第12章 不思議な関係

第12章 不思議な関係

 その夜、男は部屋に帰るなり疲れて眠ってしまい、気がつくと、窓の外にはもう翌朝の朝日が高く昇っていた。

 彼がぼんやりとベッドの上で横になっていると、ドアが3回軽くノックされた。
「どうぞ」
と、男がそのままの姿勢で気だるく返事をすると、例によってターシャが黒猫のような身のこなしで、部屋の中に入ってきた。
「おはよう、ルーカス。あなた、昨日はどうしていたの?」
ターシャは大きな鳶色の目で男を見詰めながら、何の含みもなさそうにそう尋ねた。
「ああ、まあね…」
「なぁに、それじゃあ返事になってないわ」
ターシャは、背もたれのない椅子の上に腰掛けると、足を組んで小首をかしげながら男の顔色を伺った。
「どうせ君は昨日の僕の行動を、どこかで逐一見ていたんだろう」
男は横になって目を閉じたまま、諦めたようにそう言った。
「ええ、まあ、それはそうだけど」
 ターシャが、全く悪びれる様子もなく、さらりとそう言い放つのを聞いて、男は内心がっかりして、眉間に皺を寄せた。出来ることなら昨日のことは、この女には知られたくないと、彼は思っていたのだ。
「この船に乗る前に、今度行くあちらの世界の現代の様子について、多少調べてみたことがあったが…」
男は、横になったまま顔だけターシャの方に向けて、意地の悪い口調でそう言った。
「確か、これから僕が生まれる予定のあちらの世界では、プライバシーというものが個々人の権利として、しっかり保障されているそうじゃないか」
「そうだけど…それが何か?」
ターシャは椅子の後ろに手をついて、背筋を伸ばしながら、そう言った。
「まあ、君はそういう任務を帯びているのだろうから仕方ないが…。それにしてもあんまりじゃないか。僕のプライバシーというものは、いったいどこにあるんだ」
「そんなもの、ないわよ」
悪魔のような台詞を、天使のような微笑みをうかべながらターシャは言った。
「プライバシーというのは、あちらの世界で、ある種の政治理念のもとに正しく機能している国家においてのみ国民に認められている権利のことで、あちらの世界の全ての人間に与えられているものではないし、少なくともこの船の中で適用されるものではないわ。それに、あちらの世界でもプライバシーというのは、為政者が効率よく国民を統率するために便宜上打ち出した概念であって、あくまでも建前上のものよ。あなたの読んだ教科書には、そこまでは書かれていなかったかしら?」
親切な社会科教師のように、ターシャはよどみなくそう言った。
「建前上?それはいったいどういうことだ?」
男は、熱心な生徒のようにそう尋ねた。
「要するに、今のあなたと同じように、知らないところでみんな知られているってことよ」
それを聞くと、男は不貞腐れたようにベッドの上に手足を投げ出して、死んだように動かなくなった。
「要するに僕は、まな板の上の鯉って訳だな」
「なあに?そのまな板の上の…。それは食べられる物?」
ターシャのとぼけた質問に、男は聞こえないふりを決め込んだ。窓の外は、その日もよく晴れて、風も穏やかそうだった。
「それにしても、君はいいよな…」
しばらくして、ふいに男がそう言った。
「あら、どうして?」
うつむいて肩から流れ落ちる髪の毛の隙間から、ターシャは横目で男の顔をのぞきながら、無垢な表情でそう尋ねた。
「だって、君はあの世に生まれなくてもいいんだろう?老いることも飢えることも苦しむこともなく、そのままの姿で、ずっとそうやって、僕のような哀れな人間の生と死を見守っていればいいんだろう、君のような存在は」
「まあそれはそうだけれど…」
ターシャは瞬きを何度もしながら、ふいに改まってそう言う男の顔を、まじまじと見詰めた。
「でもね…」
背もたれのない椅子の上で器用に膝を抱えて、ターシャは言った。
「こうして大勢の人の船旅に同行して、その都度その人達の人生の断片を見ていると、…正直、人間という生命体がちょっぴりうらやましくなることだってあるのよ」
「何がうらやましいって言うんだ?」
男は呆れて鼻で笑いながらそう尋ねた。
「そうやって、感情的になるでしょう?あなた方人間は。私達にはないもの、そういう生々しい感情というものが。人を好いたり嫌ったり、恋に身を焦がしたり憎しみに身もだえしたり。出会いの嬉しさや別れの悲しさ、そういうドラマティックな心の動きって、何だか凄く…」
「凄く…、何だ?」
しばし間を空けてターシャは
「憬れるわ、そういうのに」
と、潤んだ目で窓の外の朝日にきらめく海を見ながらそう言って、ホッとため息をついた。
「それは、どうも…」
やれやれ、と男は呆れ果てて二の句が継げなくなった。人間と同じ姿形をしていながら、人間の心を持たないこの航海の水先案内人、ターシャ。あちらの世界に一度も生まれたことのない、またこれからも生まれる必要のないこの女。転生に抵抗して四苦八苦している彼にとって、そんな悠長なことを考える彼女は、腹立ちの対象とさえ感じられた。
「まったく、君の憬れる喜怒哀楽の感情を、出来ることなら僕の分まで君に分けてやりたいくらいだ。確か僕が以前少しかじった東洋の仏教では、そういう感情を「愛別離苦」とか「怨憎会苦」とか言うんだったが、要するに我々人間の感じるそれら諸々の感情は、全てあの世における苦しみであって、避けがたい一種の枷のようなものなのだそうだ。君のような当局の関係者は、もはや僕らのようにあの世での修行を必要としない訳だから、それだけ進化した存在なのだろう?そんな君が、こんなにも情けない我々人間をうらやましいと感じるなんて、全く、どうかしてる…。僕には贅沢としか思えないよ」
と、苛立ちを抑えながらそう言った。
「そうね、確かにそうかもしれないわね」
ターシャは窓の外に視線を向けたままそう答えた。
