第11章 抵抗

く第11章 抵抗

 その晩、男は珍しく夜更けに目を覚ました。それから眠れずにしばらくベッドの上で何度も寝返りをうってみたが何となく落ち着かず、かといって起きて活動を開始するにはまだ辺りはあまりに暗く、彼は所在無く目を閉じたままじっとしていた。

 深い静寂がまるで重い舞台の暗幕のように男を包みこんで、何か得体の知れない不安感が彼を襲った。

 男はゆっくりベッドから体を起こすと、そのまま部屋の外に出てデッキに向かった。眠れない長い夜に彼は全く不慣れだった。
 デッキに出て海風に当たると、先ほどの漠然とした不安感は幾分軽くなったが、それでも何となくどんよりとした重い気分のまま、男はぼんやり水面を眺めていた。

 どこまでも広がる墨のように黒い海は規則正しい波を船体にぶつけ、海と船の境目から立ち上がった泡だけが、操舵室の明かりに照らされてほのかに白く浮き上がって見えた。その海と船の境目の白い輪郭線は船の進行に連れて緩やかに曲線を描きながらしばらく船体の後ろに残り、やがてまた真っ黒な海の中に飲み込まれていった。その白い泡は、まるでほんの一瞬の生に翻弄され、やがては死に飲み込まれていく人の命のはかなさのように男には思われた。          
 そして、その視線の先に小さな明かりが連なって幾つか流れていく様子に、やがて男は気がついた。

 その小さな明かりを目を凝らしてじっと見詰めていると、暗闇に慣れた彼の目に、それは小さな小舟が何艘か船から離れて大海に流されていく様子であるということが徐々に分かってきた。その小舟は、わずかに人一人がやっと乗りこめるほどの大きさしかなく、その上の黒い塊はどうやら人の姿のようだった。真っ黒な海の上に浮かべられた連なった何艘かの小舟、それらは波の上を心もとない様子で漂いながら、だんだん母船から離れ、大海原を漂流して行った。その情景は何か心の奥が冷え冷えとするほど寂しいもののように男には感じられた。

 かつて19世紀のイギリスに生きていたころ、行きつけの画材屋の東洋趣味の主に借りた本の中に載っていた、日本の死者の魂を送る祭りを描いた挿絵のことを、男はふいに思い出した。
 翌朝、いつものように彼の部屋を訪れたターシャに、男は昨晩見たその小舟のことを尋ねた。するとターシャは
「ああ、それは元の世界への送還者の乗った舟よ」
と、こともなげに答えた。
「その舟には様々な事情であちらの世界に行けなくなった人たちが乗っているのよ」
「様々な事情…とは?」
男は、いつになく興味深そうに身を乗り出して尋ねた。
「そうね、あちらの言葉で言うと“流産”とか“堕胎”といった状況ね。流産の場合、その多くはあらかじめその人の魂のプログラムにインプットされている出来事で、それはある種の修行でもあり本人も納得しているから良いのだけれど、堕胎の方は気の毒よ。やっと順番がまわってあちらの世界に行けると喜び勇んで舟に乗り込んだ魂にとっては、また振り出しに戻されるわけだから…」
ターシャは尚も冷静な口調のまま話し続けた。
「その、“堕胎”というのはつまり…」
「いわゆる“中絶”、要はあちらの身元引き受け予定者が子どもの受け入れを拒否するのよ」
「拒否?そんなことが有りうるのか?」
「ええ、あちらの世界の人間も色々事情を抱えていますからね。望まない妊娠、激しい妊娠中毒症などの体の拒否反応、または妊娠中の育児パートナーとの別離による将来の経済不安等、理由は様々よ」
「…」
男は眉間に皺を寄せて黙り込んだ。
「それはそうと、あなたの今日のご予定は?」
ターシャは、昨日と同じ質問を男に投げかけた。
「いや、まだ特には決めていないが…」
男は気のない返事をしながら、何か考えているように部屋の白い壁をうつろな目で眺め続けた。
 そんな男の様子を見て、ターシャはそっと部屋から出て行った。そのことにも気づかないくらい真剣にじっと何か考え続けていた男は、やがてハッとした表情でパチンと指を鳴らした。そして、満面の笑みを浮かべて
「そうか、その手があったか…」
と言うと、感極まって腰掛けていたベッドの上から目の前の粗末な椅子を勢いよく蹴飛ばそうとした。

