第5章 邪悪な部屋

第5章 邪悪な部屋

 その部屋は二メートル先のものはほとんど見えないくらいに薄暗く、部屋の真ん中の小さな照明は、緑色のぼんやりとした光を放っていた。

 ジーナの忠告に従うべきだと男は十分分かってはいたものの、禁止されるとその奥が知りたくなるのが人の常であり、同時に彼の悲しい性でもあった。

「大丈夫、あの女も何度か入ったって言ってたしな」

周囲に聞こえないくらいの小声でそう呟きながら、彼は静かにドアを閉めた。

 薄暗いその部屋の中は、静かだが、あちこちからごそごそと布が擦れるような音がしていた。人の気配と言えるのかどうかも分からない、何か不気味な妖気のようなものが、部屋全体に立ち込めていた。

 

 その薄暗い照明に男の目がようやく慣れてきたころ、男は目の前の、等身大の映像の映し出された大きなスクリーンの存在に気がついた。スクリーンというよりはガスが集まって薄い膜を作っているような、蜃気楼に似た映像のようにも男には感じられた。

 よく見ると、そのスクリーンには好奇心に満ちた表情で小さな机を囲む子ども達、男女四人組の姿が映っており、映像の下には「日の出小学校三年二組、二時間目の休み時間」というテロップが流れ、やがて中の人物が会話を始めた。

「ねえ、ケイ君、これでホントに未来のことが分かるの?」

「ああ、分かるとも。これで、俺の兄ちゃんテストの問題三つも当てたんだぜ」

「えー、すごい。ねえ、早くやって、やって」

周囲の子ども達が一斉にはやし立てる。

「まあ待てよ、これにはかなり集中力がいるんだ」

そう言って、ケイ君と呼ばれるブルーのトレーナーを着たリーダー格の少年はおもむろに深呼吸して、額の前で組んだ手に力を込めて「ムゥー」と低く唸った。

「じゃあ、みんなこの十円玉に指を乗せて」

 スクリーンの映像を見ながら男はこう思った。(なんだ、これはよくある子どもの遊びじゃないか。複数の人間が文字盤の上のコインに指を置いていろいろな質問をすれば、その中の一人の無意識が働いて、あたかもコインがひとりでに動いたかのように質問に答えていく、単なる集団催眠の一種だ)

彼は、この船への乗船前に好んで受けていた心理学の講義内容と、ヨハネスと同じような顎髭を蓄えた、気難しそうな教授の顔を同時に思い出した。

 すると、男の側で

「イヒヒヒ」

と薄気味悪い笑い声がした。

「よし、今日は俺様がひとつこいつらをこらしめてやるとしよう」

そう言いながらよだれの垂れた顎を、擦り切れたぼろ雑巾のような服の袖でぬぐっているのは、小さく干からびたネズミのような顔をした、とても人間とは思えないほど皴だらけの老人だった。

 男がぞっとしてあたりを見回すと、数人の人間がぼんやりとした佇まいでスクリーンに見入っていた。皆、擦り切れたぼろ布を頭からかぶり、近くでよく見なければ年齢や性別も分からないくらい薄汚れ、この船の中では本来記号でしかないはずの肉体も、相当劣化していた。

 

