第14章 セブン・ウィークス諸島

第14章 セブン・ウィークス諸島

 

 プールから上がってタオルを首にかけたまま、男は自室に戻る長い廊下を歩いていた。

 彼はひどく疲れていた。まるで自分の理解力を超えた難題をひたすら解き続けなければならない数学者のようで、彼は自分のことを哀れに思った。

 先ほどの海亀の老人のように憎い相手を許すとは、いったいどういうことなのか?それは、とても自分の身には起こり得ない心境の変化のように彼は感じた。そして、自分のこれからを想像して、彼はますます暗い気持ちになっていくのだった。
 しかし、これまでに観た映像や調べた資料から、彼の前世の義母、ローズ・ハミルトンは、それ程極悪非道な人間ではないということが分かり、彼自身、そのことを頭では理解していた。

 むしろ、それを理由に素直に更生しようとしない自分という人間の方が余程良からぬ人間ではないか?とすら思ったりもした。しかし、彼女への恨みの感情は、もはや体の一部のようになっており、その慣れ親しんだ退廃を手放すことを未だ拒んでいる自分を、男は持て余していた。
 彼は途中ふと思い立って、6497号室に戻るのをやめてデッキに上がってみた。男は何となく、ぼんやりと海を眺めてみたくなったのだ。自分が前世であれ程苦手だった、水の塊である巨大な海。その霧の彼方に果てしなく続く大海原を、寄せては返す規則正しい波に揺られながら、船は目的地を目指してひたすら航行を続けている。やがてそう遠くない将来、自分は全ての記憶を消されて、東洋人の子どもとしてハヤカワ ケイコという女に育てられる運命にあるのだ。
「ハヤカワ ケイコ=ローズ・ハミルトン」
その言葉を呪文のように繰り返し呟きながらぼんやりと水平線を眺めている視界の先に、ふと平らな黒い盛り上がりのようなものがあることに気付いて、男は一瞬息を呑んだ。
「あれは、…陸地?」
男は薄いブルーのシャツの袖口で瞼をこすり、二度ほど大きな瞬きをしてから、目を凝らして再び先ほどと同じ地平線の彼方を食い入るように見つめた。すると、やはりそこには黒い陸地らしき盛り上がりが確かにあるのが見て取れた。
「…ちょっ、…ちょっと待ってくれよ…」
しばらく呆然とその場に立ち尽くしたままそう呟くと、男はふと我に返り、弾かれたようにきびすを返して一目散に階段を駆け下りた。途中すれ違う何人かの通行人にぶつかりそうになりながら、6497号室にたどり着くと、靴のままベッドの中にもぐりこみ頭から枕をかぶって彼は体を丸めた。
「…どうしよう、…どうしよう…」
 ヒイヒイと熱に浮かされたような奇妙な音を時折喉の奥から発しつつ、うわごとのようにそう言いながら、男はベッドの中でジタバタ身もだえした。自分が何をしているのか、彼には分からなくなっていたが、自分の体が小刻みに震えていることだけは自覚できていた。
 やがて、申し合わせたかのようにドアが3回ノックされ、ターシャが現れた。
「何をそんなに怖がっているの?」
ターシャはいつものように、小さい子どもをなだめるような口調で男にそう尋ねた。
「嫌だ、まだ降りたくない。まだ早すぎるよ。ぼ、僕は…、まだ、気持ちの整理が出来てないんだ!」
男が泣きそうな声でそう訴えると、ターシャは
「ああ、そういうこと」
と言って、哀れな男の頭をなでた。
「あなたは目が良いのね。…確かに向こうに陸地が見えているわね」
丸い窓から外を眺めながらターシャは言った。
「でも、よく御覧なさい」
ターシャにそう言われて、男は恐る恐る体を起こして、窓の端から目だけを出して水平線の彼方に浮かぶ陸地を見つめた。
「ちょっと小さ過ぎると思わない?」
「そう言われれば確かに…」
「あれは島よ」
「島…」
「セブン・ウィークス諸島よ」
「セブン・ウィークス諸島…」
窓から見える陸地は、近づくにつれ確かに島の形をしていることが、男の目にもはっきり確認できた。所々に白く目に付く建物のようなものも見え始めた。
