出しながら、アイコは渋々ランドセルを持って階段を上って行った。
「何だ、この玉は?それに、何でまたあの女の子がこんなところに…」
男は怪訝な面持ちでその水晶のような謎の玉を見詰め続けていた。
 しばらくすると再びアイコは映像の中に戻ってきた。そして、テーブルの上のお菓子にかじりつきながら四角い顔の女に向かって一生懸命喋りはじめた。
「あのさぁ、おばちゃん。あたし最近なんか変なんだよね」
「変って、何が?」
四角い顔の女は顔に似合わず優しい声でのんびりとアイコに尋ねた。
「それがさぁ、あたしそんなの今まで全然なかったんだけど、ある日突然壁に変な顔が見えたり、変な声が聞こえたりしてきて…」
それを聞くと、四角い顔の女は急に心配そうに
「アイちゃん、それホントなの…?ねえ、ヒロミ、あんた、この子、ちゃんと病院に連れて行ってあげたんでしょうね?」
と、振りかえって奥二重の女に急に強い口調でそう言った。
 アイコは慌てて
「おばちゃん、そんな大したことじゃないの」
と言葉を付け足した。
「そんなことがあったのは一回だけだったし。多分、学校でコックリさんとかしたから、そのせいだと思うんだ。でも、ホントその時は怖かったんだよ。おばちゃんにもらったピエロのオルゴールが突然鳴り出したりしてね。…だから、あれ怖くなって捨てちゃったの。せっかくヨーロッパから買ってきてくれたのに、ごめんね、おばちゃん」
「アイちゃん、いいのよ、そんなこと。だけど、ホントにもう大丈夫なの?」
四角い顔の女は手を伸ばしてアイコの額に優しく触れた。
「うん、もう平気。それにその後は、なぜかやけに気分いいの」
アイコは猫のようにくつろいだ表情で四角い顔の女に擦り寄って甘えた。
「それはこの前、男の子に告白されたからでしょ?」
二人の後ろから奥二重の女が冷やかすようにそう言った。
「ちがうよ、ママ。あれはそんなんじゃなくて…」
「じゃあ、何なのよ。『あれ、おまえだからな』って、それはどう考えても告白以外の何ものでもないでしょうが」
アイコの母親は茶化すように声色を変えて、おどけて見せた。
「だから、知らないよ、そんなの。分かんないからママに聞いたら、そうやって決め付けるんだから。あ~、大人ってこれだからなぁ」
アイコは真っ赤になって母親の言葉を否定した。
「ところで、おばちゃんこそ、何で今日はこんな時間にうちにいるの?おばちゃんの学校も研修会?」
そう言って、アイコは話をそらした。
「ううん、おばちゃんはね、今日は学校を早退したのよ」
「ええ?先生が早退するなんて、よっぽどのことだね。どうしたの、おばちゃん」
「うん、おばちゃんね、今日は病院に行ってきたの」
「えー?おばちゃん大丈夫?どっか悪いの?」
四角い顔の女は柔らかな微笑を浮かべながら、ゆっくりと首を横に振った。
「ううん、あいちゃん、ちがうの。おばちゃん、病気じゃないのよ。おばちゃんはね…」
 そこで、ほんの少し出来た沈黙の瞬間に、男はなぜか妙な胸騒ぎを感じながら映像を見詰め続けた。
「赤ちゃんができたのよ」
 その言葉を聞いた瞬間、男はなぜか激しい動悸を覚えた。そして不思議と今まで何ともなかった水中で、訳の分からない息苦しさを感じた。 彼の口から小さな水泡が沢山出はじめた。玉から視線をはずしてあたりを見回すと、沢山あった砂時計の砂がもうほんの少ししか残っていなかった。男は、奇妙な焦りを感じ始めた。
「どうしたんだ、なんで急に苦しくなるんだ」
男はどうしていいのか分からず、玉をその場に放り投げると、それでもとりあえずそこから立ち去ろうと小部屋の入り口の方に向かって泳ぎ始めた。そうしている間にも、口から吐き出す泡は徐々に大きくなり、彼の息苦しさは増すばかりだった。竪穴のような細い通路を抜け、彼は急激に水深を上げていった。息苦しさは一層増して、焦りは更に強くなっていった。
 周囲の水の色が紺碧から次第に明るいブルーへと変わる頃、大きな水しぶきを上げて男はプールの水面に顔を出した。無我夢中で激しく肩で息をしている彼の耳に