「だけど、あなた方人間は、その短い一生の中で一つのドラマを紡ぎ出していくわ。この船の図書室に納められている膨大なデータの一つ一つが、唯一無二のドラマなのよ。どんなに苦しくとも、たとえどんなに惨めであっても、やはりそれはかけがえのない尊いものだわ」
「それ…とは?」
男がそう聞き返すと、ターシャはそれまで窓の外に向けていた視線をゆっくりと動かし、男の顔を正面から見詰めて、ゆっくりと強く張りのある声で、何かを宣言するかのように
「命の営み、尊いのはそれ自体よ」
と厳かに言って、まるで女神のような神々しい微笑を浮かべた。やわらかな朝の光を反射したターシャの頬は象牙のように滑らかで、瞳は水晶のように静かなきらめきを放っていた。彼女のその表情があまりにも美しく見えて、男は一瞬放心し、先ほどの苛立ちはどこかにいってしまった。
「今度あの世に生まれたら…」
しばらくして男は口を開いた。
「願わくは君をモデルにして、聖母マリアの像を描いてみたいものだ」
純粋な少年のような目をして、彼はそう言った。
「そうね、そんなことが出来たら、どんなにかステキでしょうね」
決してかなわない夢を思い浮かべる少女のように、ターシャはうつむき加減に小さく笑った。静かな沈黙が二人を包み、窓の外から聞こえてくる、船体に打ち寄せる静かな波の音だけが、ゆっくりと時を刻んでいた。
 やがてその沈黙を破るかのように、ドアがリズムよくノックされた。
ターシャが内側からドアを開けると、そこにはターレスのさわやかな笑顔があった。
「おはようございます。おや、今朝はお二人ともお揃いですね」
ターレスの金色の髪の毛は、小さな窓から届く朝日に透けて、男の目には彼はまるで本物の天使のように見えた。
「ルーカス、今日はあなたに折り入ってお願いがあるのです」
ターレスは朝日にまぶしそうに目を細めながら、そう言った。
「何だ、急に改まって。先に言っておくが、どうせ僕は大して役にはたてないぜ。まあいい、狭い部屋だが、入れよ」
男は、ターレスを中に招き入れた。
「それでは、私はこれで。何か御用があったら、いつでも呼んでください」
ターシャはそう言うと、ターレスに感じのよい笑顔を見せ
ごきげんよう
と言って部屋を出て行った。
「すみません、何だかお邪魔だったようですね」
ターシャの後ろ姿を見送ってから恐縮するターレスに
「いや、別に」
と、男は努めて素っ気なく言った。
「ところで…何だよ、その折り入ってのお願いというのは?」
少しわざとらしい咳払いをしてから、ターレスは話しはじめた。
「お願いというのはですね…、あなたもよくご存知の、あの地下の賭博部屋のジーナという女性のことなのです」
「ああ、あのジーナか。彼女に何の用だ?」
「ええ、図書館で調べていて分かったのですが、私は実は何度か前の転生で、彼女とちょっとしたご縁がありまして…。詳しいことは個人情報の関係でお伝えできませんが、私は彼女にかなりの恩義があるようで…」
「なんだ、都合の良い時だけ個人情報なんてものが通用するんだな」
男は口をへの字にしながら
「まあいい、それで?」
と続きを促した。
「単刀直入に言うと、私は彼女をあの船底から、もう一度輪廻転生のサイクルの中に連れ戻したいのです」
と、強い眼差しでそう言って、男の目を見据えた。
「そんなマジな目をされてもなぁ…。そんなことは、ジーナの気持ち次第じゃないのか?彼女のあの性格じゃ、どう考えても素直に君のその考えに従うとは思えないが…」
「ですから、あなたのお力をお借りしたいのです」
と、ターレスは尚も真直ぐな視線のまま、男に食い下がってきた。
「で、僕にどうしろと?」
体を半分斜めにしながら、男は面倒くさそうに尋ねた。
「彼女から、理由を聞き出していただきたいのです。どうしてあの場所に居座って転生を拒み続けるのか、という理由を」
「だけど、それは、あれだろ?…ほら、さっき君が言ってた…、個人情報ってやつだろ?」
「ええ、ですから、それを私にお伝えいただく必要はないのです。ただ、彼女の無念な思いを聞いてさえいただければ、彼女の中で何かが変わるのではないかと思うのです。私は、その彼女の中の変化に、ジーナの内なる良心に、賭けてみたいと思うのです」
この自分の目の前の好青年と場末のあばずれジーナとの間にいったいどんな関係があったのか、男にはいささか興味深い問題ではあったが、しかし、彼にとって、その気のない人間を無理やり転生のサイクルに乗せるのは、まるで自分の姿と重なるようでためらわれた。
「まあ、君の気持ちも分からなくはないが…、さっきも言ったが、ジーナは彼女の意思であそこで好きなようにやっている訳なんだから、それを無理やり更正させようとするのは、はっきり言っておせっかい以外の何者でもないんじゃないだろうか?」
「そんな悠長なことを言っている場合ではないのです」
ターレスはいつになく強い口調で、表情を変えずにそう言った。
「あの部屋でいつまでも長居していると、本人も気づかない間に、だんだん良くないことになっていくのです。あの賭博部屋の奥の呪いの小部屋、あの中の住人の大半は、始めは賭博部屋でふらふらしていた連中なのです。でも、滞在時間が長くなるにつれ、次第に自分の本性を忘れていってしまうのです。そして本心、つまり内なる良心の存在もいつしか忘れ去って、遂には、あの、人間かどうかの区別もつきかねるような醜悪な姿へと成り果ててしまうのです。ですから、私が出会ったこの航海中に、何とか彼女をあの場所から救い出したいのです」
ターレスは、両手を強く握り締めてそう言った。彼の額には薄っすら汗がにじんでいた。
「あの呪いの小部屋の住人…」