 しかし、彼の右足はその椅子の足の間に絡まり、それにつられて彼はベッドの上からずり落ち、鈍い音を立てて床の上に尻餅をついた。
「アハハハハ!」
何かが吹っ切れたように、男は尻餅をついたまま不自然な程機嫌の良い笑い声をたてた。
「ハハハ、ア、ハハハ…アハハハハハハ…」
彼はしばらく壊れたおもちゃのように、奇妙な声で笑い続けていたが
「そうか、そうだよな。別に僕が逃げ出さなくても、あいつが僕を拒否すれば…」
と言って、勢いよくその場から立ち上がった。すると、倒れた椅子の側に何か半透明の手提げ袋が落ちていることに男は気づいた。何気なく袋の中身を取り出すと、そこには、昨日ターレスに借りたものよりは何倍も大きな半ズボンのような水着と、白いバスタオルが入っていた。
「ククククク…」
男はまた再びおかしさがこみ上げてきて、その場にうずくまって、転げながら涙が出るくらい笑った。

 

「姉さん、大丈夫?」
丸い玉の中にはアイコの母親の心配そうな顔が映し出されている。
 ケイコという名の女からは返事は帰ってこず、変わりに少し離れた場所で彼女がゲーゲーと激しくえづく声が生々しく聞こえてきた。
「姉さん、随分つわりが激しいのね。私は同じ時期には何ともなかったけど…」
 隣で小学生のアイコも心配そうにその声を聞いていた。
「ケイコおばちゃん、苦しそう…」 


 先日の珊瑚の小部屋の中で、男はその映像をじっと見ていた。そして、今朝ターシャから聞いた言葉を彼は一人で呟いた。
「望まない妊娠や将来的な経済不安、もしくは…」
男はニンマリと意地悪い笑いを浮かべた。
「こいつの場合、その二つは楽々クリアしているが、…弱点はここだ」
 男は、映像の向こうから聞こえてくる苦しそうなケイコのえづき声を聞きながら勝ち誇ったように体をのけぞらせながら背後の珊瑚の壁にもたれて、子どものように足をばたつかせた。
 その夜、男はいつものようにターシャを部屋に呼んで、こう尋ねた。
「一つ教えて欲しいんだが、…つわりというのはどうして起こるんだ?」
 ターシャはしばらくキョトンとしたまま男を見詰めていたが、やがてもとの表情に戻ると、淡々とこう説明した。
「つわりというのは、あちらの世界の女性の体に起こる妊娠初期の反応で、ホルモンバランスの変化によって起こる現象よ。複数の説があって、私はあちらの世界のことには大して通じていなので、正確な原因を立証することはできないけれど…。一つにはヒト絨毛性ゴナドトロピンプロゲステロンというホルモンの急激な増加が脳の嘔吐中枢を刺激するために吐き気が起こるという説、または精神的ストレスによるものという説もあるそうだけど…」
ターシャは、教科書を読むようにスラスラとよどみなくそう答えた。
「それは、こっちの世界とは何か関連があるのか?」
男は食い入るように質問を続けた。
「…と言うと?」
ターシャは再びキョトンと男を見詰めた。
「つまり、こちらの世界の人間の思考や行動が何らかの影響を及ぼすか?ということだ」
「いいえ、つわりは妊婦の単なる身体反応であって、こちらの世界とは何ら関係ないわ」
「そうか…」
男はがっかりと肩を落としてうなだれた。


