第7章 船上パーティー

第7章 船上パーティー
 
 その部屋は大きなホールで、ホールの中は、眩い光に満ちていた。天井から吊り下げられた宇宙船のような形の巨大なシャンデリアは、無数のクリスタルガラスに覆われて部屋の中央でゆっくりと規則正しく回転し、そこから乱反射した光は、ホール全体に七色のプリズムを放っていた。そして、白い壁に象牙色で浮き彫りのように描かれた花や蝶や鳥たちの絵は、その七色の光を受けてまるで本物のような存在感をたたえながら一瞬のうちに浮かんでは消え、その光景はまるでホール全体を大きな万華鏡のように見せていた。
 また、ホールの中に数百人はいると思われる人々は皆美しく正装し、優美な立ち居振る舞いでホールの中をゆったりと移動していた。その中には、チャイナドレスを着た人やネイティブアメリカンの羽飾りの付いた衣装を着た人、またインドのサリーをまとった人や頭にカラフルなターバンを巻いたアラブの装束の人など、珍しい衣装の人も数多くいた。肌や髪や瞳の色も体型も、皆それぞれに違っていたが、皆に共通していたのは、その清らかな瞳の輝きと頬に湛えられた穏やかな笑みだった。肌の白い人も黒い人も、背の高い人も低い人も、華奢な人も豊満な人も、皆それぞれに美しく、互いにそれぞれの存在を際立たせ合っていた。
 部屋の広さと中の様子に圧倒されて入り口で呆然と立ち尽くす男に、ターシャは
「どうしたの?そんなにあんぐりと口を空けたまんまで」
と、肘の内側を軽く押しながら彼を部屋の中へといざなった。
 少し前を歩くターレスとシエナは、通りがかる人達と親しげに挨拶を交わし、その都度ターレスは男とターシャのことを彼らに紹介した。すると相手は、初対面とは思えないような温かな笑みで男に話しかけてくるのだったが、彼はまるで酸欠状態に陥ったかのように頭がボーっとして、次第に相手が言っている言葉が、正しく聞き取れなくなってくるのだった。そんな男の様子を見てターシャは
「急に違う次元の部屋に入ってしまったので、最初は少し違和感をおぼえるかもしれないわね。でも、それもすぐに慣れるから大丈夫よ」
と言って彼の背中をそっと撫でた。
「お飲み物はいかがですか?」
銀のトレイにグラスを載せたウエイターが、男の前に細い柄のシャンパングラスを差し出した。グラスの中の淡い黄金色の液体は、小さな泡を小気味よくたてていた。男は
「ありがとう」
と言ってグラスを受け取り、中の飲み物を一口口に含み、その味に驚いた。
「何だ、この飲み物は?」
男は驚きのあまりグラスを危うく手から落としそうになりながらそう言った。
「あら、それはシャンパンよ。あちらの世界にもある、あなたにも馴染みのある飲み物じゃなくって?」
ターシャは男の反応に、不思議そうに首をかしげながらそう言った。
 男にも、それがシャンパンであるということは大方見当がついていた。ただ、あまりにも、それは味覚を超えてなお絶対的に、男が感嘆のあまり言葉を失うほどに美味しいのだった。
「美味い」
男は呆然と、独り言のようにそう言った。生きていた頃味わった酒とは比較にならない味だった。まさに「甘露」という言葉がふさわしいと男は思った。