男は昨日の出来事を再び思い出しながらそう呟いた。あの悪臭のするボロ布をまとった、男女の区別も定かでない、うつろな目の連中。か細いジーナの色っぽい背中があんな姿に変わってしまうのを黙って見過ごすのは、あまりに忍びないと彼は思った。長い沈黙の後
「…分かった、いいだろう。君に手を貸すよ。実は僕も、彼女にいささか借りがあるんだ」
と言うと、男はまぶしい時にするように目を細くしてターレスを見詰め、口の右端を少し上げて笑った。
「そうこなくっちゃ。さすが、あなたは私の偉大なひいおじい様だ」
ターレスは満面の笑みで男に笑い返した。
「それを言うな」
男はすぐに表情を変えると、横目で冷たくターレスを一瞥した。

 紫色の煙の立ちこめるカウンターで空のグラスをもてあそんでいる男の隣に、いつもの不味い酒を飲みながら眉をしかめるジーナが近づいてきて
「飲む?」
と言って、自分のグラスを男に差し出した。
「ああ、ありがとう」
そう言って男は手渡されたグラスに一口口をつけ、やはりジーナと同じように黙って眉間に皺を寄せた。
「これより何十倍もうまい酒を、この船の中で一度だけ飲んだことがある」
独り言のように呟く男の声に、ジーナは軽くうなずいた。
「知ってる。何か随分お偉いさんばっかりが集まるパーティーみたいなのやってる部屋で、そういうのが出るんでしょ?ずっと昔、人に聴いたことがあるわ。へー、すごいじゃん。あんた、そこに行ったことあるんだ?」
「ああ、偶然あの世の少女を助けたとかいうことで、その褒美にと、わざわざご大層な招待状までもらったよ。…そう言えば、君も昨日僕を助けてくれたんだから、そのうち招待状が届くんじゃないのか?」
「そんなもん、来るわけないわよ。こんな賭場の女のとこなんかに」
そう言って、ジーナはケラケラと声をたてて笑った。
「それなら君も知ってるターレス、ほら、この前ここに来た金髪の男だ。…彼に頼めば、そこに連れて行ってもらえるかも知れないぜ」
男はさりげなくそう言って、もう一度不味い酒を少しだけすすった。
「あたし、あいつキライ…」
ジーナはそう言うと、男の手からグラスを取り上げて、中身を一気に飲み干した。
「ねえ、ジーナ、君は何でここでこんな不味い酒ばっかり飲んでるんだ?まあ、同じ酒好きとして、こういう場所がホッとするっていうのは分からないでもないが…。というか、本当は僕には君の気持ちはすごく良く分かるんだが。…でも、僕の事情はともかく、何で君は転生を拒むんだ?」
「何よ、その妙に遠まわしな言い方は?ここでこんな風にウダウダ時間つぶししてるってことは何か事情があるんだって事ぐらい、あんたには分かってるんでしょ?」
「ああ、僕には何となく察しがつくし、他人の事情に首を突っ込むのはあんまり好きじゃないんだが…。だが彼が、その…、ターレスがどうも君のことをやけに気にしててね…」
「何よ?あいつ…。何で、あんな苦労知らずのお坊ちゃんみたいなやつが、あたしのこと気にするわけ?」
「さあ、何でだか…。ひょっとしたら奴は君のことが好きなんじゃないのか?」
男はわざとそううそぶいた。
「げっ、ああいうのタイプじゃねぇ~」
ジーナは大げさに顔をしかめて、舌を出してみせた。
「で、なに?あんたはあいつにあたしのこと探って来いって言われてるわけ?」
ジーナは不信げに目だけ男の方に向けて、チラッと彼の横顔を盗み見た。
「いや、彼は礼儀正しい男だから、そういうのは個人情報であって、知り得た情報をむやみに他人に口外するべきではない、と言っていた」
「だったら、あいつの狙いはいったい何よ?」
ジーナはむきになって男に詰め寄った。
「彼はただ、君がなぜここに滞在し続けるのか、その訳を君の口から聴いてみてはどうかと、今朝、僕に提案しに来たんだ。彼が何を思って僕にそんなことを言うのか僕には分からないし、別にその提案を受けて、君がわざわざ知り合って間もない僕に身の上話を聞かせる筋合いも全くない。そして僕も、無理にそんな込み入ったことを聞き出すつもりもない。ただ、彼はなぜだかそれを望んでいるんだけどね」
男は空のグラスの中に人差し指を差し込んで横に倒し、それをカウンターの上でゴロゴロ転がしながら、いかにもどうでもよさそうにそう呟いた。
「何それ?あいつ変わった奴ね。いったいどういうつもりなんだろ?」
ジーナは少し拍子抜けしたようにそう言うと、半ば呆れ顔で男の顔をのぞきこんだが、男も無言で眉をへの字にして、大げさに首をかしげて見せただけだった。
「まあいいわ、あんなやつの言うことなんか放っといて、飲みましょ。今日はあたしのおごりよ」
そう言ってジーナはしばらくその場を立ち去ったが、すぐに豊かな泡を浮かべた琥珀色の液体を並々と注いだ大きなピッチャーを重そうに運びながら席に戻ってきた。
「これ、ほら、この前のスズキ課長の。あいつ、相変わらずチョロいんだ。さあ、飲んで」
そう言うとジーナは、横倒しになった男の空のグラスを立て直すと、その中にビールを勢いよく注いだ。ビールは男のグラスから溢れ出し、カウンターを伝ってジーナの膝の上にまでこぼれた。黒いスカートの上に、ビールの泡は一瞬、波打ち際のような波紋を広げた。
「あの課長さんさぁ…」
ヒラヒラしたスカートの裾を振ってこぼれたビールを掃いながら、ジーナは何気ない調子で呟いた。
「娘がいるんだよね、確か10歳そこそこの。ああいう飲んだくれの親父を持つと、娘は苦労するよね…」
「…だろうな」
男は静かに相槌を打った。
「でもさ、あんな親父でも実の親父だったら、それはそれで、ちょっとは違ったりするのかな…」

 男はそのまま黙ってジーナの独り言に耳を傾けた。

「親父ってさ、何か…かわいそうじゃん?外で散々働いてストレス溜めてさ。でもって、あたしみたいな可愛げのない連れ子抱えた女と一緒になったりした日には、…そりゃ、大変なのは、あたしにだってよ~く分かってたわよ」