 翌日、男はまたしても例の賭博部屋に行った。そして、ジーナを探し出し、真剣な目つきで相談を持ちかけた。
ジーナ、君を女と見込んで相談したいことがある」
「何よ、急に改まって」
ジーナは少し驚いて、怪訝そうな顔をした。
「僕の今度の身元引受人は、今、妊娠初期の激しいつわりに苦しんでいるんだ。そこで、君に尋ねたいのは…」
「やあね、妊娠のことなんかあたしに聞かないでよ。前の生でもその前の生でもあたしは子どもなんて生んだことないんだからさぁ」
ジーナは大げさにそう言い立ててその場から逃げようとしたが、男は尚も真剣な血走った目でジーナを見詰め、すがるようにして言った。
「いや、別に妊娠のことなんか全く知らなくてもいいんだ。ただ僕は、何とかしてそいつに僕を生むのを諦めさせたいんだ。そもそも、これは僕にとって極めて不本意な航海なんだ。行きがかり上、僕の水先案内人には自分から船は降りないと約束してしまったから、今の僕に航海をやめる権限はない。だが、僕の身元引受人は今、生理的に非常に苦しい状態にあるわけで、つまりこれは僕にとっては最初にして最大の…」
「チャンスってわけね」
ジーナは強いまなざしで男の目を覗き込みながら急に声の調子を落とすと、静かにそう言葉を続けた。
「…そう、それなら」
ジーナは椅子から立ち上がると、男に向かって言った。
「これからあんたの身元引受人をここに呼び出してごらんよ。ほら、この前やり方は見てただろ。念を込めてひねり出すんだ、ちょうどあんなふうに」
ジーナは向かいのテーブルで賭けを始めようとしている男を指差して、そう言った。
「念を、込めるって…、こう、か?」
男は見よう見まねで手首をひねりながら両手の指を絡み合わせて、その後一気に掌を開いてみたが、そこにはなんの反応も現れなかった。
「もっと気を込めるんだよ。あんたの中にあるその女のビジョンを思い浮かべながら、憎しみの念を込めてひねり出すんだ」
 男は懸命に先日の映像の中に登場したケイコの姿を思い出そうとした。その四角い顔と勝気そうな態度、そして憎しみの感情を…、すると男の脳裏に夢の中に出てきた黒い喪服姿の年老いたローズの面影が蘇った。
(おまえの子どもなんかになってたまるか!)
男がそう強く念じながらひねった手首を返しながら掌を大きく開いた瞬間、そこにバスケットボール大の透明な玉が現れた。
 玉の中には、洗面所で青ざめた顔で鏡を覗き込むケイコの姿が映し出された。
「姉さん、ひどいつわりね。もう1ヶ月以上もそんな状態で。ろくに物も食べれないし、このままじゃ入院しかないわね」
アイコの母親が鏡越しに姉に話しかける姿が見えたが、鏡の中のケイコは返事をする気力もないくらい疲れ果てた顔をして、ぼんやり鏡をのぞきこんでいるだけだった。
「じゃあ、始めるわよ」
ジーナは眉間にぐっと皴を寄せて、そこから細長い管を出し、映像の中のケイコの耳の後ろにそれを差し込んだ。そしてしばらく目を閉じて無言で何かを念じていたが、やがて
「あら、おかしいわ」
と驚いて目を開けると、男を見詰めてこう言った。
「すごい、この女。こんなに疲れて隙だらけに見えるのに、こっちからの念波をいっさい感受しないわ」
「何だ、それはいったいどういうことだ?」
男は食い入るようにジーナに詰め寄った。
「相当意志が強いみたいよ。あたしがどんなに強い念を送っても全く反応しやしない。よっぽど神経が図太いのよ」
そう言うと、ジーナは呆れたように管を額から外すと男に手渡した。
「そんな…、嘘だろう?」
男はあせって管を自分の額に付けると、ジーナのやっていたのを見よう見まねで固く目を閉じて、いろいろな言葉を頭の中で繰り返し唱えた。
(おい、おまえ、子どもを生むのは諦めろ。その子…つまり、それは僕だが、その子をおろせばその吐き気は嘘のように治まるぞ。それに、その子、…つまり僕は、生まれたくなんかないんだ!おまえの子どもなんかになるのはまっぴらなんだ!おまえが子どもを生んだって、僕も含めて誰も喜ぶ人間はいないんだ!おまえが生もうとしているのは、父親のいないかわいそうな子どもだ!しかもおまえのような性根の悪い女に育てられて、ホントにその子の将来はお先真っ暗だ!更に言えば、それは今回が初めてじゃない。前回も、おまえは僕の母親だった。そして、僕の自由を奪って僕の人生を、おまえはめちゃくちゃにしたんだ!いいか、よく聞くがいい。おまえのお腹の中のその赤ん坊は、おまえの子どもになることを心底嫌がっているんだ!!)
男は、額に汗を浮かべて、必死にそう念じ続けた。念じながら、自分の思念によって更に強くこみ上げてくる怒りに、男は身震いさえ感じた。しかし彼の思いとは裏腹に、その後いくら待っても、画面の向こうからは何の反応もなかった。そこにはただ、ケイコの気分の悪そうな顔が大きく映し出されているだけだった。
「だめだ、こりゃ」
ジーナはそう言うと、諦めて男の額からチューブを外すと、それを床に投げ捨てた。
「おい、ちょっと待ってくれよ」
男はうろたえて、床にかがみこんで必死でチューブを探そうとした。
「いくらやっても無駄みたい。この女はこっちの誘いに応じる気なんて更々ないのよ。…と言うより、はなっからこっちの世界の誘いに感応する感受性を全く持ち合わせてない。良く言えば意志強固、悪く言えば超鈍感ってことね」
ジーナはそう言うと、側の椅子に腰掛けて、気だるそうに髪をかき上げた。
「そ、そんな…」
男は困り果てて、床にうずくまったまま、すがるような目でジーナを見詰めた。ジーナは
「気の毒だけど、諦めるしかないね。その女は、いくらやっても無理。ここでは、はじめからそういうタイプは扱わないんだ。あくまでも強制はできないからね、それがこの部屋のルールだから」
と言って、せめてもの同情を込めて、飲みかけの泡の消えたビールの入ったグラスを男の目の前に差し出した。
 うずくまったまま泡の消えたビールを無言で飲み干しながら、男はまだ諦めきれずに、新たに喚起した憎しみの想念を自分の中で持て余していた。そうして空にしたグラスを力なく床に置いた瞬間、彼の頭の中に、別の考えが浮かんだ。男はそのままゆっくりと顔を上げた。彼の視線の先、ジーナの吐き出す薄紫色のタバコの煙の向こうにあるあの小さなドアの存在を、彼はその時思い出した。
 