「どうでしたか?多少うまく泳げるようになりましたか?」
と、聞きなれた声が届いた。彼が声のする方に向くと、そこにはいつも通りさわやかな表情のターレスの姿があった。
 そこは彼が引きずり込まれた時と全く変わらない、人であふれかえる巨大なプールの中だった。
「な、なんだ、これは?」
男は尚も荒い息づかいのまま動揺を抑えきれずにそう言った。
「ここは、先ほども説明したように、プールといって…」
「それはさっきも聞いた。だけど、この水の中は…。これはまるで海、しかもとびきり広い海洋みたいじゃないか」
するとターレスは顔色ひとつ変えずに
「そうとも言えますね」
と、あっさり言った。
「この中は、いったいどうなってるんだ?」
未だ興奮の覚めやらない男に、ターレスは
「ルーカス、少しお疲れのようですね。そろそろあがって少し休みましょう」
と、男をプールサイドにいざなった。

 優美な壁紙の幾何学模様が印象的なターレスの部屋の中は、以前と同じようにすっきりと整えられ、サイドテーブルの上には暖かな色の花々が大きな花瓶にたっぷりと生けられていた。
「ルーカス。では、あなたはその場所で、あの時の少女の映像を見たのですね?」
白いバスローブを羽織ったターレスは、銀製のティーポットから熱い紅茶をカップに注いだ。
「そうだ、確かにあれはあの時の小学生だった」
ターレスのすすめるミルクと砂糖を断ってベッドに腰を下ろした男は、白い湯気の立つ繊細な作りの白磁ティーカップを静かに口元に運んだ。
「そこで彼女は何を?」
ターレスは側のソファーに腰掛けて、暖かいミルクティーの湯気に軽く息を吹きかけながら、男にそう尋ねた。
「さあ、何か良く分からなかったが、母親とその姉と三人で、別段他
愛ない会話を交わしていた。その母親の姉とかいう女に子どもが生まれるという話を聞いたあたりで、僕は突然息苦しくなってそのまま急いで上に上がったから、それ以上は聞けなかったが…」
男は飲みかけのカップの細かいすかし模様を指でなぞりながらそう答えた。
 それを聞くと、ターレスはしばらく黙って考え込んでいたが、やがて
「どうやらあなたと私は、次の世でも相当ご縁が深いようですね。そして、奇遇なことにあの少女とも…」
と言って、意味深な笑みを浮かべた。
「何だ、それはどういうことだ?」
男が尋ねると、ターレスは以前と同じ場所から例の小さな装置を取り出して、壁の大きな四角い鏡に向かって指示を送った。すると、先ほど男がプールの中の珊瑚の小部屋の中で見たのと同じ場所が、再びその鏡の中に映し出された。そこにはあの奥二重の女と若い男がいた。二人は食卓を挟んで何か不思議な白黒写真のようなものを見ながら楽しそうに語らっていた。
「それで?どっちだったんだ?」
若い男は待ち遠しそうに、弾んだ声で奥二重の女に尋ねた。女はその写りの悪い白黒写真を指差しながら、もったいぶったように説明した。
「ほら、よく見て。ここが頭でこっちがお尻。で、ここにあるちっちゃいいのが…。見える?この丸いの…」
「…ってことは、…男の子、か?」
「そう」
男の顔に一層明るい笑みが浮かんだ。
「そうか!男の子か。…じゃあ、一緒にキャッチボールしたりサッカーしたり、…もっと大きくなったら一緒にバイクでツーリングしたりもできるんだ」
若い男はテーブルの上に頬杖をついてうっとりと夢想するようにそう言った。
「やだ、危ないことは教えちゃだめよ。この子は大人しい男の子に育てるのよ」
女はいつになく優しい口調でゆっくりと男をたしなめた。
「この子にはピアノやバイオリンを習わせて…。アイコの時は前の旦那との離婚や何だかんだで、落ち着いて躾もろくにできなかったけど、でもこの子は…。今度はあなたと一緒だから、きっと落ち着いて子育てができるわ」
「でも、僕は一緒にサッカーがやりたいんだよ」
男は甘えた声を出して上目遣いに女を見詰めた。
「どうぞ、それはあなたのご自由に。でも、バイクはだめ、危ないもの」