ふいにそう言ったかと思うと、ジーナは男のグラスに手を伸ばすと、中のビールをゴクゴクと音をたてて一気に飲み干した。
「ふぅ~」
と大きく息をつくとグラスをカウンターの上にドンと置いて、ジーナは再び語り始めた。
「でも、酔っ払いだからって、やっていい事と悪い事があるのよ…」
「悪い事?」
男は何気なさを装って、ジーナの言葉尻を繰り返した。
「いくら飲んだくれてたからって、娘にあんなことするなんて…。あたしにだって、花も恥らう乙女の時代もあったってのにさ。はじめは、あたしの部屋とあいつらの寝室を間違えたのかと思ったわよ、いきなりベッドの中に潜り込んでくるんだからさ。でも、あいつ、あたしの名前呼びながら『ごめん、ごめん』って…。謝りながらそんなことするなって言うのよ。でもさ、あいつも淋しいの分かってたんだ。あたしもあいつが親父になってくれるまで、いっつも一人ぼっちで母さんの帰り待ってたから…。でも、母さんはあいつ一人のものになるような、そんな大人しい女じゃなかった。あいつと再婚してからも、昔のお客と切れてなかったから、母さんだって悪かったんだけど…。でも、だからって娘にそんなことするなんて、ちょっとひどくない?…だけど、あたし、イヤって一度も言えなかった。あいつ、そんな最低な男だったけど、でも、…優しかったんだ。だから…あたし…」
そう言うと、ジーナはしばらく黙ったままうつろな目で、正面の壁に出来た大きなシミをぼんやりと眺めていた。
「まだ…、恨んでいるのか?…その父親を?」
男は、グラスのふちに付いた消えかけの泡を見ながら、正面を向いたままつぶやくようにそう尋ねた。
「ああ、たぶんまだ…恨んでる。でも…」
「…」
「あたしが15で家を飛び出した時、あいつどんな気がしたかな?…その頃妹が生まれてさ。ホントにあいつの子なのかよ?って始めは疑ってたんだけど、髪の毛や目の色なんかが、ホントあいつにそっくりでさ。その赤ん坊見てたら、何かあたし無性に虚しくなってきちゃって。…赤ん坊抱いて嬉しそうにしてるあいつを見てたら、あたし、もうこの家には居なくてもいいかな、って。…で、その後はお定まりの転落人生よ」
ジーナはそう言うと、両手で髪をかき上げた。
「15の小娘雇ってくれるとこって言ったら限られてるし、そもそもそんな安い給料じゃ暮らしていけないからさ。…色んな仕事して、色んな人間のドロドロした裏の顔いっぱい見てたら、いつの間にか変な病気もらってて…。早かったよ、あたし21でこっちの世界に来たんだもん」
「21か、…僕の半分だ」
男は妙なところに反応して、小さな声で相槌を打った。
 ジーナは再び長い髪を両手でかき上げると、そのままカウンターに両肘を付き、彼女の赤毛の髪は両側から、むき出しの肩と横顔を覆った。部屋の中は相変わらずタバコの煙が充満し、人々の喧騒とグラスのぶつかる音にまぎれて、ハスキーな女性ボーカルの歌う、ゆったりとしたジャズのメロディーが流れていた。
「あーあ、あの金髪のにいちゃんのお陰で嫌なこと思い出しちゃった。あたしこういう辛気臭い話、嫌いなんだ。ねえ、ちょっと外に出て風に当たらない?」
 そう言うとジーナは立ち上がってドアの方に向かった。男も黙って彼女の後に従った。
 30段以上ある長い階段を上がって、白いペンキを厚塗りした重い鉄のドアを開けてデッキに出ると、突然強い風が二人に吹き付けた。朝の爽やかな天気とはうって変わって、空は厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。デッキには人影はまばらで、一組のカップルと数人の男女が、所々に置かれたベンチに腰掛けて海を見たり会話を楽しんだりしていた。
「あ~、いい風。上に上がるのって、すっごく久しぶり」
強い風に赤い髪と黒いスカートの裾を翻しながら、寒そうに肩を震わせ、ジーナは冷たい外の空気を吸い込んで大きく深呼吸した。
「あんたはさぁ、もう許したの?あんたの母親」
デッキの柵に寄りかかって遠くのかもめを目で追いながら、ジーナがふいに男に尋ねた。
「いや…、許すとか、そんなことは考えたこともない」
「じゃあ、もう恨んでないの?」
ジーナは少し口を尖らせて、すねた子どものような口調でそう言うと、男を横目で見た。
「いや」
それだけ言って、男は黙りこんだ。
「それでもあんたは生まれていくんでしょ。結局その憎い女のもとに。…偉いね、あんたは」
「別に、好き好んでそうするわけじゃない。もうそれ以外、どうしようもないんだ」
男はジーナの隣でダラリと柵に体を預け、薄墨色の空を見上げて、投げやりな様子でそう言い放った。
「つまり、観念したってわけね」
「そう思いたくはないが…、まあ、そんなとこだな」
「万事休す…、か」
「…」
 試合に負けた後の選手のように、二人は打ちひしがれてデッキの柵に寄りかかり、無言で遠くの波を見詰めていた。空はいよいよ雲行きが怪しくなり、遠くに雷鳴が聞こえた。
「なあ、ジーナ」
「ん?…なに?」
「色んな感情って…、昨日、呪い部屋から僕を助けてくれた時、確か君は『色んな感情があるんだ…』って言っていた。憎しみや恨み以外の、その『色んな感情』って、いったい何だ?僕は、…そして君も、…僕らはなぜこうして運命の船の上で、憎い相手を憎みきることも出来ず、中途半端な憂いを持て余しているんだろう?何なんだ、この妙な感情は?なあジーナ、教えてくれ」
「そんなこと、あたしに聞かないでよ。自分で、…自分で考えな、…そんなこと。あたしはあんたとは違って、そんなに往生際が良くないんだし、あたしの考えなんて聞いても何の参考にもなりゃしないわよ」
ジーナは、突き放すようにそう言って、黙ってうつむいた。