 しかし、本来五感を超えたはずのこの世界に、なぜこんな美味なものが存在するのだろう。男は、数日前に階下の賭博部屋で飲んだまずいビールの味を思い出し、つくづく不思議に思いながらも、その美しいシャンパンを心ゆくまで味わった。
 彼は次第に部屋の雰囲気に慣れ、冷静に辺りを観察できるようになってきた。そうしてぐるりと部屋を見回すと、人々は、壁際に置かれたテーブルの上の果物をつまんだりしながら、和やかに会話を楽しんでいるようだった。
 しばらくすると、頭上の巨大なシャンデリアは回転の方向を変え、今度は白い壁の上に様々な動物たちの模様が浮き上がってきた。ネズミやリスのような小動物から、象や熊などの大型動物まで、地球上のあらゆる生き物が、シャンデリアからこぼれる光のプリズムを受けて幻想的に浮かんでは消えた。それぞれの動物達はいずれも生き生きと、あるものは勇壮に、またあるものは愛らしく、まるでそこここにその息づかいが聞こえてきそうなほどリアルに描かれていた。壁の模様として、それはどことなく不可思議なデザインだった。何となく東洋的な、またはアフリカの土の香りのするような、素朴で生命感あふれる室内装飾に男は感じ入った。
 すると、どこからともなく美しいピアノの音が聴こえてきた。きらめくようなその音色は、人々の楽しげな話し声と溶け合いながら部屋全体を今までよりも尚一層明るく優美な空間に変えた。続いてオーケストラの演奏も加わり、その音色は一段と華やかさを増した。部屋の隅から、背中に羽飾りの付いた白いおそろいの衣装を着た愛らしい子どもたちが数人、裸足でぱたぱた駆け出してきて、手に持った小さな鈴を打ち鳴らしながら踊りを踊りはじめた。するとそれに続いて、今度は別の方角から、薄い羽衣を幾重にも身に纏った美しい女性たちが、薄絹をふんわりとなびかせながらまるで空中をたゆたう花のように優雅に舞い始めた。それを待っていたかのように人々は、それぞれペアになって流れてくるワルツに合わせて踊り始めた。
「ダンスが始まったわ。さあ、踊りましょう」
ターシャは男の肩に手を廻してそう言った。
「いや、僕はこういうのは苦手で…」
男が何かコメントする余地はもはやなく、ターシャは彼の体にぴったりと寄り添って、うまく男の動きを誘い出しながら、ステップを踏んだ。男は仕方なく、生前場末のダンスホールで何度か踊った記憶と勘を頼りに、彼女の動きに合わせて足を運んだ。
「あらルーカス、あなた意外と上手じゃない?」
ターシャにそう言って誉められると、男はまんざら悪い気はしなかった。二人は滑らかなな曲線を描きながら沢山の人たちの踊りの輪の中に入っていった。近くでシエナと一緒に踊っていたターレスはそんな彼にウインクを送った。
 美しい装束に身を包んだ大勢の老若男女、彼らは皆、実に優雅に、それでいて心から楽しそうな表情で踊りを楽しんでいた。気後れしたり退屈そうに見物している人は一人もなく、皆がそれぞれのペースで踊ったり、休憩して会話を楽しんだりしていた。
 曲が終わって、二人は休憩するために、ホールの隅に置かれたソファーに腰掛けた。蓮の花びらをデフォルメした変わったデザインのそのソファーは、柔らかで繊細な淡いピンク色の布を張られていたが、一度腰を下ろすと、もう二度と立ち上がりたくないと思うくらい、座り心地が良かった。
 男の隣に腰掛けて、ターシャは例の世にも美しいシャンパンを水のように一息に飲み干し
「あなたもいかが?」
と新しいグラスをウエイターから受け取って男に手渡した。
 男は、その異界の飲み物を少しずつ大切に味わいながら、ソファーに全身の重みを預けて、体を左右にゆすってみた。すると、まるでそれは本物の蓮の花びらで、自分はその中にいる小さなアマガエルのようではないかと、彼はふとそんな感慨に浸った。
 何という平安。何という調和。それぞれ沢山の人の持つ文化や、室内の美術様式などはてんでばらばらなのだが、国や文化を超えたもっと大きな美意識でこのホールの中は一つにまとまった、絶妙に調和した美的世界を作り上げていた。生前どこで暮らしていたか、どんな宗教を持っていたか、そんなことはまるで関係ない、自由で平等な世界がそこにはあった。大きな髭を蓄えたアラブの装束の男性が大胆に肩を露出したロイヤルブルーのカクテルドレスの女性と一緒に、ラテン風の音楽に合わせて楽しげにステップを刻む姿は、あちらの世界ではなかなかお目にかかれない光景だろうと男は思った。
 そうしてそこでぼんやりと周りの景色を眺めていると、先ほど何気なく目にした壁の動物たちの絵が、再び男の目にとまった。そこには実に生き生きと、地上の様々な生き物たちが、所狭しと描かれているのだったが、中でも男にとって一際興味深かったのは、猫とねずみ、ライオンとシマウマなど、捕食者と被捕食者、いわゆる自然界の天敵と呼ばれる動物たちがあえて近くに配置されているということだった。不思議に思って男が目を凝らしてもっとじっくり模様を見ようとすると、そこでまた曲が変わった。
「今度はマズルカよ」
そう言って、ターシャは立ち上がると、またしても有無を言わさず男を踊りの渦の中に引きずりこんだ。先ほど踊ったワルツに比べてかなりテンポの速い難しいステップに、男は何も考える余裕なく、無心になって音楽に体を任せた。小気味よいリズムに合わせて足を運び、規則正しいステップを踏んでいると、男はいつか自分の置かれている現在の状況を忘れた。

