第19章 序章 (最終章)

第19章  序章 (最終章)

 

 枕元に置いたスマホから鳴り響く何度目かのアラーム音を止めるために布団の中から苦しそうに手を伸ばすと、思いのほかベッドの端に体を横たえていたため、バランスを崩した早川眞一の体は、鈍い音を立てて床に転げ落ちた。
「ってぇー!」
右肩を押さえて悶え苦しむ眞一に、階下から大きな声が聞こえてくる。
「何なの?今の音。眞一、あんたまたベッドから落ちたんじゃないの?」
「つっ…、そうだよ。悪かったな」
小さな声で眞一は呟いた。
「ちょっと、どうでも良いけど早く起きなさいよ。母さん、今日は朝から推薦入試の選考会議があって、急ぐのよ」
階下の声はそう言いながら階段を上って来る。
「…うるせえなぁ」
布団にくるまってそう呟く眞一の耳にドアを開ける音が聞こえる。眞一の頭上には、40台後半とおぼしき女の呆れたような顔があった。
「大丈夫?」
布団をめくって中を覗き込むその女に眞一は
「何だよ、勝手に部屋に入んなって言ってんだろ!」
と大きな声で怒鳴った。
「部屋に入られたくなかったら、さっさと起きて来なさいって言うのよ。ほら、大丈夫?ちょっと、どこ打ったのよ?見せてご覧なさい」
と言って無理矢理布団を引き剥がそうとする女に
「大丈夫だって!いいから放っといてくれよ!」
と、布団に簀巻きになったまま、眞一は必死に抵抗した。
「とにかく早く起きなさいよね。もう母さん行くからね。今日は文化祭だからお弁当要らないんでしょ?」
 諦めて階下に降りようとする女の言葉を、眞一は無視していた。
「そう言えば、悟君と待ち合わせしてたんじゃないの?K高とS高と文化祭の日程がかぶらなくて良かったって、悟君、凄く喜んでたじゃない?あの子はあんたと違ってきちんとしてるから、待ちぼうけ食わせたら可愛そうよ」
「…いけねぇ、忘れてた」
慌てて起き上がろうとすると、簀巻きになった布団に足を取られて、眞一はよろめいて布団もろとも再び床に倒れ込んだ。
「本当にもう…」
もう一度部屋を覗き込んで、彼の母親は苦笑いを浮かべた。
「それから、今日は藍子ちゃんの写真の前撮りの日だけど…」
階段を降りながら母親は言った。
「眞一、あんたも見たいんでしょ?ウェディングドレス姿」
「まあな。肖像画を描く時の参考になるだろうから…」
「そう言うだろうと思って、玲子おばちゃんに時間と場所を聞いといたわよ。ロイヤルホテルの3階のフォトスタジオで4時からだそうよ。それと、藍子ちゃんにも頼んでおいたわ。『眞一が後で写真だけでも撮らせてくれって言うだろうからポーズとってやって』って」
母親の慶子は、いつもこういうことに関してはよく気が利いた。
「母さん」
玄関で靴を履こうとする母親の後ろ姿に向かって、二階のドアから顔だけ出して眞一は呼びかけた。
「ん?」
背中のまま返事する慶子に
「サンキュ」
と眞一は小さく言った。

 