 次の朝目覚めると、彼は何かを決意したように手早く着替えを済ませた。そして、昨日と同じようにいつの間にか椅子の上にきちんと用意されたプールセットの透明な袋の中からきれいに洗い上げられた白いバスタオルを取り出すと、いきなりそれを床に叩きつけて靴で何度も踏みつけた。そして、更にそのバスタオルを広げると、彼は何かに取り付かれたように一心不乱に床掃除を始めたのだった。男が力を込めて床を磨くと、細かなチリがバスタオルに付着し、床はすっきりとした飴色のツヤを取り戻した。床を一通り磨き終えると、彼は部屋中の壁や棚、ドアノブなど、細かな汚れを見つけては、熱心にその汚れを真っ白なタイルでこすり取っていった。下から上に掃除をするのは決して正しい掃除方でないことを彼は一応知ってはいた。しかし、この場合、彼の目的は部屋を清潔に整えることではなかったのだ。しばらくして、男はバスタオルを広げてその汚れをじっと眺めた。真っ白だったバスタオルは所々薄いグレーの埃が付着していた。
「これじゃまだまだだ…」
そう呟くと、男は更に部屋中を見回したが、もともとそれほど汚していない部屋の中は、もう既にピカピカで、それ以上掃除すべき余地がなかった。仕方なく、男はバスタオルを四つ折りにすると、床の上にかがみこんだまま部屋の外に出た。そして、目の前の廊下を磨きながらどんどん前進して行った。四つんばいになりバスタオルで無心に床磨きをしながら、ふと思い出したように床に接する面を変えては
「だめだ、これじゃまだきれい過ぎる」
と独り言を言う彼の姿を、時折すれ違う通行人は不思議そうに眺めたが、人の目など全く気にせず、彼は無言で前進を続けた。
 長い廊下をひたすら進み続けると、やがて男は階段の踊り場に出た。そこで彼は一度上体を起こすと、長い間曲げたままにしていた腰をかばいながら大きく伸びをした。そしてまじまじと床の汚れ具合を確認した後、男は再び腰を曲げると、下りの階段を一心に磨き始めた。
 どれくらいそうして床を磨き続けたか、ふと思い立って、男はバスタオルを大きく広げてその汚れを改めて確認した。真っ白だったバスタオルはかなり薄汚れて、今では大きなボロ雑巾のように見えた。摩擦によってところどころほつれかけた糸の端を力いっぱい引っ張ると、思いの他あっけなく、タオルの端はビリビリとほころびた。そのことに気を良くした男は、タオルの端を靴で踏みつけたままもう片方をっ反対方向に引っ張ったり、
弱った布の一部に指を突っ込んで穴を広げたりした。そして、ちぎれてしまわない程度に散々傷めつけたバスタオルを再び広げると
「よし、そろそろいいな」
と、男は額の汗をぬぐいながら不敵な笑みを浮かべた。気がつくと、彼はいつの間にか船底のあの賭博部屋の前まで来ていたのだった。

 