 自分が今いるのは半強制的に乗せられた船の上だということ、その航海の果てにあるのは自分にとって望まない生、あの忌まわしい前世での継母、ローズ・ハミルトンの生まれ変わりである女のもとに生れ落ちるのだということ。そんな諸々の悪条件を全て忘れて、男は思いがけず訪れたそのひと時につかの間の快感を覚えた。
「ルーカス、あなた何だか楽しそうね」
踊りながら彼の耳元でターシャが囁くように言った。
「ああ、まあね」
男は、ステップの難しさに気を取られて笑顔を作る余裕がなく、真剣な表情のままそう答えた。
「よかった。あなたの楽しそうな顔を、私初めて見たわ」
「これでも楽しそうだということが、君には分かるのかい」
男は尚も顔をこわばらせたままそう尋ねた。
「分かるわ、それくらい。あなたのことは何だって」
ターシャは満足そうに微笑みながらそう言った。
(この女には何でも見透かされてしまう)
そう考えて男は一瞬足元への注意を怠った。すると次の瞬間、彼の足はターシャの足と複雑にもつれあった。そして、なぜか不思議な体勢で彼一人がドシンと間の抜けた音を立てて、床の上に倒れこんだ。

 あたりにさざ波のような静かなどよめきが起こった。人々は一瞬何事かと驚いた表情で、倒れている男の方を向いた。男はその洗練された空間に全くそぐわない、ぶざまな自分があまりにも情けなく、顔を真っ赤にしてうつむいたまま慌てて体を起こそうとした。すると彼の頭上に、大きな人影が現れた。