「分からない。本当に、…僕にはだんだん分からなくなってきているんだ。今までの僕には、育ての母親への憎しみと反抗心が、ある種の原動力になっていたんだ。それが、この船に乗せられて色々な事実を見せ付けられるうちに、だんだん、本当に自分が相手を心底憎んでいるのか、自分で自分が分からなくなってきた。そして、君も見たように、昨日のあのざまだ。君もそうだろう?ジーナ。君も、その義理の父親を、憎みながらも憎みきれなくて…」
「そうよ…。ただ憎いだけなら、ある意味、今よりずっと楽よ」
ジーナはうつむいたまま、小さな声でそう呟いた。
「あたしね、自分に失望してるの。14の娘に手ぇ出した淋しい親父をさ、あたしだけが癒してあげれるんじゃないか?なんて、そんな勘違いしてた自分が、何だか情けなくて…。アハハ、おかしいでしょ?」
ジーナはそう言って、わざとらしく明るい笑い声を立てた。
「あの世にまた生まれて、またあんな思いするの、イヤなんだ、あたし。もう、懲り懲りだよ、あんなの」
空から小さな雨粒がジーナの肩に落ちてきた。
「でも、あのままいつまでもあの場所にいるのは良くないことだと…」
男がそう言い終らないうちに、激しいにわか雨に船はすっぽりと覆われた。雨を逃れようと慌てて船室に駆け込む人々の喚声が辺りに響いた。
「もうどうでもいいのよ、あたしなんて…。そのうち体の中から変な匂いがし始めて、しまいにはあの呪い部屋の連中みたいな薄汚い悪霊になっちまうのかもしれないけど…。でも、あいつらみたいに、恨みの感情に全部乗っ取られちまう方が、もう一回生まれ直すよりはきっと…、ずっと楽だよ」
土砂降りの雨の中で、ジーナは顔を上げずにそう言った。彼女の赤い髪にも黒いドレスにも雨は容赦なく降って、それらはジーナ体に張り付き、彼女の華奢さを一層際立たせた。男もずぶ濡れになりながら、その場に立ち尽くすしかなかった。
 しばらくして、体を叩きつけるように降る激しい雨が何かに遮られるのを感じて、ジーナはふいに顔を上げた。自分の頭上に紺色の傘がさしかけられていることに気づいた彼女が振り返ると、そこには、金色の前髪を雨に濡らして立つターレスの姿があった。
「お二人とも、こんなところでずぶ濡れになっていては、魂の底まで冷え切ってしまいますよ」
そう言って、ターレスは静かな笑みをジーナに向けた。
 ジーナは無言で一歩右によけて傘の外に出ようとしたが、ターレスもそのままジーナに付いて一歩右に歩みを進めた。
「放っといてよ!」
ジーナは肘でターレスの傘を払い除けた。
「全くあんたって、ホントおせっかいよね。あんたのせいで、忘れかけてた嫌な記憶、全部思い出しちゃったじゃないの!」
「そうですか。それは失礼」
口元に笑みを残したまま少し困った顔をして、ターレスは持っていた傘を男に手渡した。
「でも、それでは、どのみち忘れてはいなかったのでしょう?」
激しい雨に見る見るうちにターレスのブルーのシャツは紺色に変わった。ジーナはくるりターレスの方に向き直ると、怒りに燃えた目で彼をにらみつけた。
「あんたって、ホントにうざったい男ね。お願いだから、あたしのことは放っといて!」
「放っとけませんよ。放っておいたらこのままどうなるか、先の展開が分かりきっているのだから」
ターレスは穏やかな顔のままそう言った。
「ああ、もう、ホント、ムカつく!だいたいその目と髪の色、…よりによって、何で…。何で、あんた、いちいちあたしに絡んで来るのよ!」
「ずっと以前、数回前の転生で、私はあなたに随分お世話になったらしいので、そのご恩をお返ししたいと思いまして…」
「ああそう、それは随分と義理堅いこと…。だったら、あんたに一つお願いがあるの…」
ジーナは皮肉たっぷりにそう言った。
「どうぞ、私に出来ることなら何なりと」
前髪から雫を落としながらターレスは恭しくお辞儀をした。
「後生だから…」
「…」
「失せろ!この野郎!」
そう言って、ジーナは大きく拳を振り上げた。
これはあの時と同じ、以前の賭博部屋の騒動の再演だと、側で見ていた男は思った。確かあの時ターレスは、ジーナの振り上げた手を赤子の手をひねるように楽につかんだのだ。しかしその日の彼は、そうはしなかった。
 ドン!と鈍い音を立てて、ジーナの拳がターレスの胸を打った。一度、二度、三度、ジーナはターレスの胸を繰り返し叩いた。
「あんた見てるとホントにムカつくのよ!」
ジーナはさっきと同じ言葉を繰り返した。
「その髪、その目、あいつと…、あいつや妹と同じで…。それに、いつっも優しそうに笑ってばっかでさ!偽善者ぶるのもいい加減にしてよ!あたし、…あたし、その目にだまされて…」
ジーナは、明らかに混乱しているようだった。
「その優しい目にだまされて…。あたしのことだけ好きだったんじゃないの?あたしは単に母さんの代わりだったの?ただ淋しかっただけだったの?あたしのこと、好きって言ってくれたじゃない!」
ジーナはそう叫びながら、何度も何度もターレスの胸を拳で打った。ターレスは、ただ黙ってその言われのない恨み言を浴びせられながら、されるがまま、その場に立っていた。
「待て、ジーナ!それはお前の親父じゃない…」
ジーナの背後からそう呼びかける男の言葉を、ターレスは無言のまま目で制した。ジーナは尚も拳でターレスの頑強な胸を打ち続けたが、その力は次第に弱まり、仕舞には子どもの肩たたき程の強さもなくなってきた。
「もう!何で、…何で?バカ、バカ、お前なんか死んじゃえ…」
聞き分けのない駄々っ子のようにそうわめき散らした後、ジーナはハッと我に帰って、ターレスの顔を見上げた。
「彼はもはや、とうの昔に死んでいる。おそらく、自分の犯した罪の重さに一生さいなまれ続けて。…そのことは、あなたも十分承知しているのでしょう?」
ターレスは、慈愛に満ちたまなざしでジーナにそう語りかけた。
「…」
そのままターレスの胸に顔を埋めると、ジーナは声を上げて泣いた。