「悟!悪ぃ、待った?」
息を切らせながら、眞一は正門前に走って行った。そこには端正な顔立ちの背の高い男子生徒が立っていた。彼は、手には『キルケゴール全集第15巻』を持ち、柔らかな微笑みを浮かべていた。
「いいや、大丈夫。今日はいよいよ憧れのS高に入れると思うと、それだけでワクワクだから、待つのも楽しい時間だったよ」
名門K高校の制服を着た悟を、すれ違いざまに何人もの女子生徒が振り返って目で追いながら、噂しあっていた。
「憧れって言うのは、普通こっちのセリフだろ。見ろ、周りの女子達の反応を。お前は頭が良い上に見た目も良くて、その上性格までそんなに良いからな…。俺のクラスの奴ら、俺とお前が従兄弟同士だってこと未だに信じてくれないんだぜ。そんなお前が、何だってこんな3流高校に憧れるんだよ」
「何だよ、眞一。そんなの分かりきったことじゃないか」
悟は照れたように頬を赤らめながら言った。
「今日は、遂にあの一ノ瀬華凛さんに会えるんだもの。この3ヶ月間、僕がどんなにこの日を待ち望んで来たか、眞一だって知ってるだろ?さっきだって眞一を待ってる間、本を読んでるフリをしながらずっと彼女を探してたんだから…」
「一ノ瀬?…ってか、お前、まだあの女のこと言ってんの?」
「まだって、…まだ3ヶ月しか経ってないじゃないか」
悟は珍しくムキになった。
「大体、一度も会ったこともないのに。俺の絵の中と写真でしか知らないのに。そもそもあんな性格のキツい女は悟には会わないと俺は思うけど…」
「眞一、そんな風に人を見た目で判断しちゃいけないよ」
「見た目で判断してるのはそっちだろ」
「…まあ、それはそうなんだけど…。でも、彼女はそんなにキツイ性格の人じゃない。彼女は…きっと彼女は寂しがり屋なんだと思うんだ。ただ強がってるだけなんじゃないのかな?」
「お前、何でそんなことが分かんの?俺の絵と写真見ただけなのに」
「彼女に関しては、何か分かる気がするんだ」
一人で納得したように悟は大きく頷いた。
「でも、それにしても良かったよ。悟は、それだけモテるのに女にちっとも興味がないから、俺はてっきりお前のことを、あのK高の生徒会長と怪しい仲じゃないかと思ってたんだ」
「彼とはそんなんじゃないよ」
悟は柔らかな笑顔でそう言った。
「それを言うなら眞一だって、高2の今まで彼女の一人も作ったことないじゃないか」
「何せこっちは、お前みたいに引く手数多じゃないんでね。それに俺は理想が高いんだ。今までリアルに出会った中で心底綺麗だと思った女なんて、正直ほぼ皆無だ。まあ、一ノ瀬花凛は確かにこの辺の女子の中じゃあ見た目のレベルは高い方だけど…。何せあいつが入学したての頃に、俺が絵のモデルを依頼したぐらいだから」
「それにしても、彼女よく引き受けてくれたね」
悟は、心底感心したようにそう言った。
「まあ、そこは俺の長年の経験が物を言うわけだ。俺の唯一得意な英語力を駆使して、一ヶ月間英語の宿題を代わりにやってやるっていう条件を出すんだ。それと、お世辞を並べ立ててその美貌を絶賛すれば、大抵の女はモデルを引き受けてくれるもんだ。まあ、もっとも暇で頭の悪い女子にしかその手は使えないけどな」
「そうか、一ノ瀬さんは英語が苦手なのか。…可愛いなぁ。僕なら無期限無条件で基礎から分かりやすく教えてあげるんだけどなぁ」
悟は瞳を潤ませながらそう言った。
「それにしても、今年の春あいつが入学してきた時は、ちょっとした噂の的だったよ。何せ、あの髪の色だからな。あんな赤毛に染める奴、今どきどんなヤンキーかって思ったら、あれは自毛の色なんだから、教師も困ってさ。あいつを真似て『これは自毛です』とか言って髪の色を変える生徒が急増したら収拾がつかないってんで、月に一度の服装検査の時には、いちいち生徒手帳の写真と髪の毛の色を照合するっていう新ルールが出来たくらいだ。確か、あいつのお祖母さんがイタリア人とか言ってたけど、隔世遺伝でそこまでなるか、って位すごい色だよな、あいつの髪は」
「眞一の部屋で彼女の絵を初めて見た時の衝撃は未だに忘れられないよ。燃えるようなあの髪の毛の色が僕を虜にしたんだ。で、改めて写真を見せてもらって僕は確信した。この人こそ、僕の探していた女性だって」
「その歳で一人の女に絞るなんて、何か早すぎねぇ?もっと色んな女を知ってから、そういうセリフは言うもんなんじゃないの?」
「いや、何人見たって、誰と付き合ったって、きっと同じだ。とにかく僕には彼女以外考えられない。こういうの…」
しばらく間をおいて悟は噛み締めるように言った。
「運命って言うんだと思う」
「単なる初恋ってもんじゃねぇ?」
 そんな会話を交わしながら、二人は校舎の正面玄関を抜け、二階の渡り廊下を通って東館の美術室の前に辿り着いた。眞一が美術室の扉を開けると、中は美術部員の作品が壁面にズラリと展示されていた。悟は真っ直ぐに部屋の一番奥に掛けてある絵の前に向かった。そこには、長くウエーブの掛かった赤い髪の美少女が深緑色のワンピースを着て、ツンとシラケた表情で正面を向いた姿が油彩で10号のキャンバスに描かれていた。
「ああ、やっぱり素敵だなぁ」
悟はうっとりと絵に見とれていた。
「お前の評価の対象は俺の絵の表現力なのか、それともモデルの容姿なのか…」
「それは勿論…」
悟が最後まで言い終わらないうちに二人の背後からハスキーな女の声がした。
「遅っせーんだよ」
二人が振り返ると、そこには絵の中から抜け出たような真っ赤なウエーブヘアの一ノ瀬華凛の姿があった。しかし、彼女が身につけていたのは深緑色のワンピースではなく、首周りに大くき無造作にハサミで切り込みを入れ、ずり落ちそうな肩の部分を安全ピンで留めた白いTシャツに、黒いレザーの膝上30センチのミニスカートと編上げのロングブーツだった。
「一体今何時だと思ってんの?朝一の美術室って、マジ暇なんですけど…」
一ノ瀬花凛は眞一を睨みながら言った。
「…ってか、あたし今日は昼からバンドでライブに出るし、セティングとかリハとか超多忙なのに、昨日帰り際に先輩が『明日の朝8時半に絶対ここに来い』ってしつこく言うから…」
「すみません、僕が道に迷ったものですから…」
眞一が言い訳をする前に悟がそう言って詫びると、華凛は何も言わなくなった。
「忙しいのに待たせて悪かったな、一ノ瀬。それじゃあ手短に紹介しよう。これは、俺の従兄弟の乙倉悟。俺と同い年だが、頭の中身は俺とは全然違って、これでスポーツ万能な上に性格も申し分ないという、俺の自慢の従兄弟だ。悟、こちらは一ノ瀬華凛さん。この絵のモデルを引き受けてくれた、我が校随一の美女だ」
「はじめまして。この絵を拝見して以来、是非一度お目にかかりたいと、ずっと思っていました。今日はお会い出来て本当に嬉しいです」
少し顔を赤らめながら、しかし真っ直ぐに華凛を見詰めて、悟は挨拶した。
「あっ、どうも…」
素っ気なくそう言ってペコリと頭を下げると、花凛はすぐに悟から目を逸らした。
 微妙な空気がその場に流れ、眞一が何か言おうとした時、美術室のドアが開いて、数人の美術部員が慌てて駆け込んで来た。
「早川部長!大変です。昨日の風で外に立てかけてあった美術展の看板が倒れて、ひどいことになちゃってます!」
「マジか?くっそー、俺の力作が…。ちょっと待ってろ、すぐ補修に行く!」
慌てて奥の画材室からから絵の具や工具の入った布袋を取ってくると
「ゴメン、ちょっと待ってて…」
と言って、眞一は外に飛び出して行き、部屋の中には40点余りの油絵と、悟と華凛と二人を包むシンとした空気だけが残った。
 独り言のような小さな声で
「本当に遅いんだから…」
と、眞一が出て行ったドアの方を見たまま、華凛がさっきと同じことを、しかし今度は少し可愛い口調で言った。
「本当にすみません。去年も来たから、道は大丈夫だと思っていたんですが…」
「ウソ。今日は、あなたあたしより先に来てたじゃない」
華凛は急に悟の方に向き直って真顔でそう言った。
「えっ?」
悟は驚いて華凛を見た。
「だって、目立つんだもん、その制服。正門の前でずっと本読みながら待ってたでしょ?2階の軽音部の部室から見て、すぐ分かったわ。早川先輩があたしに是非会わせたいって言ってた人があなただってこと」
そっけない態度を取りつつも、眞一はしっかり根回しして悟のためにこの場をセッティングしてくれていたのだ。
「そっ、そうなんですか?でも、一ノ瀬さん…」
「華凛、でいいよ」
「でも、…かっ、華凛さん。華凛さんは、いつ校内に入られたんですか?僕があなたの姿を見落とすはずはないのに…」
眞一をかばうための嘘を見破られた事と、不覚にも華凛を見落としていた事に二重に動揺しながら、悟はそう尋ねた。
「あたし、今日は裏門から入ったの」
「そ…そうでしたか」
悟はサラサラの前髪を手の甲で払いながら汗を拭いた。
「随分待ったわ」
「すみません」
「もう、来ないかと思ってた…」
「…え?でも、華凛さんは2階の窓から僕のことを見てたんでしょう?」
「ええ、そうだけど…。そうよね、でも何でかな?やだ、あたし何か変なこと言ってるわね…」
そう言いながら、華凛も悟と同じように手の甲で額を押さえた。
「とにかく、お待たせしてすみませんでした」
華凛は黙って頷いて、しばらく窓の外を見ていたが不意に
「ねえ、今日1時から体育館であたしのバンドがライブやるんだけど、よかったら聴きに来て」