 薄暗い部屋の中の不気味な緑色のライトの下に集まる、年齢や性別もはっきりしない有象無象の群れの中に、先ほどのボロ雑巾を頭から被って男は黙って座っていた。そこは、以前彼があの世の少女藍子を思いがけず守ってしまったためにひどい目にあいかけた、あの呪いの部屋だった。その時の恐怖心を彼は忘れたわけではなかったし、実際その場所は今もなお彼にとって決して気持ちの良い場所ではなかったが、今の彼には、この窮状から脱出するには他に方法がなかったのだ。
 部屋の真ん中にはぼんやりと浮かぶ横長のスクリーンがあり、その前には例のねずみ男が薄気味悪い笑みを浮かべて立っていた。
「さあ、今度のネタはものすごく楽しいぜ」
そう言うと、ねずみ男は画面の横に付いている小さなボタンを押した。すると、スクリーンにはケイコの姿が映し出された。彼女の下腹部はもう既にかなり膨らんでいて、傍目にも明らかに妊娠中と分かる姿になっていた。
「おお、すげえ、こいつは妊婦じゃねーか」
部屋全体に大きなどよめきが起こり、皆一斉に身を乗り出した。
「おい、そこの新人、おまえどうやってこんな美味いネタを仕入れてきたんだ?」
男はうつむいたまま黙っていた。極力この部屋の住人に自分の声を聞かれないように、正体がばれないようにと彼は身を硬くした。
 黙ったままの男にしばらく注目が注がれた後、
「まあいい。それじゃあ始めようぜ」
と、ねずみ男はよだれを滴らせながら気味の悪い声でそう言った。
 スクリーンの中のケイコは、その時大勢の人で賑わう広い空間にいた。周囲には野菜や果物、肉や魚などの沢山の食材がふんだんに並べられており、“大売り出し”“本日の目玉商品”などと書かれた派手な張り紙があちこちに張り出してあることから、そこはどうやら市場のような場所であるということが、男にも見て取れた。ケイコは大きくて軽そうな金属製の荷車のようなものに黄色い籠を積んで買い物をしている途中だった。時折すれ違う通行人から腹部をかばうようにしながら、ケイコは、白っぽい皿のようなものに透明な膜で張り付けられた奇妙な形状の食材を、慣れた手つきで黄色い籠に放り込んでいった。
 “ハッピーストア”という店名の掲げられたその巨大屋内市場は、明るい色とりどりの食材と生活雑貨と人で溢れていた。ケイコと同じような装飾の少ない機能的な洋服を身に着けた東洋人の群れが、各々その巨大市場の中に溢れる人工的な食品を手にとっては籠に放り込んでいく。その淡々とした無機的な作業を、男は不思議な気持ちで眺めていた。そこでは、彼の生きていた頃とは比べ物にならない豊かな文化的生活が展開しているように思えたが、そこにいる人々の表情には活気がなかった。皆、何かに追われるように、形の整った艶やかな野菜や果物、原型を全く想像させない肉や魚の切り身を、何の感慨も示さない表情で次々に籠に放り込んでいく。その人ごみの中でケイコも皆と同じ作業をしていた。食材を手に取り、しばらく表面に書いてある表示に目を通し、やがてそれを籠に入れるか、もしくはもとの場所に戻してまた場所を移動する。それは、周りの他の人間たちと全く同じ行為だった。しかし、彼女の姿はスクリーンの外の男の目から見て、ほんの少しだけその他大勢の通行人たちと違って見えた。