そう言いながら、二人は見詰め合って嬉しそうに微笑みあった。
「…ところで、ケイコ姉さんのところは、何だか大変なことになってきたみたいだね」
一息ついたところで、その若い男は心配そうにそう切り出した。
「そうなのよ…」
奥二重の女は急に神経質そうな縦皴を眉間に作り、テーブルの上に乗せられた白桃の皮を剥きながらそう言って、小さなため息をついた。
「姉妹で同じ時期に子どもが出来るって、それはそれでおめでたいことなのかもしれないけど…」
「姉さんはホントに一人で生んで育てようってつもりなのかなあ?」
若い男も、女と同じように表情を曇らせた。
「ええ、姉さんは始めからそのつもりで、計画的に妊娠したらしいわ」
「ええ?だったら相手の男はそれを認めたのか?」
「さあ、そこまでは聞けなかったわ。ただ、姉さんは子どもを生むのが目的で、その彼と付き合ってた、って言うのよ。なんでもその人の才能に惹かれて、その人のDNAが欲しかったって言うの」
「才能って。…売れない絵描きのDNAが、か?」
「私にはよく分からないけど、姉さんにはその人の絵の良さが分かるらしいわ。姉さんは、ほとんど名の知られてない19世紀のイギリスの画家の研究をずっとやってるでしょ?その影響じゃないかと思うんだけど…」
「短大の世界史の教員がシングルマザーになろうなんて、周りの理解は得られるんだろうか?」
「さあ、どうだか。でも、姉さんは強い人だから、そんな周りの中傷なんかんにはびくともしないんじゃないかしら」
そう言いながら、女はつるんとした桃をガラスの器に乗せて若い男に差し出した。その桃は大層みずみずしく、映像を通して二人のところまで甘い香りが漂ってきそうなほどだった。
 無言で映像を見詰めている男にターレスは
「これは、これから私が生まれていく先の家庭の様子です」
と言った。男は驚いてターレスの顔を見た。
「良さそうな両親でしょう?母親の方は若干ヒステリックなところもあるようですが、若い頃に色々苦労したようで、今は少しは性格が穏やかになっているのです。父親の方は、あの若さで子持ちの女性と結婚して家庭を築こうという、なかなか広い心の持ち主のようですし、あの通り性格も穏やかです。尤も、娘の方は若すぎる彼をまだ父親としては認めていないようですが、私が行くことで幾らかあの家族の中の絆が深まることでしょう。あの少女も私の誕生は歓迎しているようですし…。本当に偶然とはいえ、不思議なご縁です。あなたが助けた少女は、今度行く先では私の姉ということになるのですから」
 男は無言で頷いた。なぜか分からない不安が、またしても彼の胸の内に暗雲のように立ち込めてきた。
「…で、あなたももう薄々お気づきかもしれませんが…」
「…やめてくれ、それ以上何も言わないでくれ」
男は嫌な予感にさいなまれつつ、怯えたように首を小さく横に振った。
 その間にも画面上の映像は刻々と変化していった。女は階段の上り口で大きな声で二階の少女に呼びかけた。
「藍子。桃剥いたの、食べる?」
すると、上から
「うん、取っといて。後で食べに行く」
という声が聞こえた。
「だめ、早く洗い物済ませたいんだから。来なきゃ全部食べるわよ」
 女がそう言ってしばらく経つと、二階からアイコが億劫そうに階段を降りてくる姿が画面に映った。
 食卓についたアイコは無言でくし型に切った桃をフォークで口に運んだ。先に食べ終わった若い男が
「じゃあ、僕は先に風呂に入って休ませてもらうよ。アイコお休み」
と声をかけたときに小さな声で「おやすみ」を言う以外、その場では彼女は一言も言葉を発しなかった。そして、やがてその若い父親の姿が見えなくなるとアイコはおもむろに喋り始めた。
「ねえ、赤ちゃん、男の子だったの?」
母親は驚いて答える。
「そうよ、何で分かったの?」
「うん、何となくね。そんな気がしたんだ」
アイコは桃の最後の一切れにフォークを突き刺しながらそう言った。
「それと、ケイコおばちゃんとこにも赤ちゃんできるの、きっとその子も男だよ」