と、悟に言った。
「え?良いんですか?」
「勿論。お客は一人でも多い方が盛り上がるし…。それに、自分で言うのも何だけど、あたしの曲、なかなかイケてるのよ」
「華凛さんの曲?」
「そう、全部オリジナルなの」
「それって、歌詞は?」
「曲も歌詞も、あたしが作ってるの」
「すごいですね!華凛さん、シンガーソングライターなんだ」
「そんな、カッコイイもんでもないけど。単に、人の曲、上手くカバーできないだけ」
「そんなの関係ないですよ。すごいな、楽しみだな」
「特にね、ラストの曲はオススメ。魂震えるわよ」
「ラストの曲?何ていうタイトルですか?」
 開けた窓から秋の風が心地好く二人の頬を撫でて行った。
「destiny」
  壁の時計に目をやると
「じゃあ」
と言って、華凛は後ろ手に手を振って、足早に美術室を出て行った。
 すると、それと入れ替わりに
「ごめんごめん、看板ひどいことになてて…」
と、眞一が部員たちを引き連れて戻ってきた。
「どう?うまくいったか?」
華凛の後ろ姿が見えなくなったことを確認してから、眞一は悟の耳元でそう囁いた。
「ああ、午後のライブに誘ってもらったよ」
「え?それだけ?」
「ああ」
「何かさぁ、今どき連絡先の交換とかそういうの、普通しねぇ~?おまえ、あんだけ一ノ瀬一ノ瀬って騒いでたのに」
「いや、これでいいんだ」
「は?」
ぽかんとした顔をしている眞一に悟は
「これだけ話せば十分なんだ」
と満足そうに頷いた。
「彼女は、大事なことは全部話してくれたよ」
「あんな短時間に?何だ、それ?」
「僕には分かったんだ」
「何が?」
まどろっこしい謎々のような悟の言葉に、眞一はイライラしながらそう尋ねた。
「彼女も気づいたんだってことが」
どこまでも続く理解不能な悟の返答に、諦めたように眞一は大きなため息をつき、ふっと時計に目をやった。
「あれ?今の時間は受付の担当は誰だ?」
傍にいた部員に尋ねると
「例の3人組です」
眞一の絵とは反対側の壁にかけられた、数枚の美少女アニメのキャラクターのイラストを見ながら、メガネをかけた小太りの男子が、憎々しげにそう答えた。
「あいつら、誰も来てないじゃないか」
眞一も、同じような顔をして言った。
「本来なら漫画研究会に入るべきあいつらに『先輩たちとアニメの好みが合わないから、どうしても入部させてくれ』と泣きつかれて、渋々入部を了承してやったって言うのに、この、一年で一番人手の必要な文化祭当日に、当番そっちのけであいつらは一体何をやってるんだ!」
「何か、四階の空き教室を使って占いの館とかいうのをやるんだって、何日か前に言ってました。やつらは、オカルト同好会も掛け持ちしてるそうなんで…」
別の部員がそう言った。
「何だ?そのオカルト同好会ってのは?うちの学校はどんな同好会でも認めるんだな。…山ちゃんちょっと受付頼む。俺はあいつらを連れ戻して来るから」
そう言うと、眞一は肩をいからせて美術室を出て行った。悟も黙ってその後に続いた。