 干からびた小魚が沢山詰められた透明な袋を手に取って、ケイコは一瞬笑みを浮かべて腹部を優しく撫でた。
「赤ちゃんのために、しっかりカルシウム摂らなきゃ…」
そう独り言を呟く彼女は、明らかに周囲の人間よりも幸せな空気を濃くまとっていたのだった。
「こういう幸せそうな人間を不幸に陥れる瞬間が、最高なんだ…」
ねずみ男は舌なめずりをして、スクリーンに見入っていた。
 やがてケイコは、路地のように入り組んだ細い通路を曲がって、無数の調味料と保存食品の並ぶコーナーにやってきた。そこにはおびただしい数の瓶や缶が狭い棚に器用に収められており、中でも沢山ある水煮トマト冠は棚の前にうず高く積み上げられていた。ケイコはその棚の前で立ち止ってしばらく考え込んでいるようだった。
「そういえば、ごま油を切らしてたわね」
そう呟きながら、ケイコは左手で黄色い荷車の取っ手をつかみ、右手を伸ばし少し背伸びをして、棚の一番上の細長い小瓶を取ろうとした。
「チャンスだ」
画面のこちら側でねずみ男はそう呟くと、画面の中に手を突っ込んでその荷車の下の小さなこまを激しく押したのだった。
 体を支えていた荷車がいきなり動き出したのでケイコの体はバランスを崩してよろめいた。そして、彼女の肩が側のトマト缶の山に軽く触れたかと思うと…。
 ガッシャン!、ガラガラ!!と激しい音を立てて水煮トマトの山は崩れ、ケイコの上に無数の缶が降ってくる。
ケイコは体を丸め、その場にしゃがみこんだ。
「大丈夫ですか?」
緑色の制服を着た若い男の店員が慌てて駆けつた時、ケイコは真っ青な顔で震えていた。
「こんなところにこんなに一杯缶を積み上げておくなんて、危ないじゃないの!」
ケイコはその若い店員にそう怒鳴って、そのままふらふらと立ち上がり、腰を押えながら荷車を押して歩き始めた。
「なんだ、この女、怪我一つしてねーじゃねぇか!」
男のすぐ側でねずみ男がそう呟きながら、忌々しそうに舌打ちをした。
 その後ケイコは列に並んで品物の代金を払い、半透明の薄い袋に買った食品を詰め込むと、足早にその店を出て、薄暗くなりかけた通りに出た。そのままケイコは店の前の細い道を横切り、四輪自動車がぎっしり並べられた広い空間に向かった。男が生きていた時代のロンドンにも自動車は既に存在していたが、その形状は彼の知っているそれとは随分違っていた。
 どうやら彼女は自分の車を探しているようだった。彼女が手に持った小型の鍵をかざすと、遠くで赤い目のようなライトが二回、応えるように点滅した。
「よし、それなら…」
ねずみ男はそう言って、自分の頭を画面の中にグッと突っ込んだ。すると、ケイコの車の赤いライトは、まるでねずみ男の目玉のように邪悪な光を放ちながら、再び光を放った。
「あら?おかしいわね」
車の側にたどり着いたケイコは、車のライトに軽い異変を感じ、そう呟いた。
「この前車検に出したばっかりなのに、どうしたのかしら」
そう言いながら、ケイコはしばらくそのまま車を眺めていたが、その後特に何もなく、彼女は「まあ、いいわ」と呟いて、後ろのドアを開けて荷物を後部座席の上に乗せると、今度は前のドアを開けて車の中に乗り込んだ。 
 ケイコの運転するワインレッドの車は、ゆっくりと走り始めた。滑らかな路面の上を、車は流れるように走っていく。赤信号で止まった車のテールライトが長い灯りの列を作り、信号が青緑に変わるとまた一斉に走りだすという現代の車社会の様子を、男は感心したように見入っていた。
「へえ、こういう仕組みを考えた奴は偉いなあ」
男の感心をよそに、ケイコの車は路面を滑るように滑らかに走り続けていた。と、その時、彼女の目の前の路上に、スクリーンのこちら側からボロをまとった悪霊の一人が、突然ふっと体を滑り込ませた。
「危ない!」
いきなり目の前に現れた人影を避けるために、ケイコは反射的にハンドルを大きく右にきった。するとそこに反対車線から大型トラックが迫って来ていた。
 そこで、男は咄嗟に目を閉じた。目の前には自分の望んだ結果が今まさに起ころうとしていた。ケイコの乗った車はトラックと正面衝突し、余程の幸運に見舞われない限り彼女は死亡するか、大怪我、少なくとも彼女の胎内にいる自分の魂の宿るべき肉体は、出生を免れるはずである。

 しかし、自分の出生と引き換えに、ケイコが背負うべきリスクは何と大きいことか。確かに彼女は、かの忌々しい前世での継母、ローズ・ハミルトンの生まれ変わりである。  

 しかし、先ほどの大型室内市場の中で男が目にしたケイコのあの幸せそうな表情を、彼は再び思い出した。あの時の彼女は、何か犯しがたい神々しささえ放っていたのではなかったか?男は改めて、自分のしていることの罪深さを思い知った。
 今この瞬間、運命の船の船底の薄暗い呪いの部屋で、自分は悪霊達の力を借りて、自分の運命とそれにまつわる人間の運命を大きく捻じ曲げようとしているのだった。自分の魂を身籠ったという不運から、このケイコという女は死ぬか、軽く済んでも一生後遺症の残るような大怪我を負い、子どもを宿したというささやかな幸せを一瞬で失うことになるのだ。

