第18章 門出

第18章 門出
 早々とベッドから起き上がると、男は早速描きかけのキャンバスに向かった。絵の中のターシャに、彼の脳裏にまだ鮮明に残る夢の中の彼女の残像を投射するかのように、男は絵を描き始めた。流れる髪の毛の一本一本を丹念に書き込み、やがてその白いうなじや、熟したザクロの実のような艶やかな唇に、夢の中で見た色を塗り重ねていった。まるで愛撫するかような筆使いで、男はそこに彼の理想の美を描き出していった。そして、その時彼はあることに気付いてハッと息を飲んだ。その瞬間、ノックが聞こえ、ターシャが現れた。
「僕は分かったんだ!」
いきなり男はそう言って両手に絵筆とパレットを持ったままターシャに詰め寄った。いつも冷静なターシャも男の尋常ではない勢いに圧倒されて、一歩後ずさりながら
「ど、どうしたの?一体」
と、吃りながら彼に尋ねた。
「たった今、僕は分かったんだ!」
尚も興奮し続ける男に
「だから、一体何が分かったというの?落ち着いて話して頂戴」
と、ターシャは世紀の大発見をした気分でいる子どもをなだめる母親のような口調で男をいさめた。
「僕は、自分の生まれる理由が分かったんだ!」
その言葉にターシャも瞳を煌めかせた。
「そう!それは良かったわ。おめでとう。で、それって一体何だと分かったの?」
「それは…それは…」
男は一瞬、口ごもりながら、丁寧に言葉を選んで言った。
「僕の生まれる理由、つまり僕の使命は、美を追求し、その美に永遠の価値を与えるという事だ!」
彼は、そう高らかに宣誓した。
「なるほど…、で、具体的にはそれはどういうことなの?」
ターシャはそう言って、男の言葉を促した。
「僕にとって、一番の美の対象は女性だ。女性の美を、その内面から滲み出る侵し難い気高さを、永遠かつ唯一の存在として、キャンバスの上に留めていきたいんだ」
 それを聞いたターシャは、長い髪をかき上げながら小首を傾げて
「そう言えば聞こえは良いけれど…、要するにあなたは単なる女好きとして、次の生を生きるつもりだと言うのね」
と、呆れた顔で言った。
「失敬な。そんな安直なものじゃないんだ!なぜならそこには愛がある。僕は女性美の中に愛を見出したんだ」
「何よ、あなた愛なんて知らないって言っていたじゃない」
「それが遂に分かったんだ。僕にも愛するという感情が」
「どういうこと?」
ターシャは、眉をひそめて怪訝そうに男を斜めから睨むような目で見た。
「つまり、だな…」
男は咳払いをして、襟元をちょっと正して、そして改まった顔でターシャを見詰め
「ターシャ、聞いてくれ。僕は…僕は…」
奇妙に上ずった声でそこまで言った後、少しの間を置き、ようやく思い切って男は切り出した。
「僕は、君を愛しているんだ」
 するとターシャは、目を丸くして一瞬動きを止めたが、その後すぐにいつものペースを取り戻し
「あら、そうなの」
と、淡々と反応した。
「あら、そうなの、って…」
出鼻をくじかれたような思いで、男もそこで黙ってしまい、二人の間に妙に気まずい空気が流れた。
「それは、それとして…」
少しの沈黙の後で、仕切り直すようにターシャが口を開いた。
「もうすぐこの航海も終わり、船が港に着くわ。あなた方乗客は陸には降りずに、一人乗りの小さな小舟に乗り換えて海と繋がる海峡を超え、その先無数に別れる支流を上って行くことになりますが…大丈夫、舟が自然にあなたを行き着く場所まで運んでくれるから。ただ、その一人乗りの舟は体を丸めて寝転ばなければいけない程狭く、しかも大抵は頭の方を先にして進むから、あまり乗り心地は良くないと思うけれど。でも、皆生まれるときはそうなのだし、それも一瞬のことですから、我慢するしかないわ。それに、少しくらい心細い思いをしても、それも生まれ落ちたと同時に直に忘れていくのだから…」
「忘れる?」
男は、ターシャの最後の言葉にだけすぐに反応した。
「すると、僕は生まれた後、君のことは…」
「当然忘れるわ、綺麗さっぱり」
いかにも清々しそうに、ターシャは言った。
「そ、そんな…」
「やっと、分かったのに、自分の存在理由が…。そして愛するという感情が…」
男はうろたえた。
「でも、仕方ないわ。最初からそういう約束なのだし。第一、私を愛したところでどうにもならない。私に恋愛感情がないことぐらい、あなたは知っているでしょう?」
キャンバスに描かれた絵を眺めながらターシャは言った。
「あちらに生まれてしばらく経ったら、きちんとした人間を相手に、もう一度その感情を経験すれば良いのよ。今度はきっと上手くいくわ。あなたの気づいた魂の存在理由が、どんなものだろうとそれはあなたの自由ですし…、私個人としては、あまり感心できるテーマではないけれど…。とにかく、この旅はもうすぐ終わってあなたは私のことも何もかも忘れてしまうのだから、そのことは気にしなくていいのよ」
奇妙に説得力のある口調で、ターシャはそう言った。
「気にしなくて良いと言われても…」
男はしょげかえった子どものような目で、うつむいて恨めしそうにターシャを見上げた。
「そんなの嫌だ!」
「何を今更…。最初に約束したでしょう?『君を困らせるようなことはしない』って、あなた言ってたじゃない」
「それは、そうだが…」