 そのまま視線を上に向けると、そこには南国風の鮮やかな布をまとった恰幅の良い老人がいて、人の良さそうな笑みをたたえながら
「大丈夫ですか?」
と問いかける姿があった。
「ええ、大丈夫です」
自力で起き上がろうとするが、焦って尚も床の上で滑りそうになる男に向かってその老人は
「どうぞ」
と浅黒くて肉厚の、まるでグローブのような右手を差し伸べた。
 男は驚いてもう一度老人の顔を凝視した。その目は澄んで、静かな光を放っていた。男は一瞬躊躇したが、そのばつの悪い状況を一刻も早く打開するために、素直に老人の手を摑んだ。するとその老人は、老人とは思えない見事な力強さで軽々と男を起き上がらせた。
 気がつくと音楽は止まり、みんなの視線が男の方に集まっていた。男はあまりの恥ずかしさに一瞬にして体中の水分が汗になるのではないかと感じた。するとその時
「ようこそ!新しい仲間」
と側にいた誰かが大きな声で言った。すると、その声を皮切りに皆口々に
「ようこそ、いらっしゃい」
「よく来てくれたね」
「聞いたわよ、あなたはすばらしいわ!」
と言って、一斉に拍手を送った。
 男は一瞬何が起こったか分からず、怯えたようにあたりをキョロキョロ見回したが、どうやらそれは彼に対して向けられた言葉で、このホールの中の人達は皆、彼を温かく迎えてくれているようだということがおぼろげに感じ取れた。男はやっとの思いで、近くに立って事の顛末を静かに見守るターシャの姿を見つけ
「どうなってるんだ?」
と訴えるような眼差しで問いかけたが、ターシャは何も言わずに彼を見て嬉しそうに笑っているばかりだった。
 そのうち、再び音楽の演奏が始まった。今度の曲は、牧歌的な田舎の民族舞踏曲のような曲だった。皆銘々にステップを踏みながらどこからともなく隣同士で手を取り合って長い列が作られはじめた。人々は笑いながら近くにいる人を踊りの列の中にさらっていってしまう。ぼーっと立ち尽くしていた男もいつしか左右から腕をつかまれて、有無を言わさず踊りの輪の中に引きずり込まれてしまった。何だか訳が分からない展開になってしまったことに慌てながら両隣を見ると、彼の右手は白にブルーの三本線の入ったインドのサリーのような簡素な衣装を身に纏った彫りの深い顔立ちの老女に、そして左手は“peace now”と書かれた白いTシャツを無造作に着て小さな丸メガネを掛けた鷲鼻の青年に、しっかりと握られていたのだった。男は奇妙な照れくささを覚え、早くこの場を離れたいと思ったが、その列はどんどん長く繋がり、踊りの速度はどんどん加速されていくため、彼はなすすべもなく足をもつれさせながら引きずられるように踊り続けるしかなかった。
「大丈夫、そんなに固くならなくっても。子どもみたいに、ほら、こうやって」
不安な表情の男に、右隣の老女が日に焼けた顔に皺をいっぱい寄せていたずらっぽく笑いながら、黒いサンダル履きの大きな足を思いっきり蹴り出してオーバーにステップを踏んで見せた。
「そう、自由に、リラックスして。好きなように音楽に身を任せればいいんだよ」
左隣の青年もバネ仕掛けの人形のように大げさに飛び跳ねて、鳶色の髪を軽やかに揺らしながら、男に向かって楽しそうに言った。
 彼らの笑顔には独特の雰囲気と説得力があり、男はなぜか素直に、あれこれ考えることをやめ、言われたとおり体の力を抜いて、音楽に合わせて好きなように体を動かしてみた。すると、先ほどターシャと二人でマズルカを踊っていたときのように、いや、それ以上の弾けるような楽しさが、男の内側から自然に湧きあがってくるのだった。陽気な音楽、人々の心からの笑顔、踊りの列はどんどん長くなってやがて大きなホールいっぱいに何重もの円を作っていった。一番外側の円の中に男はいた。もはや、彼はその踊りの渦の中に自分の身をおいていることに戸惑いを感じなくなっていた。理屈抜きに、音楽に合わせて体を動かすことは楽しかった。それもこんなに大勢の善良な人々に囲まれ、そして、何とも不思議なことに、どうやら自分は彼らに歓迎されているのだ。彼の知る限り、彼の人生の中で、自分が誰かに「ウェルカム」とこんなにも気持ちよく迎え入れられたことはなかった。男は胸の奥に熱いものがこみ上げてくるような感覚を覚えた。
「あれを見て」
不意に左隣の青年が、内側の列の人々を見ながら男に話しかけた。
「君の目の前の黄色と赤の服を着た人たち。彼らは生前ベトナム人アメリカ人だった。右の黄色い方がベトナム人で、左の赤い方がアメリカ人だ。彼らの国は、僕があの世に生きていたころ戦争をした。彼らと彼らの兄弟や親類は、お互いに戦場で殺し合ったんだ、銃や爆弾を使ってね。でも、今ここで、彼らは何のわだかまりもなく、手を取り合ってああして陽気に踊っている」