 一人の人間の人生を、例え前世での因縁があるからといって、こんなにも大きく動かすことが自分に許されるというのだろうか?いや、きっとことの一部始終は速やかに当局の知るところとなり、自分にはまた更なるペナルティーが加算され、そしてまた更に望まない転生を自分は余儀なくされるという、どこまでも続く不幸のスパイラルを男は想像して、閉じたまぶたに力を込めた。
 ああ、それにしてもこの女にはかわいそうなことをしてしまった。どうしたらいいのか、自分がとんでもない不幸に巻き込んでしまったこのケイコという哀れな女を…。彼女はローズ・ハミルトンであってそうではない。彼にとって、憎い母親のローズ・ハミルトン、その生まれ変わりの、可愛そうなケイコ。…このスピードではおそらく即死だ。
 凄惨な光景を覚悟して、男はゆっくり目を開け、そして、自分の目を疑った。
 ケイコの車は、先ほどと同じ車の列の中にいた。中に乗っているケイコはというと、先程と同じようにハンドルを握って、車を運転していた。
「ふ~、危なかった」
ケイコは大きくため息をついた。
「あたし、時々自分の運転の才能が、自分でも怖くなるわ」
 反対車線にはみ出してトラックと正面衝突しそうになったケイコの車は、危機一髪でトラックをかわし、奇跡的にもとの斜線に戻っていたのだった。
 男はポカンとしたままあっけに取られてスクリーンの中のケイコの姿を見ていた。何か不思議な力に守られたかのように、彼女は全く無傷であった。
「フ~、やれやれ」
男は一人安堵の溜め息をついたが、周りの黒い塊達からは、落胆の声が洩れ広がっていた。
「何だ、この女。何て往生際が悪いんだ!」
「まあ急ぐな。じっくり時間をかけて恐怖を与えてから殺っちまった方が、おもしれーじゃねぇか」
ねずみ男はそう言うと、薄気味悪い笑みを浮かべた。赤く血走った目は薄暗い部屋の緑色の電灯の下で、一層怪しい光を増した。ねずみ男はそのまま再びスクリーンの中にもぐりこみ、ケイコの車のテールライトは、再びねずみ男の目と同じ怪しい光を放って二度点滅した。
 ワインレッドのケイコの車は、長い車の列を抜けて、少し郊外の見通しのいい路地に入って来た。そうして車は、赤信号機に近づき、ケイコは右足でブレーキペダルをゆっくりと踏んだ。すると、車は急に加速し、信号を通過してしまった。
「え、何これ?どういうこと?」
ケイコは慌ててブレーキペダルを何度も踏んだ。しかし、彼女の意思とは無関係に車はどんどんスピードを増し、細い路地を疾走し始めた。
「キャー!!ブレーキが!」
もはやケイコの車は完全に制御不能に陥っていた。  