「それに、あなたの言うその『愛』という感情にしても、それってどうなの?と私は思うわ。だって、あなたが愛しているのは女性美、それはつまり私の容姿でしょう?我々の場合、それは普遍的なものだけれど、人間としての一生における美の留まっている時間なんて、ほんの一瞬のものでしかなく、それは、所詮幻影のようなものに過ぎない。例えば、私が人間の女性だったとして、年を取って皺だらけの老人になっても、あなたは私のことを愛し続けてくれると言うのかしら?」
挑みかけるようにターシャはそう言った。
「うーん、そうだな。それは、…愛し続けるように努力するだろうな…」
「何なの、その努力って…」
「だって、仕方がないじゃないか。僕の愛した君の今のその容貌は変わってしまっても、そこに君という人が存在するのなら、その皺だらけの君の上に今の完璧な君の姿をなぞらえて、そこに美を見出そうという努力をするというのが、一旦『愛』を口にした者としての責任というものではないだろうか」
「あら、その辺、案外真面目なのね…」
妙に拍子抜けしたようにターシャは大きく右肩を落として見せた。
「いいかいターシャ、愛とはつまり感動なんだよ。僕は君の美に心からの感動を覚えた。そして、それが一時的なものでないとうことが、僕には分かるんだ。僕は今この瞬間から、君の美の下僕になった。その美が永続的であれ一過性のものであれ、そんなことはどうだって良い。要は、君の美は僕の心に決して消えない感動をもたらした。感動とは、確かに一瞬の心の動きなのかもしれない。でも、僕は嬉しいんだ。こんな風に心が動いた、愛という感情を抱けたということが。この喜びは、誰に何と言われようが、例え君に認めてもらえなくても、僕だけの大事な感情なんだ」
「どうして、それが一時的なものではないと言い切れるの?」
「それは、だな…。まあ、これは勝手な自己分析に過ぎないのかもしれないが…。僕は、一旦これと決めたものには心底のめり込む質で、それが絵に向かったから前回の生では売れない絵描きをやっていた訳だが、この性質は一度生まれ変わったぐらいでは変わらない気がするんだ。そして、今僕は絵に対して長年抱いていたのと同じようなこだわり、…まあ、君に言わせれば執着ということになるのだろうが、その強いこだわりを君に抱いている。離れたくない、ずっとこのまま君と一緒にいたいという強いこだわりだ。そのこだわりがかなり強いものだということが、自分という人間を長くやってきた経験上、僕には分かるんだ」
「でも、そんなこだわりを持たれたって…」
少したじろぐターシャに向かって、男は穏やかに言葉を続けた。
「ああ、分かってる。君はそもそも恋愛感情を持たない、水先案内人としての職業的な使命感という優しさで僕のことを何くれとなく…まあ、かなり放置気味ではあったが…世話を焼いてくれてはいたが、僕がこの船を降りてしまえば、ただの過去の乗客の一人になってしまう。それは、最初から決まっていたことだから、そのことで、今更君を困らせようとは思わない。この船が港に着けば、僕は黙って船を降りるつもりだ。ただ、一つだけどうしても残念でならないのは、君のことを、そして君を愛したというこの感動さえも、何もかも忘れ去ってしまうということだ。僕がかつて母親に抱いていた憎しみの感情のようなものが残ったまま生まれ変わったら、確かに大変だから、そうやって全部一切合切忘れてしまう仕組みになっているんだろうが、でも、それにしても、そこだけは譲れない。僕は決して君の事を忘れない。ターシャ、今後生まれ変わっても、僕は君を愛し続けるだろう」
「そう、それならそう思っておけば良いわ。でも、きっとそんなの無理よ。支流に入ってその川の水に過去の記憶は消されてゆくのだから、一滴でも首から上に水がかかったら、途端に全ては忘却の彼方よ」
「ありがとう、そこまで教えてもらえれば、絶対に濡れないように頭部を隠して船に乗ることにするよ」
「そんなことしても無駄よ」
一縷の望みを見出したかのように目を輝かせる男に、ターシャはクールにそう言った。
「それにしても、あなたって変な人ね。あなたのその『愛』は、決して報われないというのに、何でそんなに嬉しそうなの?」
「だから言ったじゃないか。愛とは感動なんだよ、ターシャ。僕は一旦この気持ちを経験してしまったから分かるけど…。ああ、君に何て説明すれば良いかな?…つまり、僕は今、目の前に君がいるということが嬉しいんだ。残された時間があと僅かでも、君とこうして愛を語らう…これは僕の一方的な独白な訳だが…、この時間がとても楽しいんだ。君に出会えて良かった。君がいてくれたことが嬉しい。愛ってそういう感情なんだ」
「それが例え一瞬でも?」
「そう、君の美は、瞬間を永遠に変える」
優しい目で、男はターシャにそう言った。
「何だか急に詩人みたいになっちゃったわね」
ターシャは呆れたように男を見詰め、その後一瞬彼女も優しい顔になった。
「それでは、そろそろ始めようか、名画の制作を」
そう言って男がキャンバスに向かうと、ターシャは黙って黒革のボディースーツを脱ぎ、白いシーツを身に纏ってアフロディーテに扮すると、男の前でポーズを作った。
 彼はその時、その時間を心から幸せだと感じた。そして、自分の感じているこの幸せな気持ちをほんの少しでも彼女も感じてくれていれば、と願った。