と、自信たっぷりに言い切った。
「何それ?急に占い師みたいなこと言って。やめてよ、またこの前みたいに壁に顔が見えるとか変なこと言い出すのは…」
母親は胡散臭そうにアイコの顔を見てそう言った。
「この子はなかなか勘が鋭いようです」  
映像を見ながらターレスがそう呟いた。
「嬉しいな、赤ちゃんが二人もいっぺんに。ずっと長いこと一人っ子だったけど、来年には年の離れた弟と従兄弟が出来るのよね」
 アイコは、食卓の上に置かれた中国製の人形の形をした塩コショウの容器を両手に取ってもてあそびながら弾んだ声でそう言った。
「こんにちは赤ちゃん。あたしがお姉ちゃんよ」
そう言って、アイコは人形型の容器を二つ一緒に持ってお辞儀をさせる真似をした。塩コショウの容器は勢い良く傾いた弾みで、中身が頭の上の穴から少量飛び出し、茶色いコショウの粉はもやもやと空気中に漂った。
「ハックション!」
 突然、画面のこちら側で、男は大きなくしゃみをした。
「よかった。私だけでなく、あなたもすでにこの少女から歓迎されているみたいだ」
ターレスはそう言って、男の表情を横目で盗み見た。男はターレスのその言葉にギョッとした。そして今までの流れを整理するためにもう一度しばらく考え込んでいたが、やがて観念したようにがっくりとうなだれると
「今度行く先でも僕はまた片親に育てられるのか」
と途方にくれたように呟き、額を押さえたままベッドの上に仰向けに倒れこんだ。

 その夜、ぐったりと疲れた男はターシャを自室に呼んで、今日一日の出来事を話して聞かせた。ターシャは黙って頷きながら男の話を最後まで聞くと
「つまりあなたの前回の育ての母親は、今度行く先でもあなたを一人で育てることになっているのね」
と、丁寧に話を整理するかのように、ゆっくりとそう言った。
「どうやらそうらしい。母親があいつでも、他にも養育者がいればまだましだろうに、なんでよりにもよってこんなことに…。前回だけでも僕はあいつに育てられることに懲り懲りだっていうのに…」
男はグチっぽくブツブツ独り言のようにそう呟いた。
「最初に見たローズと、彼女の生まれ変わりであるケイコ、二人はやっぱり似ていた?」
ターシャはそろえた膝の上で頬杖をつきながら、無垢な表情でそう尋ねた。
「そうだな、そう言われれば似ているかな、という程度にしか似てはいなかったが、やっぱり気の強そうなところはそのままだった。前よりはいくらかマシだったが、決して美しいとは言えない容姿をしていたし…」
「そんなに酷かったの?ローズは」
ターシャは同じ姿勢のまま頬杖を左右にゆすりながらゆったりとそう尋ねた。
「そりゃあ、もう…」
そう言いながら、男は、その日見た若い頃のローズの姿を思い出していた。彼女は確かに男の思っていた通り勝気で、貴族的特権意識の強い鼻持ちならない女だった。しかし、彼女が幼いハロルドを育てるそのひたむきさは、実の母親のそれと何ら変わらぬものであったではないか。男が忌み嫌っていたローズの容姿も、彼の記憶の中でデフォルメされたものであって、実際にはそこまで醜くもなかった。男はだんだん自分が何にこだわっているのかよく分からなくなってきていた。そんな彼の脳裏に、今度はあの賭博部屋のジーナの面影が蘇ってきた。過去のしがらみにとらわれてあの薄暗い船底の賭博部屋で酔いつぶれる彼女の細い肩を、男は思い出していた。
(今更許せと言われてもな)
 男は心の中でそう呟きながら、ますます自分が何をどうしたいのか分からなくなってきていた。
「それはそうと、水にはかなり慣れたようね」
ターシャにそう言われて、男はその日プールという巨大な水槽の中で起こったことを再び思い返してみた。そこは生前彼がイメージしていた海中そのものだった。そしてあの不思議な心地よさに満たされた珊瑚の小部屋。そしてそこで見た奇妙な夢。彼の頭の中はその日起こった様々なことでパンクしそうだった。
「あのプールというのは…」