 スクリーンの中の子ども達は、意味ありげに、決められた呪文を声をそろえて唱えた後、一人ずつ質問をはじめた。

「じゃあ、まず始めに、ケイ君の好きな人は誰ですか?」

「こら、やめろよ、そんなこと聞くの…」

「いいじゃん別に。あたし知ってるんだから」

「嘘だろ、いねえよそんなの」

「あ、十円玉が動き出した」

「レ・イ…カ。やっぱり3組の佐藤玲華ちゃんだ!」

「ちがうよ!おまえが勝手に動かしてるんだろう!」

「じゃあ、ねえねえ、こんなのどう?この中で、誰が一番早く結婚しますか?」

十円玉はスルスルと文字盤の上を動く。

「タ・カ・シ…、えー、意外!じゃあ、それはいつですか?」

子どもたちは、その都度大きな歓声を上げながら質問を続けていった。

「僕の将来就く仕事は?」

「一組の沖田先生と養護の久藤先生が付き合ってるってホント?」

「俺の前世は?」

「今晩のうちの晩御飯は?」

 十円玉の動きはどんどん加速して「ニ・ク・ジ・ャ・ガ」の文字を、あっという間に指し示した。

「じゃあ、この中で一番早く死ぬのは誰ですか?」

その時、それまで一度も質問していなかったおかっぱ頭のおとなしい少女が突然ぼそっとこう言った。そこで、みんなの動きが一瞬止まった。と、その時、画面のこちら側でそれまでの流れを黙って見守っていた隣のネズミ男がすくっと立ち上がると、すばやくスクリーンに近づき、枯れ枝のような指をスクリーンに付けて十円玉を動かした。

「ア…」

「イ・コ」

「藍子」というのは、今まで一番よく喋っていた少女の名前だ。藍子は真っ青になって顔を引きつらせたまま一言も喋れずに固まった。

 十円玉は尚も動き続けた。

「オ・ト・ク・ラ・ア・イ・コ・・ア・シ・タ・シ・ヌ」

 もう誰も何も言えなかった。その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、子ども達は気まずい雰囲気のまま文字盤と十円玉を片付けて、各々席についた。

 続いて「放課後」というテロップの後、帰宅途中の藍子のもとに先ほどの三人が慌てて駆け寄る映像に場面が変わった。

「ごめんね藍ちゃん。あたし、そんなつもりで聞いたんじゃなかったんだけど…」

おかっぱ頭の少女が泣きそうな声で言った。

「乙倉、あれさぁ、俺がわざと手を動かして…」

「えー、そうなの?ケイ君、もー、止めてよ。マジで怖かったんだから!」

 そこで四人は再び笑顔になって、それぞれの家の方角に散って行った。

 しかし、それもつかの間、「夕飯の食卓」の場面で出された肉じゃがを前に、乙倉藍子は、またしても顔面蒼白になっていた。

「ごちそうさま」

「あら、藍子。あなたの好きな肉じゃがなのに、どうしたの?一口も箸を付けないなんて」

 母親の心配そうな声も耳に入らない様子で、藍子はそのまま自分の部屋に閉じこもった。どう考えても今日の十円玉の予言が気にかかるのだ。折りたたみ式のソファーベッドに仰向けに寝そべってボーっと部屋の隅を見るともなく見つめている藍子の視界の先に、スクリーンの反対側から先ほどのねずみ男がフッとスクリーンの中に入り込んだ。すると、藍子の見つめていた壁の淵がボーっと黒くなってきた。

(なにあれ?壁のシミ?あんなところ、なんで汚れるんだろ?)