そう言うと、青年は一瞬自分の着ているTシャツのロゴに視線を移し、言葉を続けた。

「あちらの世界にいた頃、人種や民族や宗教を超えて全ての人たちがこうして手を取り合える争いのない平和な世界が来ることを僕は願い、平和の歌を作って世界中にその願いを広めようとしたんだ。…君は知らないかもしれないけど、その頃、僕達の音楽は革新的と言われ、もてはやされていたからね」

ちょっと照れ笑いを浮かべながら、青年は、まるで歌うように

「今ここで僕が見ているこの世界を、今度行くあの世で実現させることができたらどんなにいいだろう」

と言った。
 青年が話し終わると、今度は反対側の老女が口を開いた。
「ついでに言うと、あなたの右斜め前にいるきれいな女の子はね」
彼女が指しているのは、きらびやかな濃い牡丹色のサリーを身にまとい、美しく着飾った若い女性らしかった。
「彼女はあの世では、カルコタの路上で生活していたの。私が彼女に会ったときには、やせ細って、もう自力で水も飲めないくらい衰弱していたけれど…、彼女は最期に持てる限りの力で「ありがとう」と言って、私の手を握り締めたわ。こうしてこちらに来てあんなふうに活き活きとした彼女に出会えて、私はホントに嬉しいのよ。全ての人の存在の大切さが、ここでははっきりと認められているんですもの」
そう言って、老女はこの上なく嬉しそうに目を細めた。
 男は、彼らがいったい何のことを言っているのかすぐには理解できず、しばらく彼らの指す人々を目で追っていた。「争いのない平和な世界」「全ての人の存在の大切さ」、男にはそれらの言葉はあまりに馴染みがなく、繰り返し反芻しようとすると妙に体の奥がむずがゆくなるような気がした。しかし、恐る恐る両隣の二人の顔を交互に横目でのぞき見ると、二人とも、本当に満足そうな優しい眼差しを彼に送り、男には、彼らが言っていることが単なる理想論や絵空事ではないように感じられた。
「ありえない」
男はそう独り言のように言った。彼らの言う世界の実現を指してそう言ったのか、それとも、このあまりに理想的な世界に自分が今存在しているというこの違和感を指してそう言ったのか、彼自身、何が有り得ないのか自分でもよく分からなかった。彼は初めこの部屋に入った直後と同じような軽いめまいと息苦しさを覚えて、自分を取り戻そうと辺りをきょろきょろ見回した。そこで彼は更に「有り得ない」光景を目にして息を呑んだ。
 彼の視界に飛び込んできたのは彼のすぐ後ろの壁に描かれた、かつて平面であったライオンが、実在として空間に姿を現しているという信じがたい事実であった。しかも、もっと驚いたことにそのライオンはすぐ側にいる彼の餌であるべき縞馬の首筋を、あたかも母猫が子猫にするような愛しさをもって優しく舐めているということだった。一方の縞馬はといえば、心地よさそうに安心しきった表情で目を細めて、ライオンのするに任せているのだった。その側では、子猫とねずみがじゃれ合っていた。ねずみがわざと尻尾を左右に振って子猫を手玉にとって遊んでいるのだ。
 その光景を目の当たりにして、彼はしばらく夢の中にいるような心地がした。もっとも、彼の今いる世界自体、夢とも現実ともつかない不思議な時空間ではあった。しかし、今彼の見ている動物たちの営みは、そのことを大前提としても、彼の想像を超えてなお余りあるものだった。
「あ…ありえない」
彼は先ほどと同じ言葉を繰り返し呟いた。すると、彼の頭上から、色とりどりの花びらが、あたり一面に舞い降りてきた。見上げると、春のような暖かい光の中に、美しい色の小鳥たちが歌いながら飛び交い、その中に先ほどの白い衣装を着た子ども達も、背中の小さな羽根を羽ばたかせながら一緒になって飛んでいるのだった。続いて、花のような衣装の女性たちも次々に重力に逆らって空中を遊泳し始めた。背後から流れる音楽はいよいよ壮麗さを増し、人々の胸の高鳴りをいやがおうにも掻き立てた。
 男が呆然とその光景を眺めていると、やがて周りの人たちもみなそれぞれにふんわりと、まるでシャボン玉のように軽やかに、空中に浮かび始めた。
「さあ、僕たちも、行こう」
左側の青年が、男を促した。
「そ、そんな。行こうったって、どうやって…」
戸惑う男に、右側の老女が優しく
「いいこと?心を落ち着けて。ゆっくり大きく息を吸って。…そう、いいわ。そして、…そうね、例えば、今までで一番楽しかったことを思い出すの。何にも考えず幸せだった時のことを。あなたにもあるはずよ。遠い昔の楽しい記憶が…」
男は老女の言うとおり、今までで一番楽しかった時のことを思い出そうとした。…柔らかな日の光、木漏れ日を浴びながら幼馴染の少年と二人で秘密の空き地に生えた大きな樫の木の枝に登った時の思い出。虹色に輝く珍しい虫を見つけた時の嬉しさ。草の匂いを帯びた優しい風の感触。そんな記憶を手繰りながら大きく深呼吸をした瞬間、彼の体は軽くなり、両隣の二人と手を取り合ったまま、皆で一斉に空中に浮かび上がった。