 四階は人影まばらで、文化祭とは思えない程ひっそりとしていた。その階の廊下の一番奥の部屋の前に黒地に緑と紫色で「占いの館」と書かれた看板が立てかけてあり、窓には暗幕がかかっていた。半分開かれた後ろの扉から眞一と悟がそっと中を覗き込むと、そこには蝋燭型のLEDライトが置かれた机があり、そこに男子生徒と女子生徒が対面して座り、何か話していた。女子生徒の後ろには数名の取り巻きがいて、二人のやりとりを興味深そうに見守っていた。その奥についたてがありヒソヒソ話し声も聞こえてくるので、どうやら他にも何人かの生徒が部屋の中にいる気配がしたが、灯りがほの暗く、部屋の中全体は見通せなかった。
「うーん、そうだな、君は一言で言うと人から愛されたいとか褒められたいっていう気持ちは強いけど、その反面自分に自信が持てなくて時々クヨクヨ悩んだり自分を責めたりするタイプだよね」
鼻にかかったしゃがれ声の男子の声に、相手の女子は
「え?そうだけど何で分かるの?」
と驚いて尋ねた。
「それでいて、大胆な面もあるけど、意外と繊細な面も持ち合わせてるよね」
「そうそう、早紀ってそういうとこ、あるある」
取り巻きの女子達が一斉に声を上げた。
 このやりとりを聞きながら悟は
「バナーム効果を狙った、極初歩的なやり方だな」
と呟いた。
「って言うか、そんなの大抵の人間には当てはまるような一般的なことばっかりじゃないか」
と眞一も素っ気なく言った。
「それと、君には自分でも気づいていない特別な才能があるんだけど、それが何なのか分からなくて、しかもその活かし方を知らなから、何だかいつも物足りなくて、イライラした自分を持て余しちゃうんだよね」
「そうなの、いつもイライラしてる」
「そう、それは君が皆とは違う特別な人だって証拠なんだよ」
「え~、そうなの~?」
女子生徒は両手で頬を押さえた。
「こうやって根拠のないことを並べ立てて相手の自尊心を刺激して確証バイアスを高めると、これ以降何を言われても当たってるような気分になるんだ」
「悟、お前詳しいな」
「ああ、以前社会心理学に少しだけ興味を持った時期があってね」
 二人がいることに気づかず、男子生徒は尚も話し続けた。
「でもなぁ…」
「え?何?」
「あっ、いや、何でもない」
「何よ、言ってよ。気になる~」
「い、いや、多分、これ聞くとショックだから…」
「何なの?やだ、余計気になる」
「いや、いいよ、忘れて…」
「良いから言ってよ。お願いだから」
 しばらく黙って考えた後、男子生徒はおもむろに言った。
「君さ、最近体調悪くない?」
「え~、そうだなぁ、別にそれほど…、あっ!でも、そう言えば最近時々頭痛が…」
「あ~、もうそこまで来てるか」
「え~、なに~?」
女子生徒は、泣きそうなほど不安げな声を出した。
「取り敢えず、すぐに大きめの病院に行ったほうが良いよ。で、精密検査を受けるんだ。でも、大病院は大抵予約で待たされるからな…。この手の病気は手遅れにならないうちに早く何とかしないと」
「え~、ヤダ~」
 女子生徒は涙ぐんだ。
「そうだ、これ、俺の描いた守護天使の絵なんだけど…、これを枕元に置いて寝たおかげて、難病が自然に完治してたっていうケースも今まで何例かあったな」
「それ、ちょうだい!」
「え、でもこれ描くのすごい大変だったからな…」
「じゃあ、売って!いくらで売ってもらえるの?」
「そうだなぁ。特殊な絵の具を使ってて紙も最高級のだし…」
 女子生徒は手提げカバンの中から財布を取り出し千円札を数え始めた。
「仕方ない、じゃあ、可哀想だから3000円で良いよ」
 女子生徒が財布から千円札3枚を取り出そうとした時
「おい桜井、お前いい加減にしろよ」
と、背後から眞一が声をかけた。
 悟が教室の前側に回って壁の照明スイッチを押したので、部屋の中は一気に明るくなった。桜井と呼ばれたその生徒は、黒い布を頭から被った小柄な少年だった。
「ぶ、部長!」
桜井は、驚いて布を深く被って、小さな体をより一層縮めた。
「さっきから一部始終を見させてもらったが、お前がやろうとしてることは、まるっきり詐欺行為じゃないか。こんなことが学校側にバレたら、お前即刻停学処分だぞ。幸い未遂に終わったから良いようなものの…」
 女子生徒達はポカンとした表情で二人のやり取りを見ていた。
 黒板の前から悟が女子達に語りかけた。
「これは、非常によくある詐欺の手口ですから、皆さん今後はこういうことには気を付けて下さい。今までに何が起こったかざっと復習すると…」
そう言いながら悟は器用に黒板に図を描きながら説明を始めた。
「まず、『愛されたい』とか『褒められたい』、『自信がなくて時々落ち込む』といった誰にでも当てはまる性格特徴や『大胆かつ繊細』といったどちらとも取れる要素を断定的に言うことによて、思い当たるという感情を相手に植え付けます」
悟は淀みなく説明を続けた。