藍子の心の声は、音声を伴って、画面の外にいる男の耳にも聴こえてきた。

 藍子が上半身を起こしてそのシミをまじまじと凝視すると、そこから、痩せこけて枯れた古木の皮のように干からびた人間の顔のようなものがぼんやりと浮かび上がってきた。

「ギャー!!!」

 隣の家まで聞こえそうなほど大きな藍子の叫び声を聞いて、階下から愛子の母親が跳んできた。

「どうしたの?藍子。何があったの?」

 藍子は涙ぐみながら、天井の隅を指差して母親に懸命に訴えた。

「おかあさん!あそこに!…か、顔が!」

 母親は、藍子の指差す方をしばらくじっとにらんでみたが、やがて藍子の顔をしげしげと眺め、やがて娘の額に手を当てて

「どうしたの?藍子、あなた今日は、帰ってからずっと何かおかしいわよ。別に熱があるわけでもないのに。どうしちゃったのかしら?」

と、呆れたようにため息をついた。

「だってお母さん、あそこの顔、こっち見てるよ!じーっと、すっごくイヤーな目つきで!」

「どこに?」

 母親はしらっとした目つきでもう一度藍子に尋ねた。

「あそこ!あの天井の角っこ!」

「あれは、単なるシミじゃない」

「違うよ!よく見てよ。ギョロッとした目があって…」

「やめてよ、気持ち悪い」

母親は、エプロンのポケットに両手を突っ込んでくるりと藍子に背中を向けながら

「変な動画の見すぎよ。あなた昨日も遅くまでオカルト映画見てたじゃない?そういうの、お母さんあんまり感心しないわ」

と言って、トントンと軽い足音をたてながら階段を降りて行ってしまった。

「ちょっと待ってよ!お母さん。娘がこんなに怖がってるっていうのに、一人ぼっちにするつもり?」

 藍子は、母親の背中に向かって精一杯訴えてみた。すると

「それなら、お父さんとお母さんの部屋に来て一緒に寝たら?」

と母親のそっけない返事が聞こえてきた。

(それは、嫌)

 藍子は、声に出さずに一人心の中で呟いた。「去年の年末から一緒に暮らすことになった、以前母親の恋人だった男の存在を、藍子はまだ父親と認めてはいない」と画面下のテロップが詳細を伝えていた。

 これで、この家の中では全く助けを期待できない状況に陥ってしまったということを藍子は悟ったようだった。

「考えてみたらお化けや心霊現象なんて、…今の時代にそんな、非科学的なことが、…起こるわけない…よね…」

 藍子は、そう自分に言い聞かせるように独り言をいいながら、ベッドの枕元に置いてある全長30センチほどのテディーベアを抱きしめた。「寂しい時いつもこうするのが、いつの間にか藍子の習慣になっていた」というテロップが流れた。

「ねえ、ミッシェル」

 毛足の長いテディーベアのミッシェルを抱きしめながら、藍子は徐々に落ち着きを取り戻してきたようだった。

「お前といると、いつもホッとするわ」

藍子は、ぬいぐるみのフカフカの体に顔を埋めてそう呟いた。

と、その時、窓辺に飾ってあったピエロのオルゴールが突然「ポロン」と音を立てた。

「ヒャッ!」

藍子は一瞬ビクリと体をこわばらせた。体中に鳥肌が立っているのが、スクリーンの反対側から、男にも見て取れた。

「あのオルゴール、…ほら、先週、恵子伯母さんがヨーロッパ旅行のお土産に買ってきてくれたやつ。…私、実はあんまり好きじゃないのよね」

藍子は、怖さを打ち消すかのように、ぬいぐるみを相手に独り言を続けた。

「ネジの巻きすぎかな?」

藍子がそう言った途端、オルゴールは、勢いよく『エリーゼのために』のメロディーを奏ではじめた。

 一方、スクリーンの裏側では、ぼろ布をまとった亡者達が、てんで好き勝手を始めていた。件のオルゴールのピエロの手足を引っ張って無理やり動かせている者もいれば、藍子の首筋に冷たい息を吹きかける者、また他の数人は藍子の耳元で低くて気味の悪いうめき声をたてていた。

「ちょっと…怖すぎ…」

 急激な悪寒と原因不明の耳鳴りを感じながら、藍子はとりあえずそのオルゴールのある部屋から離れようと、腰掛けていたベッドから立ち上がろうとした。すると、彼女は自分のひざの上にそれまでとは違った異常な重量感を感じて、さらにゾッとした。

「ミ…ミッシェル?」

そう言って、藍子が視線を落とすと、そこにはゴワゴワと硬い毛並みの、赤い目をした猛獣が「ウウッ」という低い唸り声を上げていた。

「いやぁあ!!!」

藍子は、ひざの上のその猛獣を咄嗟に振り払って、部屋のすぐ側の階段の踊り場に飛び出した。

 するとその時、スクリーンの反対側でその光景を傍観していた男の側で

「よし、そのまま突き落とせ!頸椎骨折でお陀仏だ!」

という声が聞こえた。

 一人の亡者が愛子の背中を強く押し、藍子は階段の最上段から勢いよく宙に投げ出された。

 