 ケイコのハンドル操作に関係なく、車は勝手に迷路のような細い路地を抜け、再び大通りに向かって疾走を続けた。信号を無視して反対車線を逆走し、道沿いの商店の看板をなぎ倒し、そうかと思えばいきなり方向転換した。物凄い爆音を立てながら、車は疾走を続けた。
「キャー!!!」
ケイコは何が何だか分からず、恐怖のためにただ泣き叫ぶしかなかった。
「ケケケケ、こいつはいいや!」
「いいぞ、もっとやれ!!」
呪い部屋の中では嬉しそうな歓声が上がった。ぼろ布をまとった人とも思えない存在の希薄な塊達は、こうして人の不幸に遭遇した時にだけ、生き生きと生気を放つのだった。
 男はその刹那
「もういい、止めてくれ!」
と、思わず声を上げた。
 瞬間、歓声は止み、部屋の中はシンと静まった。部屋中の視線が一斉に男に注がれた。
「何だ?お前」
何人かの悪霊が怪訝そうに男の顔をのぞきこんだ。
 男は、頭からかぶったぼろ布を引っ張って顔を隠そうとした。するとまた別の方向から
「おい、見ろよ。すげー!」
という声が上がり、多くの視線は再びスクリーンに注がれた。スクリーンの中ではケイコを乗せた赤い車が疾風のようにまっすぐな道をひた走っていた。道の向こうには何もない、低い堤防の向こうに広がる黒い塊、それは
「海だ!」
誰かがそう叫んだ。
「いいぞ、このまま土左衛門だ!」
再び部屋の中に歓声が起こった。そして、その声を聞いた瞬間
「止めろ!!!」
と、男は渾身の力を振り絞って大声をあげ、立ち上がって画面横のボタンを押した。すると横長の画面は煙のように跡形もなく消え失せ、部屋中がシンと静まり返った。
「おい、お前、いったいどいういことだ」
隣にいた黒い塊が男の被っているボロ布をつかみ、強引に引っ張った。ボロ布は男の頭から床の上に滑り落ちた。
「おい!お前、お前はこの前の…」
 部屋の空気は一変した。
「お前はあの時の裏切り者!またお前か!」
「なんだ、せかっくいいとこだったのに。台無しじゃないか!」
スクリーンの中のねずみ男も、いつの間にかこちら側に戻って来ていた。
「おまえ、一度ならずも二度までも。何だ、何がしたいんだ!」
ねずみ男が忌々しそうに叫び、部屋中がどよめきに包まれた。
「分からない、僕にも…」
そう言う男の息は荒く、その体は震えていた。自分のとった行動の不可解さに、彼は自分で自分が分からなくなっていた。
「あいつのことが憎かった。あいつのもとに生まれるのが嫌で、これしか方法がないと思ったんだ。でも、彼女には何の罪もない。だけど、彼女はあいつで、僕はあいつのもとに生まれるのが嫌なんだ。だから、つまり…」
「つまり、そういう中途半端な憎しみじゃ、人は殺せないってことよ」
ハスキーな女の声がそう言ったかと思うと、いきなり薄暗い部屋の中に赤や緑のぼんやりとした薄明かるい光の玉がいくつも広がった。その光の玉の中には、あの世の欲望に溺れる人間達の姿が無数に映し出されていた。
「おお、すげえ、美味そうなネタだ」
ドラッグを吸って恍惚の表情を浮かべる人間の姿や、複数で乱交する裸体の群れの像を見て、黒い塊達は興奮して、辺りは今までとはまた別の高揚感に包まれた。その隙に、男は何者かに襟首を摑まれ、部屋の外に引きずり出された。
「ホント、あんたって世話がやけるわねぇ」
先ほどよりもいくらか明るい賭博部屋の明かりの下には、ジーナの姿があった。
「何だ、君か」
男は目を丸くしてそう言った。
「なんだ、はないでしょう?せっかく助けてあげたってのにさ。あんた、妙に思いつめた顔してその部屋に入って行ったから、ちょっと付いて行って様子を見てたんだけどさ。そういうの優柔不断って言うのよ。どっちかにしなさいよ。人を呪い殺すんなら、それ相応の覚悟をしてからあっちの部屋に行きなってのよ」
「呪い殺そうなんて、そこまでは考えてなかったんだ。ただ、僕が生まれるのを何とか阻止したいと思ったら、あんなことに…」
呆れ顔で気だるそうに長い前髪をかきあげながら、ジーナは言った。
「そんなことが、そう簡単に出来るんなら、誰も苦労しないわよ」
 ジーナは賭博部屋のカウンターに腰掛けて、黒い編みタイツの細い足を組み替え、ぼんやりと遠くを見た。
「憎い相手っていうのはさ…」
長い沈黙の後、ジーナがボソッと口を開いた。
「ただ憎いだけじゃあないんだよね。他にもさ、絡み合ってるんだよね、色んな気持ちが」
「…」
男は黙って低い天井から吊り下げられた小さな赤い電灯の明かりを眺めていた。この時彼はもはや、自分がケイコを、そしてまたローズを、心底憎んでいるのかどうか、自分で自分の心がはっきり分からなくなってきていた。
「ところで君が出したあの赤や緑の玉は…」
男は話をそらすように、ふいに先ほどの呪い部屋での出来事についてジーナに尋ねてみた。

 ジーナの説明によると、あの玉は彼女が普段あちらの人間から吸い取っているスピリットの残りかすのようなもので、しばらく経つと自然に消えてなくなる幻影なのだという。
「それと、あいつらに悪用されると良くないと思ったからさ…」
そう言ってジーナは黒いドレスの胸元から、飴玉に似た小さな丸い玉を取り出して、男に手渡した。
「これ、さっきのあの映像のもと、ね。あそこに置いといたら、ろくなことにならないから」
 男は黙ってその小さな玉を受け取り、しばらく手の上でもてあそんでから、目の前にあった誰かの飲みかけのワイングラスに放り込んだ。玉は小さな泡をたててグラスの底にしばらく沈んでいたが、そのうち溶けて跡形もなく消えてしまった。