「あ…あたしは、…ほ…本気…だったんだからぁ!」
息も苦しそうにしゃくりあげながらそう言うと、ジーナはターレスの胸で泣き続けた。ターレスは冷たい雨から彼女をかばうために、そっとジーナの背中に腕を廻し、土砂降りの雨と一緒にジーナの涙は流れ続けた。
「泣きなさい。今まで我慢してきた分、ありったけの涙を流しきれば良いのです」
「…」
「そして、その涙が枯れたら…」
「…」
「あの賭場部屋から出て、もう一度輪廻転生の輪の中に戻って行くのです」
ターレスのその言葉に、ジーナはビクンと身を硬くした。
「輪廻転生?また、あの世に…」
「そう、もう一度、新しい命として生まれ変わるのです」
「イヤ!」
ジーナはターレスの腕の中で体をよじらせた。
「あの世に生まれるのは、もうイヤ!」
「…なぜ?」
「イヤったら、イヤ!」
そう叫んだジーナは、ターレスの腕を振り切ると、雨の中を素早く走ってデッキの白い鉄の柵に手をかけた。
「輪廻転生なんてまっぴらよ!これ以上あたしに近づいたら、ここから飛び降りてやる!」
巨大な船体に当たって砕ける細かい波を遥か真下に見下ろして、ジーナは目を見張る速さでヒラリと柵の上によじ登ると、片手で柵を掴んでその上で中腰になった。
ジーナ!やめろ!」
男はターレスの後ろで慌てて叫んだ。ターレスとジーナは、そのまま2mほどの距離を隔てて向き合った。
「なぜ、そこまであなたは転生を拒むのですか?」
ターレスは冷たい雨に打たれたまま、厳しい表情でジーナに問いかけた。
「嫌なものは嫌なんだよ!あんたみたいな苦労知らずに、あたしの気持ちが分かってたまるか!」
ジーナは手負いの獣のような必死さで再びターレスを睨み付け、そう叫んだ。彼女のピンヒールの靴の踵が、雨に濡れた丸い手すりの上で危うくきしんだ。
「危ない!」
ターレスの叫ぶ声と、ジーナの悲鳴が同時に聞こえたかと思うと、次の瞬間、ジーナの姿は男の視界から消えた。しかし、彼の耳に、水しぶきの音は聞こえてこなかった。手すりの上から足を滑らせたジーナの右手首は、柵の向こう側に素早く伸ばされたターレスの右手にしっかりと摑まれて、彼女の体は船の外で中吊になっていた。
「離して!離してよ!」
ジーナは苦しそうに顔を歪めながら、尚もターレスに歯向かった。
「離しません。今離したら、落ちてしまうではないですか」
ターレスは、上半身を柵の外に乗り出した状態で、無理に笑顔を作りながらそう言った。
「落ちたっていいのよ!このまま海の泡にでもなれば、転生せずに済むじゃない!」
「人魚姫じゃあるまいし、そう簡単に泡になんてなれませんよ」
「じゃあ、どうなるのよ?」
「さあ、私にも分かりません」
「とにかく、その手を離しなさいよ。そうしないと、あんたまで、落っこちちゃうじゃないの!」
「いいえ、離しません」
二人は、そんなギリギリの苦しい体勢の中で、そんなやり取りを交わした。
「…怖い」
ジーナが急に弱気な声を出した。
「ならば、素直に私の腕に摑まりなさい。そうすれば、引き上げてあげますから」
「ちがうよ。あたし、…また生まれるのが、…怖い」
「なぜ?」
ターレスは、ジーナの目を真直ぐに見詰めてそう尋ねた。
「また人を信じて、傷つくのが、…怖いの」
ジーナは、まるで小さな少女のように心細そうな声を出した。
「今度あの世にあなたが生まれたら…」
ターレスは、少し間を置いて、ゆっくりと言葉を続けた。
「私があなたをお守りします。あちらに行ってから、あなたがむやみに傷つかなくてすむように、私があなたを…必ず探し出して」
「…え?」
ジーナは、びっくりしたように目を丸くしてターレスを見上げた。
「ですから最初にお話したでしょう?私はあなたにご恩がある。それをお返しするために、今、私はこうしてここにいるのです」
ジーナは、黙ってターレスの青い瞳をじっと見詰めた。
「さあ、恐れずに、我々と共に、同じ時代に行きましょう」
ジーナは、尚も黙ったままターレスの顔を見ていたが、やがて
「探し出すって、…どうやって…?」
と、おずおずと尋ねた。
「まず、当局と掛け合ってみます。あなたの今度の受け入れ先を、出来るだけ私のこれから行く所から近い場所にしてもらうように、そしてなるべく早く見つけ出せるように何か目印を決めておいて、そして…」
ターレスはそこまで言うと暖かい眼差しでジーナをじっと見詰めた。ジーナは一瞬驚いたような顔をして目をそらしたが、もう一度思い直したようにターレスの目を見詰め返した。土砂降りの雨はいつの間にか小雨に変わっていた。
「この約束が、私の来世での新たな使命となるように…」
そう言って、ターレスは強い決意を込めて口元を引き締めた。
「さあ、私の腕に摑まって。こちらもそろそろ限界です」
そう言ってターレスは、もう一度ジーナに微笑みかけた。ターレスに手首を摑まれたジーナは、震える指を始めはゆっくりと、しかし次第に力強く、ターレスの腕に絡めた。
 そうして、その時二人は初めて微笑を交わした。
「あっ」
ふいに空を見上げて、宙吊りの状態のままジーナが言った。
「虹」
「えっ?」
ジーナを引き上げようと右腕に力を込めたまま、ターレスはジーナの見上げた方向の空を振り仰いだ。するとその瞬間、雨上がりのデッキの床の上で、ターレスの靴底が、嫌な音できしんだ。
「あっ!」
宙吊りのジーナの手首をつかんだまま、柵から上半身を乗り出してデッキの上で足を滑らせたターレスは、そのまま柵をつかんだ左手に力を込めたが、既に彼の両足は床を離れ、ジーナの重みと自重のかかる方向に滑り落ちようとした。
「危ない!」
と叫ぶと、二人の後ろで事の次第をずっと見守っていた男は、今にも海に吸い込まれそうなターレスの腰を摑んだ。