 その一瞬の行動を、男は自分でも後からよく思い出せなかったが、男、つまり乗員6497号は、その時咄嗟に、スクリーンに飛び付いて画面の中に手を伸ばすと、藍子の部屋の出口に転がっていた熊のミッシェルを全力で階下の踊り場に投げつけた。すると、そこから映像はスローモーションになり、床に投げつけられたミッシェルはゴムボールのように丸まって受身で着地したかと思うと、小さな体でがっしりと落下する藍子を受け止め、彼女の体をフンワリと優しく床の上に下ろしたのだった。

 

「裏切り者だ!」

 スクリーンの反対側は、たちまち大混乱に陥った。亡者たちは、一斉に男の方に向き直り、口々に

「裏切り者は許さない。裏切り者は処刑せよ」

と呪文のように呟きながら、男の方に進んできた。 

 狭い部屋の中で出口を塞がれ、男は十人近い数の亡者達に取り囲まれた。至近距離での彼らは、この世の言葉では表現し難い独特の臭気を帯びており、また魂に深く染み込むような低い周波数の音声で口々に呪いの言葉を発しながら近づいて来るため、男は、その不快な臭いと音で意識が遠のきそうになるほどだった。

「こいつの魂をえぐり出して八つ裂きにしてしまえ!」

皺だらけの鼠男が号令をかけると、複数の亡者達の手が一斉に男の胸ぐらを掴んで、彼の体に爪を突き立てた。たちまち男の体はえぐられ、数本の腕が男の体の中にめり込んでいった。痛みなどの身体感覚の本来ない世界にあっても、この亡者たちの攻撃は、彼の魂に強いダメージを与えた。

「ぅぐっ!」

男が苦痛に顔を歪ませ、意識が遠のこうとするその刹那、いきなり部屋中が真っ白な強い光に満たされた。亡者達は、眩しがってうずくまり、苦しさにうめき声を上げた。何者かに強く腕を捕まれ、そのまま男は気を失った。

 

 どれくらいそうしていたのか、気がつくとそこは、豪華な装飾の施された船内の一室だった。

「やっと、気がつかれましたね」

声のする方に目をやると、そこには深い青色の服を身にまとった金髪の若い青年が立っていて、服と同じくらい澄んだ青色の瞳で、優しく男を見守っていた。

「図書館で、あなたをお見かけして、もしやと思って後を追って行ったのですが、なに分私もあの界隈に出向く機会はそうないので、うっかりあなたのことを見失ってしまいました。諦めて帰りかけたところで、あの賭博部屋の、…ジーナという女性にあなたの居場所を聞きつけたものですから」

 そう言われてよくよく思い返してみると、この金髪の青年は、その日図書館で、男のことをじっと見ていた青年に違いなかった。しかし、なぜ、この青年がわざわざあんな危険な場所まで自分を追ってきたのだろうか?

 男の感じる当然の疑問を察知したのか、その金髪の青年は静かに頷きながらこう言った。

「あなたのことは生前、曾祖母から、昔話のようにしてよく聞かされたものです。私の生前の名前は、ロバート・ハミルトン。血縁上、あなたの曾孫に当たる者です」

 そう言って微笑む青年の目は、温かな慈愛に満ちていた。

「ひ?ひまご…?」

驚きのあまり、いきなり体を起こそうとすると、男の胸の奥辺りに激しい痛みが走った。

「いっ、痛てててっ!」

「ああ、まだ無理は禁物です。一応私の出来る限りのヒーリングは施しておきましたが、相当邪悪な霊によって魂の深いところが傷つけられていますから、回復まで数日は安静にしておいて下さい」

 そう言うと、ロバートと名乗るその青年は、振り向いて彼の背後に飾られた色とりどりのバラの花を生けた大きなガラスの花瓶を抱えて、男の枕もとのサイドテーブルにそっと置きかえた。甘いバラの香りに奇妙な違和感を覚えつつ、男はただそこに、傷ついた魂を乗せた不確かな体を横たえていた。