男は一つ一つの疑問を解消すべくターシャに聞いてみた。
「あの中は擬似胎内装置になっているの。人々がイメージしやすいように海中を模して作られていて、あの中に入ると他の人間は皆、海中生物に見えてしまうの」
「そうだったのか…」
どうりであれ程大勢いた人の群れが水中では途端にいなくなったはずだ、と男は少し納得した。ターシャは尚も言葉を続けた。
「あの場所には、行きたい時にいつでも行けるわ。プールの底のいたるところに同じような小部屋が無数にあって、どの部屋も皆同じ仕組みになっているから。誰が行っても、部屋自体がその人を自動的に認証して、その人にとって最適な水温や匂いや色や質感などに素早く設定されるから、いつでも快適な胎内環境が体験できるという仕組みになっているのよ」
「へー、すごいな」
男は素直に感心して頷きながらそう言った。
「だから、その先が知りたければ、そこに行ってその映像を見ればいいのよ。そこでの映像は、リアルタイムで現在あちらの世界で起こっていることそのものだから、これから行く場所がどんなところか、そしてどんな人に育てられることになるのか、予備知識を付けておいた方が、いくらかでも心の準備が出来るのではないかしら?」
「何をどう知っても、生まれるのが嫌だという気持ちは変わらない」
男は諦めを浮かべた、遠い目をしてそう答えた。
「でも、自分の魂のルーツを知り、次の生での目的を知るということは、いかなる場合にも有意義よ」
ターシャは、至ってクールにそう言った。
「意義なんか無くってもいい」
男は不貞腐れた態度でそう呟いた。
「あら、そうはいかないわ」
ターシャはすっくと立ち上がると腰に手を当て、まるで教師が生徒に教え諭すようにこう言った。
「どんな人間のどんな生にも、そこには必ず魂的には意義があるのよ。だから、あなたが前回と同じ魂を母としてあの世に生まれ、前回同様画家のDNAを持って次の生を生きるということは、あなたの魂の深いところに組み込まれたプログラムに沿っているの。そこに幾らかの選択肢はあるにせよ…まあ、今回あなたの場合は無いに等しかったけれども、人間はそのプログラムに沿って生きる以外には他に方法がないのよ」
「そんなの不条理だ」
男はそう毒づいたが、ターシャは顔色ひとつ変えずに
「そう、魂の存在意義は条理を超えているのよ」
と言って、にっこり微笑んだ。
 ターシャが帰った後、男は尚もその日一日の間に見た様々な場景に思いをめぐらせていた。性格は悪いが、思いの他母親らしかったローズ・ハミルトンの実際の姿、そして、その生まれ変わりであり、次の生で自分の実母となるケイコの決意に満ちた表情。それらはまた、昼間彼が見た夢の中に出てきた血まみれの老いたローズの姿とも重なり、おどろおどろしく迫り来る恐怖に男は怯えて一瞬身震いした。

 そして、更に彼の脳裏には、またしてもあの、若い男の亡骸の残像が浮かんできた。

 幼なじみのジョゼットが二十歳足らずの若さでヤクザの抗争の犠牲になったことを、誰か特定の個人に責任を追求することは無意味だと、今の彼には客観的には理解できた。ジョゼットの死は、格差社会の生んだ悲劇のほんの断片に過ぎないということも、始めから頭では分かっているつもりだった。しかし、その格差社会の悪の象徴としてのローズの確固たる存在感が、今や自分の中で揺らぎつつあることが、男の心を更に一層不安にした。

「なぜなんだ?なぜ、あんたはどこまでも僕の人生に食い込んで来るんだ?」
そう呟いて、男は固く握りしめた両手をベッドのマットレスに強く叩きつけた。マットレスからは白い綿埃が立ち上り、男は無理に大きく数回咳き込んだ。
「いったい何だって言うんだ。あんたは僕にどうしろと?」
そう呟きながら、男は両腕で顔を覆ってそのままベッドに仰向けに寝転んだ。しばらくその姿勢でじっとしていた男は、やがて疲れてそのままの姿勢で眠ってしまった。彼の目の上を覆っていた薄いブルーのシャツの袖口は、濡れて濃いブルーに変色していた。