「うわぁ!」
うまく重心がとれずに足から逆さまに上っていこうとする彼の体を、青年と老女はしっかりと支えながら、三人の体は徐々に上昇を続けていった。
「もっと体の力を抜いてみて。『自分はもともと空を飛べる生き物なんだ』って思って。怖がらずに、そう、肩も指先も全部力を抜いて。…そうだよ!すばらしい!君は何て飲み込みがいいんだ!」
 青年に褒めちぎられて、男はまるで初めて自転車に乗った時のような高揚感を感じながら、その初めての無重力感に身をまかせた。
 あたり一面に降り注ぐ眩い光のプリズムと色とりどりの芳しい花々、美しい鳥達が舞い遊び地上には様々な生き物たちが仲睦まじく群れ遊び、背後にゆったりと流れる壮麗なオーケストラの音色に合わせて人々は天人のごとく空中を遊泳する、そこはまさに天界の楽園さながらであった。
「いったいこれは…。何だ?何が起こっているんだ?」
無重力状態に幾分体が慣れるにつれ、冷静な思考力を取り戻し、男は隣の老女にそう尋ねた。
「何って、あなたにはこの光景が何に見えるの?」
老女はいたずらぽい目をキラキラと輝かせながら、逆に男に問い直した。
「何に見えるかって…。僕にはこの光景はまるで天国のように…」
老女は目の端に限りない慈愛を浮かべながら
「そう、あなたがそう感じるのなら、それが真実よ。ここは天国で、あなたは今、天使たちと一緒に天空を遊泳しているのよ」
と言った。
「そんなバカな」
男は情けない声でそう呟いた。
 これまで一度もろくなろくなことがなかった自分の人生。35回目の転生では不慮の事故とはいえ炭鉱で人の命を殺め、その罪滅ぼしにその次の生では孤児として生まれ、酷い継母に歪められ落ちぶれた貧乏画家のまま生涯を閉じた自分。そんな自分が、今こうして心清らかな人々の一員として天使とともに天界にいるなんて。
「嘘だ」
彼は両隣の二人に助けられながら空中に浮かんだまま、そう言って首を横に振った。
「何が嘘だと言うの?」
隣の老女が男の顔を心配そうに覗き込みながらそう尋ねた。
「僕のような人間が、天国にいるなんて、そんなの嘘だ。今まで何一つろくなことをしてこなかったこんな男に天国だなんて。悪い冗談だ。きっと、あのヨハネスの野郎の陰謀だ。そうだ、そうに違いない」
「あら、そんなことないわ。あなたは女の子を助けたじゃない。あれは本当に立派な行いよ」
隣の老女は、先日の一件を見ていたかのようにそう言って彼を励ました。
「そんなこと…、あれは本当にたまたまだよ。ただ何となく投げたぬいぐるみが勝手に動きだしたんだ。なんであんなことが起こったのか、なぜあなたがそれを知ってるのか、この船に乗ってから不思議なことばかりだけれど、その中でも一番不思議なのはこの状態だ。…とにかく僕はこの場所にはひどく場違いな人間なんだ!」
かなりむきになって男は一気にそうまくしたてた。隣の老女は尚も優しい眼差しを男に注ぎながらたしなめるようにこう言った。
「この場所にふさわしくない人間など、本来一人もいないのよ。全ての人は、こうしてここで安らかに幸せな時間を共有できる資格を持っているのよ」
「全ての人?」
男はますます分からないというように奇妙な声を出した。
「僕がここに“ご招待”を受けたのは、あの女の子を…まあ、結果的に助けたからなんだろう?そうでなければ僕のような者は到底こんな場所に出入りできる人間ではないんだ。まして、…恐らくあなたも知っているだろうが、この船の船底には、相当長い間そこに居座り続けている魑魅魍魎のような輩もいるんだ。あんな奴らでも、もとは人間なんだろう?あなたの言う『全ての人』というのは、ああいう奴らも含めて、ってことなのかい?」
男は半ば皮肉めいた顔で自嘲的にそう言った。
「そう、彼らにも、ここに来る資格はあるのよ」
老女はまっすぐな眼差しを男に向けながら、きっぱりとそう言い切った。
「資格ったって…」
老女の言葉のあまりの迷いのなさに男は一瞬ひるんで少し弱気な声を出した。そんな男に老女は優しくこう語った。
「あなたが受け取った金の縁取りの招待状、あれと同じものを当局は毎月この船の乗員全員に送っているのよ。船底に長く留まっている人達には、それこそ数え切れないくらいの数の招待状が、彼らの手元に届いているはずなの。ただ、彼らはそのことに気づいていないの。または、気づいていてもある一つの条件をどうしても受け入れられなくて、ここに来ることが出来ないのよ」
「その条件って、何なんだ?」
男はいつもの好奇心がムクムクと頭をもたげてくるのを自分の中に感じながらそう尋ねた。
 すると老女は、彼とつないでいる左手に力を込めながら
「それは、全てを受け入れて許す、という条件よ」
と答えた。
「全てを受け入れて許す?」
 老女のその言葉はまるで聖なる呪文のように男には感じられた。