「次に、『自分でも気づいていない才能』とか『特別な人間』という言葉によって相手の自尊心を刺激します。人は誰でも自分は未知の力を持つ特別な人間でありたいという願望がありますから。特に我々の年代にはその傾向は強いので、この人自分のことを分かってくれる、という実感がここで生まれます」
 女子達は、悟の板書に釘付けになっている。
「そして、この後おもむろに不安を掻き立てるようなことを言いました。しかもこの場合、かなり言い渋ったことで一層相手の不安を煽っていました。この辺はなかなか上手いと感心してしまいましたが…。とにかく、一度信頼させてその後いきなり不安感を与えられると、人間は案外簡単にマインドコントロールされてしまうものなのです」
「マインドコントロール?」
「そう、マインドコントロールカルト教団の勧誘や悪徳商法、その他の詐欺行為は大抵これに近い仕組みです。ただ、こういう事に引っかかりやすい人とそうでない人がいますから、それを覚えておいて下さい」
「それって一体…?」
「それは、自分のことを人任せにしないということです。人間は生きていく上で誰でも大なり小なり不安を抱いています。その不安感に付け込むのが今のような詐欺行為です。自分がどんな人間で今後何をすべきなのか、自分自身でしっかり考えることです。体の不調にしても、まずは自分の身体で感じることです。まずは生活習慣の乱れを正してみて、それでも症状が改善しなければその時点で受診すれば良いのです。もっとも、今の場合は、無理に訴えを引き出されたという感じでしたが…」
 女子生徒は恥ずかしそうにスカートのプリーツを触りながらうつむいた。
「本当の答えは自分自身が一番良く知っているのですから、それをどんな人間かも分からない相手に安易に委ねてはいけません。もっと自分自身をしっかり見詰めて。そして自分の素直な感覚を信じてみてください」
「はい」
女子達は悟をうっとりと見詰めて、声を揃えて返事をした。
「さすがK高トップクラス。すごい説得力だ」
眞一は感心してその様子を見ていたが、改めて桜井の方に向き直り
「大体お前、今日が何の日か知ってるか?」
と嫌味っぽく尋ねた。
「え?ぶ、文化祭…ですよね?」
「文化祭というのは、俺たち文化部員にとっては年に一度の貴重な発表の場だろう。お前、今の時間、美術展の受付当番なの覚えてたか?」
「あっ!いけねぇ…」
「お前らもだよ!」
衝立の向こうに向かって眞一が大きな声をかけると、他の二人の美術部員も申し訳なさそうに顔を出した。
「桜井、お前こんな事して恥かしくないのか…」
「…」
桜井は黙ったままうつむいた。
「お前、自分の絵に謝れ」
「え?」
桜井は、驚いた顔で眞一を見上げた。
「これはお前が命を吹き込んだこの世に一枚の絵だろう。こんなことに使われて、絵が泣いてるぞ」
眞一は、桜井が先程女子生徒に売りつけようとしていた、A4版の紙に書かれた守護天使の絵をそっと取り上げて言った。そこには美少女アニメ風の天使のイラストがアクリルで描かれていた。
「お前の画風は俺の趣味とは違うけど…。でも、お前入部の時に言ったよな『俺、本気で漫画家目指してますから』って。ただ既存のアニメイラスト模写してるだけじゃつまらないからって、漫画研究会じゃなく美術部に、お前無理矢理入って来たんじゃないか」
 桜井は眉を下げ口をへの字にして、いかにも情けない顔をした。
「漫画は、今や日本が世界に誇る確固たるアートの一ジャンルだと俺は思ってる。それが何だ、絵の魅力そのものではなく詐欺商法で人に絵を売りつけようなんて、これは芸術への冒涜以外の何者でもない。お前、もっと自分の絵にプライド持てよ」
眞一は必死で桜井に訴えた。
「お前は漫画家になるんだろう?だったら、もっと真剣に作品と向き合えよ。こんな所で訳のわかんないことやって時間を無駄に使ってる場合じゃねぇだろ」
 桜井は泣き笑いのような奇妙な表情で
「俺の漫画家になりたいって夢を真剣に聞いてくれるのは早川先輩だけです。他の皆はそんなのなれっこないって、最初から決め付けてかかるけど、先輩はそうじゃない」
「まあ、俺も本気で画家を目指してるって言ったら、大抵のヤツは同じような反応をするから、それは分かるよ」
「先輩、すみませんでした!」
桜井は床に土下座した。
「そんなことやってる間には、さっさと美術室に戻れ。山岡達が今、代わりに受付やっけくれてるんだから」
「はい!」
「お前らもな!」
衝立の後ろの美術部員二人にも眞一は呼びかけると、二人も小さく返事をした。
「それから、この占いの館は、速やかに撤収した方が良いと思います。こういう活動が明るみに出たら、みなさん全員に何らかの処分が及ぶかもしれません。もし、これまでにも何枚か絵を売っているのなら、それは速やかに返金すべきですね」
幸いまだ午前の早い時間だったため、来客はこの女子生徒が初めてだったと、中の一人が言った。気配を殺してずっと衝立の影にいたオカルト研究部の部員は、男女含めて総勢11名もおり、全員が非常に大人しそうな一年生だった。