 こんな風にしみじみと誰かの幸せを願ったのは初めてで、そこで改めて愛とはそういうものなのかと男は気付いた。肉体の交合もままならず、残された時間も限られた、当に今この瞬間に感じている、ターシャに幸せな気持ちを感じて欲しいという、他に何の邪念もない純粋な想いに、彼は思わず涙ぐんだ。今自分にとって出来る最善のこと、それは彼女の美をえがくことだ。表面的な美を超えた、彼女自身も気付かないような内面の美を、キャンバスの上に残すことだ。そう念じて、男は絵を描き続けた。
  丸い窓から午後の光が柔らかく注ぎ、船室に男の言う永遠の時間が流れていった。


 旅立ちの朝、男は50号の絵を前に、一人船室に立ち尽くしていた。

 彼の絵は完成した。キャンバスの中には、紺色の闇の前に白く浮かび上がる美女の姿が、実物と見紛うばかりの存在感で平面の中に閉じ込められていた。
 男は当初、その絵に美の女神アフロディーテの名を付けようと考えていたが、実際に描き上がってみると、そこにはアフロディーテのような光輝く美というものとはもう少し違った美が存在しているということに、改めて彼は気がついた。
「この絵はペルセポネだ」
男は一人そう呟いた。

 冥王ハデスにさらわれて冥界の女王となった、乙女ペルセポネ。冥界の柘榴(ざくろ)の実を4粒食べてしまったことによって、地上に帰れなくなった彼女は、母の懸命の計らいによって一年のうちの四分の三は地上に出られるが、4ヶ月間は冥界に戻らなければいけなくなり、その間は母である豊穣の女神デメテルの嘆きによって地上には冬が訪れるという、ギリシア神話の中の乙女。

 俯き気味に白い衣に手をかける彼女の指先や半開きになった艶やかな唇には、禁断の果実を食べたことへの戸惑いと共に、未知の世界への一抹の好奇心も、観るものに感じさせた。

 成熟した大人の女性であるターシャをモデルにしていたにも関わらず、そこにはまだあどけなさの残る少女のような表情の彼女がいた。
 思い返してみれば、確かにターシャにはそういった二面性があった。全てにおいて卓越した強さは、アフロディーテよりも知恵の女神アテナに近いような雰囲気だが、その反面妙に幼い印象を男に与える瞬間もあり、それは、決まって彼女が未知の「愛」という感情について語るときだった、ということを、彼は懐かしげに思い出した。
「ありがとう、ターシャ。…愛してる」
男はそう呟いて、絵の中の彼女にそっと口づけた。そして深く目を閉じたまましばらくそこに立ち尽くした後、意を決して彼はまぶたを開き、船室の中を見回した。