 ああ確かに、それは素敵なことに違いない。自分の身の上にこれまで起こった全ての出来事を許して受け入れることが出来たなら、人間は皆どんなにか幸せになれるに違いないのだ。

 しかし、その言葉を繰り返し唱えるうちに彼の脳裏に浮かんできたのは、あのローズ・ハミルトンの姿だった。鋭い目つきでこちらを見据えるその醜く忌まわしい顔。そして、その映像の背後からは赤黒い邪悪な空気が渦巻いて今にも自分を飲み込もうと迫ってくるように男には思えた。

 そしてそれと同時に、全く別の残像も彼の脳裏に去来した。ならず者同士の抗争の末に、額から血を流して薄目を開けたまま通りに横たわる若い男の遺体。見覚えのある髪と瞳の黒と青。

 それらの映像を思い浮かべた瞬間、彼の胸の奥にも黒い塊のようなものが一瞬にして広かるのが感じられた。激しい憎しみと嫌悪感、そして後悔と自責の念。一気にこみ上げる二日酔いのムカつきのような感覚に彼は突然襲われた。
「ああ、だめよ!」
老女のそう叫ぶ声が全て聞こえる前に、彼の体は突然鉛のように重くなり、彼の手は、しっかりとつないでいる隣の二人の手をすり抜けて、そのまま床に急降下した。
「うわぁ~!」
 ズシンという鈍い音とともに、彼の目の前は真っ暗になった。
 あっけない宴の幕切れだった。