 

「何か妙なことになって来たな」
眞一は隣を歩く悟に小声で言った。
「まあ、仕方ないよ。彼らすっかり手持ち無沙汰になったんだから」
桜井と2人の美術部員が走って美術室に戻った後、それに続いて階段を降りようとする眞一と悟の後ろを、オカルト研究会のメンバーと詐欺被害に遭いかけた女子生徒達が皆でゾロゾロ付いて来ていた。
「あのK高の人、超カッコイイ」
「早川先輩の熱いトークに僕は感動したよ」
二人から少し離れた所で、その静かな集団はヒソヒソ二人の噂をし合っていた。
「ま、取り敢えず絵を観てもらうか」
眞一は苦笑いを浮かべた。
 美術室に戻ると神妙な面持ちで、桜井が受付に座っていた。
「先輩、先程はどうも…」
「もうそれは良いよ。それより、お前の仲間が全員絵を観に来てくれたから芳名録に記帳してもらって、その後皆に絵の説明とか、頼んだぞ」
「はい」
「それと、お前がいない間代わってくれてた分、夕方のヤマちゃんの時間、お前が代わりに受付しろよな」
 少し困った表情の桜井を見て、山岡と呼ばれる小太りの男子が言った。
「いいよ、いいよ。桜井は夕方はいつも時間ないもんな」
「そうなのか?」
「はい、母親の仕事が遅番の時は、俺が5時半までに妹を保育園に迎えに行かないといけないもんで…」
「お前の妹、そんな小さいのか?」
「ええ。ほら、この子です」
 桜井はポケットからスマホを取り出して、待受画面を眞一に見せた。そこには4歳ぐらいの目が大きくて色白のボブカットの女の子が映っていた。
「かっわいいなぁ」
眞一は心から感嘆の声をもらした。
「でしょ?もう、何やってもホント可愛くって。この子が生まれてから、俺の人生変わったって言うか、やっと守るべきものが出来たっていうか…」
「すっげー、シスコン」
「はい、自分でもそう思います。この子がいつかどこかの知らない男に取られちゃうのかと思うと今から涙が出そうで…」
「まるで、結婚式前夜の父親の心境だな」
眞一は呆れて言った。
「今まさに、うちの父がそんな状態だよ」
悟もその話題に加わってきた。
「うちの姉は母の連れ子だから父とは血が繋がってなくて、思春期の頃は父に懐かなくて随分苦労したらしいけど、その分父の思いい入れも一入で、20代前半まではほとんど男っ気のなかった姉に急に彼氏が出来て、あれよあれよと言う間に結婚の話になっちゃったから、父はすっかり動揺しちゃって、一時はホント大変だったよ」
「それにしても藍子姉、ある意味すげえよな。相手の男は藍子姉が初恋の人だったんだろ?」
「そうらしいよ。去年の年始に小学校時代の同窓会をした時、10数年ぶりに再会して、そこで一気に火が付いたらしい」
「へー、すげー、何かそれって」
「運命だよね」
悟は、その日二度目の同じ言葉を、前と同じく深く噛み締めるように言った。