 殺風景な室内には、ベッドと小さな椅子とテーブル替わりの酒樽の他には、趣味の良いランプと画材の他特に何もなかった。しかし、男が改めて画材を整理していると、壁とベッドの隙間に何かが落ちているのに気がついた。ベッドに腰掛けて隙間に手を入れ、落ちているものを取り上げて見ると、それは図書室で貸りた彼の幼少期の映像の円盤が透明のケースに収められているものだった。
「そうだ、これはジーナが下船するときに渡されたものだった。今のうちに返しに行かないと…」
そう思いながら彼がベッドから腰を浮かすと、その隙間から「カサッ」という乾いた音がした。それで、彼がもう一度その場所に手を刺し込むと、カサカサした袋が出てきた。
「これは確か…」
そう言えば、セブンウークス諸島で下船した際に、露店の女主人からそれをもらった事を男は思い出した。
「そうか、確か…希望の薬と…後、何とかと言ってたな…」
袋の中をまさぐると、レモン色の紙袋とピンク色の小さな小瓶が二つ出てきた。ラベルなどの説明書きは何もなかったので、とりあえずレモン色の錠剤を一粒、彼は口に含んでみた。その粒は見た目通りのレモンの、とても清々しい味と香りで、一瞬にして男はその薬の即効性を感じた。

 世界が今までよりもツートーン位明るく楽しいもののように彼には感じられた。そして、本来は悲しいはずのターシャとの別れも、何か楽しいことが始まる前のほんの一瞬の別離のような気が彼にはしてきた。
「とにかく、これを返しに行かないとな」
彼は勢い良く体を起こして部屋の外に飛び出そうとしたが、その時ドアの前でターシャと鉢合わせた。
「やあ、おはようターシャ。僕の女神様。今日はまた君は一段と美しいね」
もっと落胆しているであろう彼を想像していたターシャは、驚いて男に尋ねた。
「あなた、どうしたの?何だか人が変わったように明るくなったわね」
驚きと笑顔の混じった表情のターシャに男は
「ああ、前にセブンウェークス諸島の露店でもらっていた希望の薬を飲んでみたんだ。一粒で凄い効果だ。何だか、これから先何もかもがうまくいくような気分だよ。僕はちょっとこれを図書室に返してくる。何なら君も飲んでみると良いよ。凄く楽しいぜ」
ターシャに投げキッスして、男はスキップで廊下を駆けて行った。ターシャは半分呆れた笑顔でその後ろ姿を見送った。
 図書室でファイルを返却し、受付の女性と軽く挨拶を交わした後、男は早足で部屋に戻った。
「女神様。帰ったよ」
男がドアを開けると、中は何だか様子が違っていた。正確には、部屋の中ではなく、ターシャの様子がいつもと違っていた。
「ねえ、これってどういうことなの?」
ターシャは戸惑いを隠しきれずに顔を赤らめながら男に尋ねた。
「希望って、こんなにドキドキするものなの?」
そう言いながら、彼女は至近距離で男の顔をじっと見つめた。その瞳は潤んで、キラキラと輝いていた。
「君もあの薬を飲んだのか?」
「ええ、だってあなたがあんまり楽しそうだから、なんだか面白そうだなと思って。でも、私の場合はちょっと違うみたい。胸の奥が締め付けられるようで、ドキドキしたり、あなたがこれから船を降りるという事実が、何故か悲しくて仕方ないの」
 男は不審に思って袋の中を確認した。中の小瓶は、レモン色の方にはほとんど変化がなかったが、ピンク色の粒は半分位に減っていた。
「君、こっちを飲んだのか?」
「ええ、ピーチ味の方。美味しくて、つい4粒も飲んでしまったわ」
「こっちを行ったか…」
男はしばらく記憶を手繰ってあの女主人の言葉を思い出そうとした。そして、船が大きな振動を立てて港に着岸した瞬間、男は彼女の言葉を思い出した。
「ターシャ、君が飲んだそのピンクの粒。それは…」
「これは?」
「それは惚れ薬だ」
 二人は見詰めあったままその場に立ち尽くしていた。