「ああ、ルーカス。ありがとう、助かりました。でも、お願いですから、それ以上私のズボンを引っ張らないで下さいね。抜け殻だけを残して海に転落したら、それこそ格好がつきませんから…」
ターレスは焦りながらも、それを悟られまいと冗談半分にそう声をかけたが、男は
「う~、おっ、重い~」
と、苦しいうめき声を上げることしか出来なかった。
 宙吊りのジーナの手首を引っ張っているターレスの腰を必死に引っ張っている自分の姿をほんの一瞬客観的に想像しながら、男は何かの昔話を思い出した。確か巨大な野菜を数人がかりで列を作って引き抜くという…。そんなことを考えている場合ではないことは彼にも十分分かっていたが、その時彼にはどうしてその窮状から脱するべきか、方法が思いつかなかった。
「あ~、もうだめだ~」
男が情けない声を出して音をあげそうになったその瞬間、彼のズボンの右のホケットの中で何かがチャラリと音を立てた。男は不自然な姿勢に体をねじりながら、必死でターレスの腰に廻した左手を自分の右腰のポケットに近づけ、その中に手を入れて鈴のついた髪飾りをまさぐり出すと、力いっぱい振り続けた。その時確かに彼の目にも、雨上がりの空に架かる七色の虹が、くっきりと鮮やかに見えたのだった。

 

 ずぶ濡れの体を温めてシャワー室から出てきた男は、ターシャの運んで来たミルクココアの湯気の向こうに、白いバスローブ姿のターレスの姿を見た。ジーナは一番にシャワーを済ませて、赤い髪をバスタオルで乾かしているところだった。
 あの後、三人はターシャと共に駆けつけた数人の乗組員によって速やかに保護され、その部屋に運び込まれたのだった。そこは広々とした明るいクリーム色の部屋で、部屋の中央の暖炉には暖かな火が燃えていた。男がシャワーを使っていた間に、初対面のターシャにジーナは不思議なほどあっさりと心を開き、彼が戻った時には、既にそこには女達の和やかな笑い声がこぼれていた。少し前までのあの物憂げなジーナの姿は、もうそこにはなかった。
「そういえば、私、あなたにこれを託ってきたのよ」
そう言うと、ターシャは壁際の飾り戸棚の上から白い封筒を取ると、にこやかにジーナに手渡した。
「何?これ」
ジーナは不思議な顔をしてその封筒を受け取った。それは、以前男が見たのと同じもので、金色の細かなふち飾りが施された舞踏会への招待状だった。
「私がお相手でもよろしいでしょうか?」
そう言ってターレスは恭しくジーナに右手を差し伸べた。
「ドレス選びは私に任せてね」
そう言うとターシャは珍しく、茶目っ気たっぷりにジーナにウインクしてみせた。
 数時間後、壁の大きな鏡に向かってタキシードのリボンタイをピンで留めるターレスに向かって、男は鏡越しに問いかけた。
「なあ、ターレス。君はあの時ドサクサに紛れてあんなことを言っていたが、…あれは、本気か?」
「え?何のことです?」
タイピンの微妙な位置を気にしながら、ターレスは気もそぞろに生返事をした。
「あの時ジーナに言った君の言葉だ。『あなたをお守りします』なんて、いくらなんでもそんな軽はずみな…。ちょっとかっこ付けすぎじゃないのか?」
「ああ、そのこと」
そう呟くと、ターレスは丁寧にタイを整え、ゆっくりと男の方に向き直って平然と言った。
「私は本気です」
ターレスは真面目な顔で男を見詰め、いつもの温かな笑みを浮かべた。
「いったい、何だってそんな…」
男は呆れた顔で、ターレスの顔を覗き込んだ。
「何度も言っているように、私は彼女に、かつて随分お世話になっているのです。そんな彼女をここでみすみす見殺しには出来ません。そもそも私が前回のロバート・ハミルトンの前の生で、インドの僧侶であったころ、彼女は托鉢中に行き倒れて瀕死状態だった私を連れ帰って介抱してくれたのです。彼女はいつしか私に人類愛を超えた愛情を傾けるようになったが、修行中の身である私はそんな彼女の気持ちに応えることが出来ず、夜、彼女が眠っている間に、礼も言わずに寺に逃げ帰ってしまったのです。

 ロバート・ハミルトンとして20世紀のイギリスに生きていた時代にも、私は世俗の暮らしを捨てて、東洋の思想に傾倒して、異国の寺院で修行の日々を送りました。そのことを図書室の資料の中から読み解くうちに、私の今度の生での学習課題は、世俗の中で人を愛することを学ぶのだということが分かったのです。ですから、私ははじめからそうした決意をもって彼女に近づいたのです。でも、この先は彼女の気持ちによりますが…」
ターレスがそこまで言い終わった時、軽やかなノックの音とともに
「レディーのお越しよ」
というターシャの声がして、ゆっくりとドアが開かれた。ドアの向こうには、いつもの黒いボディースーツ姿のターシャがいて、その後ろには、真紅のドレスに身を包んだ、艶やかなジーナの姿があった。ジーナは赤い髪を綺麗に結い上げて、その耳元と首筋には大粒のエメラルドがキラキラと輝いていた。
「ちょっと派手すぎない?」
ジーナは恥ずかしそうにうつむいて、もじもじしながらそう言った。
「…いいや、よく似合ってるよ」
思わずその場に呆然と立ち尽くして、男はそう答えた。
「綺麗ですよ、とても」
ターレスがそう言うと、ジーナは
「…ありがと」
と上目遣いにターレスを見て、花のように微笑んだ。
「さあ、姫」
と言ってターレスはジーナをエスコートすると
「では行ってまいります」
と、にこやかな笑顔を残して、長い廊下をゆっくりと歩いて行った。廊下の途中で二人はすらりとした美しい青年とすれ違い、ターレスはその青年と会釈を交わした。その青年は
ゆっくりと男とターシャの方に歩いて来て、二人にも挨拶をした。
「君は…?」
どこかで見覚えのあるその顔を見て一瞬考えた後、男は
「…シエナか?」
と、驚きの声を上げた。それはかつての舞踏会の時にターレスの傍らでフェミニンなミントグリーンのドレスに身を包んでいた、東洋風美人のシエナだった。