 

「ああ、今日は本当に楽しかった!」
 駅へ向かう道の途中で、悟が珍しくはしゃいだように大きな声でそう言った。
「もう、華凛さん、最高!」
「あいつ、わりと歌上手かったよな」
「歌も上手かったけど、それ以上に曲と歌詞が良かった。あの歳であんな歌作れるなんて、天才だよ」
悟は、まだライブの興奮が抜けきっていないようだった。
「悟は本当に一之瀬にぞっこんなんだな」
眞一は、改めてそう言った。
「藍子姉は結婚するし、桜井には可愛い妹がいるし、俺の理想の美少女もどこかにいないかなぁ」
「改めて聞くけど、眞一の理想の女性って、どんな人なの?」
「俺の理想…、まあ、一番近いのは…」
一瞬静けさがよぎった。
「プロセルピナ。ベルニーニの作った彫像だけどな」
「彫像…。実在する人間でない所が何だか眞一らしいね」
「まあ、これはあくまでも雰囲気の問題なんだけど、儚げで可憐、かつ艶かしく官能的な、少女と女の両面を併せ持つ女性が俺の理想…かな。何か、言葉では上手く言えないんだけど、出会ったらきっと分かるはずなんだ。昔っからイメージはいつも頭の中にあるから」
「そうか、眞一もそういう思い込みの強い所があるんだね。やっぱり従兄弟同士だからかな、僕達」
「そうだな」