「どうしたんだ、その格好は?」
 男が不思議に思うのも無理はなく、かつて女性の代名詞のような風貌だった彼女は、今やマニッシュを通り越して思い切りメンズライクなスーツを身に着けた、男装の麗人となっていた。
「ええ、この航海ももうそう長くはないので、そろそろ気分を切り替えなければ、と思って…」
シエナは言って、軽やかな身のこなしでスーツの胸ポケットから一枚のブルーの紙を取り出した。
「今度の転生では、私は男に生まれることになっているのです。男に生まれるのは実に7回ぶりですから、すっかり忘れてしまっています。ですから、こうして今のうちに勘を取り戻しておかないと…」
そう言うとシエナは振り返って、遠のいて行くターレスとジーナの後ろ姿を遠い目をして見送った。
「幸せになるといいですね、あの方達…」
そう言い残すと、シエナはそのままターレス達とは反対の方向に歩いて行った。男はすれ違いざま、シエナの目が潤んでいることに気づき、慌てて何か声をかけようかと一瞬ためらったが、結局そのまま何も言えず彼女の後ろ姿を見送った。

「人間って色々あるのねぇ」
6497号室に戻ってベッドの上に寝そべる男に、朝と同じように椅子の上で膝を抱えたターシャは言った。
「人と人が出会ったり別れたり。そこに愛情や憎しみや、喜びや悲しみや、憬れや嫉妬や様々な感情があって…。人間の営みが織り成す様々な人間模様、それってとっても…」
「…」
男は黙って聞いていた。
「ドラマティックだわぁ~」
ターシャはまた朝と同じようにうっとりとした顔でそう言った。
「いいね、君は…」
男はもう腹を立てる気も失せて、小さい女の子に言うようにそう言った。
「だって、ホントのことですもの」
ターシャが口を尖らせてそう言った姿は、本当に小さな女の子のように男の目には映った。彼はふいに、この人間の感情を持たないターシャの事を不憫に、そしてまた同時に、かわいらしく思った。
「君は、今まで一度も人を愛したことはないのかい?」
男はいつもより少し優しい口調でターシャにそう尋ねた。
「いいえ、私は常に全人類を愛しているわ。だって、我々は人類救済の任務を帯びているんですもの」
大真面目にそう答えるターシャに男は
「僕が聞いているのは、人類愛のことではなくて、個人的な恋愛感情のことなんだが…。そうだよな、…君にこんな質問をしたのが間違いだった」
と、一人で納得しようとした。
「レンアイカンジョウ…」
ターシャはまるで一度も食べたこのない食べ物の味を想像するように難しい顔をしながら、耳慣れないその言葉を繰り返しぶつぶつ呟いていた。
「それは、人類愛どう違うの?」
ターシャは熱心な生徒のように一途な瞳で男を見詰めてそう尋ねた。
「人類愛と恋愛感情の違いか…。そう改めて聞かれるとどう言ったらいいのか…。そうだな、例えばもし今この船が沈むとして、誰か一人しか助けられないとしたら、その場合どうするか?どうしても助け出したい誰かがいるというのが恋愛というものだ」
「それなら、今の私はあなたを助けるわ」
ターシャは素直にそう言った。
「でもそれは、今回僕を無事にあの世に送り届けることが君の任務だからだろう?」
「そうよ。そして、今一番近くにいるから。物理的に、助け出せる確立が最も高いわ」
「そういうのは恋愛とは呼べないのだよ、残念ながら」
「…残念ね」
ターシャはなぜかシュンとしてうつむいた。
「レンアイカンジョウ…」
ターシャは尚もしばらくその未知の言葉を繰り返し呪文のようにぶつぶつ呟いていた。
 そして、そのまましばらくたった後
「あなたはなぜ今日の舞踏会に行かなかったの?」
と、彼女は気を取り直して男に尋ねた。
「何となくあの場所に僕はふさわしくないような気がするんだ。それに、今回僕は招待状をもらっていないし…」
「あら、招待状なんて関係ないわよ」
ターシャのその言葉を聞いて、男は以前舞踏会で出会ったお茶目な老婆の言葉を思い出した。
(「当局はそれと同じ招待状を毎月全員に送り続けているのよ」)
そんなことがあるものか、と男はひとりごちたが、ふと、また別のことを思い出して、一人物思いにふけった。
ターレスは前々回の生では確かインドの僧侶だったと言っていいた。そして前回は、僕の曾孫にあたるロバート・ハミルトンとしてイギリスに生まれ、東洋の宗教思想に傾倒して寺で一生過ごしたとか言っていたっけ。きっと、あのM…何とかといいうばあさんも宗教関係者だろうな。あのサリーのような衣装はインドのもののようだったが、確か肩には十字架をつけていたっけ。ターレス…いや、ロバートが傾倒していた宗教とあのばあさんの信仰の対象は同じものなのだろうか?あのばあさんは名前からすると彼女はヨーロッパ人だが、あの服装からするとそれはインドの宗教なのか?それにロバートも東洋に行っていた…。ローバート・ハミルトン、僕の、曾孫だったという彼は…)
 そこまで考えた瞬間、また別の考えが男の脳裏をよぎった。
「待てよ…」
そうつぶやくと、男はむくっと体を起こして、一点を見詰めた。
「彼は何でハミルトンの姓を名乗っているんだ?」
 自分の知らないところで自分の子どもを産み落としたカレン・ワトソン。その子どもの子孫が代々ハミルトン姓を名乗っていたのは、いったいどういう訳だろう?
 彼はいきなりベッドからガバッと体を起こした。
「どうしたの?急に」
そう尋ねるターシャを振り返りもせずに
「ちょっと調べ物をしてくる」
と言い残して、男は急いで部屋を後にした。
 6497号室のベッドには、彼がそれまで寝転んでいた形にシーツの窪みが出来ていた。 
「レンアイカンジョウ…か」
と、尚も片言のように呟きながら、ターシャはその浅い窪みをじっと眺めていた。
 窓の外はいつの間にか静かな闇に包まれていた。