二人はそのまま言葉少なに駅の構内に入った。改札を抜けた所でふと眞一が
「なあ悟、あの制服どこの学校?」
と尋ねた。眞一の視線の先、二人の30m程前を、薄めのグレーに白の2本線のセーラー服姿の少女が歩いて行くのが見えた。
「え?あの制服…、さあ、どこかな。僕は初めて見るデザインのような気がするな」
「そうだよな」
 電車通学の二人は、いつも駅で様々な制服を着た他校の生徒を目にすることが常だったが、そのグレーのセーラー服には二人共全く見覚えがなかった。
「最近は私服の学校に、市販の制服を着て通学してる学生もいるしな」
眞一がそう言って納得しかけた時
「乙倉くーん」
と遠くで悟を呼ぶ声が聞こえた。声の方を見ると、そこには悟と同じK高の制服を着た、色白で線の細い、いかにも優等生風のメガネをかけた男子生徒がいた。
「ああ、会長」
悟が爽やかな笑顔で答えると、その男子生徒はにこやかに近づいてきた。これが今朝眞一が話題に上げた、K高生徒会長の佐野博人だ。
佐野は、眞一に軽く挨拶すると、ニコニコしながら真一とは反対側の悟の隣に来て、歩きながら色々話し始めた。
「来週のうちの文化祭の件だけど…」
「ああ、もう来週か。確か生徒会では『世界の海洋汚染に対する我が国の取り組みと今後の展望』ってテーマのパネルディスカッションをするんだよね。今からでも何か手伝えることがあれば、僕も協力するよ」
「ホント?乙倉君。嬉しい!」
佐野は、本当に嬉しそうだった。
(一ノ瀬のこと知ったら、きっとこいつ凹むだろうな)
 佐野の顔を横目でチラッと見ながら、複雑な人間模様に思いを巡らせていた眞一の足元で、何か軽い金属のつぶれる音がした。それは路上に落ちていたアルミ缶が眞一の靴底で踏み潰された音だった。アルミ缶は、眞一の靴底にガチッとはまり込んで、次の着地点を踏んだ。路面はよく磨かれた大理石調のタイルで、眞一は気持ち良いくらい大胆に、その日三度目の転倒をした。
「…痛ってぇ…。何で、こんな所にこんなもんがあるんだよ!」
靴に食い込んだアルミ缶に向かって忌々しげに、転んだ痛さと恥ずかしさをごまかすかのように大声をあげる眞一の目の前に、その時グローブのような分厚い手が差し伸べられた。
「眞ちゃん、大丈夫かい?」
そう言われて見上げた眞一の視線の先には、ガッチリとした固太りの男子の優しい顔があった。
「亀ちゃん」
眞一は、その分厚い手に助けられて、ノロノロと起き上がった。
「亀山君。久しぶりだね」
悟と佐野も、この亀山には面識があった。
「H高柔道部での亀山くんの活躍は、うちの高校でも有名なんだよ」
佐野が声を弾ませた。
 スポーツ推薦でH高に入った亀山は、悟や佐野の中学時代の同級生であり、眞一とは同じ町内に住む幼馴染みでもあった。
「亀山君、今、部活帰り?」
 たまたま同じ駅に向かう4人の高校生は、お互いの近況をザックリと報告しあった後、二列で歩きながら雑談に花を咲かせた。
 久しぶりに旧友との再開を喜んだ佐野が、文化祭の研究テーマについて熱く語ると
「僕は、両親が沖縄の出身ということもあって、子どもの頃から海が大好きなんだ」
と亀山は言った。
「良かったら、三十年前と今の珊瑚礁の写真を父から借りて持って来ようか?昔の珊瑚礁は今のとは全然違って、物凄くカラフルなんだ。並べて比較すると、海洋汚染の実態がハッキリ分かると思うから」
と言う親切な亀山の提案に
「わぁ、それはすごくいいアイデアだ!」
と、佐野は終始ニコニコしている。 
 亀山は、同い年だが不思議と落ち着いた雰囲気があって、小さい頃から何かと眞一の相談にのってくれたりしていた。この四人が一堂に会するのは初めてだったが、眞一は、幼い頃よりもっと前から皆のことを知っているような、不思議な感覚を覚えた。

 

 話しながら、四人はやがて駅に到着した。
「今日これから僕達は、2駅先の駅で電車を降りて、姉の結婚式の写真の前どりを観にロイヤルホテルに行くんだ」
悟が二人にそう言った時、佐野と亀山が話している声のすぐ傍で、眞一は何か微かな鈴の音を聴いたような気がしてふと立ち止まった。
「あれ?眞一どうした?」
少し前を歩く悟が振り返った。
「いや、何でもない」
不思議な感覚にとらわれて、眞一はしばらくその場に立ち尽くしていた。
(あの音。どこかで聴いたことがあるような、涙が出るほど懐かしいような、この感覚)
 眞一がそう思った瞬間、ホームの反対車線に電車が到着した。沢山の人が乗り降りする雑踏の中で、眞一は再びその音をすぐ耳元で聴いた。すれ違ったのは、先程のグレーのセーラー服の少女だった。少女は眞一の横を通り過ぎ、少し離れた車両に乗り込んだ。少女の後ろ姿はスラリとして、清楚なセーラー服を一層清潔に見せていた。背中の中程まである真っ直ぐな髪の毛は少し薄めの黒褐色で後頭部で髪の一部を小さな髪留めで留めていた。
 眞一は少女の後ろ姿をずっと目で追った。混雑した車両の中で少女は向こうを向いて扉の直ぐ傍に立った。西日が光の帯を作り、少女の髪の毛を金色に照らしていた。白いスカーフの先端を気にしながら少女がドアの方に振り向いた時、眞一ははっきりと彼女の顔を見た。
「でさぁ、英語の杉浦先生、その時僕に何て言ったと思う?」
 発車のベルが鳴った。
「眞一、おい!それ逆方向の電車!」
 閉まる直前のドアに滑り込んだ眞一を乗せて、電車はゆっくり動き始めた。
「”It`s your destiny”だって。参っちゃったよ」
 佐野は、昨日の英語の授業でのおかしなエピソードを、いつまでも楽しそうに話し続けていた。

  

       『運命の船』 完