「これから目的地に到着するまでにこんなふうな島が等間隔で7つあるの。それぞれの島に、あちらの時間で1週間かけて渡って行くの。全ての島を渡って行くのに7週間かかるからセブン・ウィークス諸島というのよ」
「7週間…、ということは、7×7…あと50日足らずで、あっちの世界に着いちまうってことっか?」
「あちらの時間に換算すれば、まあ、そういうことになるわね」
ターシャは、いつものようにモナリザのような微笑を浮かべながらそう言った。
「あと7週間…」
男は窓の外にだんだん近づいてくる島から目を離さずに、何度もその言葉を呟いた。
 船は微妙に進路を変えながら次第に速度を落とし、着岸の準備をはじめた。
「ここでいったん下船して、少し休憩する時間があるのよ。船の燃料補給とメンテナンスも兼ねてね。なぜなら、ここから先は、これまでと様々な意味で時空間の成り立ちが異なるので、船に今まで以上に大きな負担がかかるからなの」
「時空間の成り立ち…」
男は、ターシャの言葉を反芻した。
「そう、今までは、私達は生命の始まる前の世界にいたの。でも、あの島を境に、今度は生命世界に入ることになるの」
 男にはターシャのその説明は漠然とし過ぎてうまく理解できなかったが、次第に部屋の外の通路が賑やかになり、その音につられて、男はターシャと一緒に部屋の外に出てみた。
 すると、通路には船室から沢山の乗客が出てきて、デッキに向かって歩いていた。その流れに混じって、二人も一緒にデッキに出てみた。
 デッキには下船のためのちょっとした荷物を携えた人であふれており、皆てんでバラバラに好きなことを話していた。
 男の傍に立っていた美しい女性が、同行者に向かってこう呟いた。
「この島には、あちらで亡くなったばかりの人がいるのでしょう?もしかしたら、私が前世でかわいがっていた孫のアンディにも会えるのかしら?」
「マダム、それは分かりませんよ。あなたのお孫さんが今幾つなのか、生きているのか死んでいるのか、しかも死んでどれくらい経つのか、そんな情報は全くないのでしょう?」
女性の隣にいた洒落たスーツの紳士がそう答えると
「それもそうね。ああ、でも、あのかわいい坊やにもう一度会いたいわ」
と、彼女はおっとりとそう言った。
「もし会えたとしても、あなたのお孫さんはきっと相当な老人になっているし、あなたはその通り二十代の姿なのだから、祖母とかわいい孫の再会、とうい風には到底ならないでしょうね」
と、紳士は可笑しそうに笑った。
「本当ね。あの丸々肥えた赤ん坊のアンディが、年をとって死んでこちらに来るなんて、考えられないわね。でも、あの子も生きていたらきっともう80歳は過ぎてるわね」
 その会話を傍で聞くともなく聞きながら、男は不思議な気持ちになった。こんな若い女が、孫の話をしているなんて。そして、この女の孫も、生きていても80歳を超えているなんて…。生きること、つまり、生まれて成長し、老いてやがて死ぬという一連の生命サイクルが、何かとても虚しくあっけないもののように、その時男には感じられた。

 
 そうしているうちにも船はどんどん港に近づき、しまいには通行人の姿まではっきり見えるほどになった。やがて船から港にロープが投げられ、一瞬の小さな揺れとともに船は止まった。
「ここで丸一日船は停泊するの。船の中に残る人もいれば降りて散策する人もいるけれど、あなたはどうする?」
ターシャにそう尋ねられて迷っている男の肩を、誰かが軽く叩いた。振り向くと、そこに大きなスーツケースを持ったターレスと、品の良いオフホワイトのワンピースを着たジーナの姿があった。
「あたし、ここでこの船から降りて、受け入れ先が決まるまで待つわ。ちょっと遅れてあっちに着くことになると思うけど。…あたしのこと、覚えててよね」
男にそう言うと、ジーナははにかむように微笑んだ。
「ああ、君のことは当分忘れられそうにないよ」
そう言って男もジーナに微笑み返した。
「そう言えばこれ、忘れ物」
そう言って、ジーナは薄い透明のケースを男に差し出した。
「これ、あんたが最初にあの賭博部屋に来た時にカウンターに忘れて行ったやつ」
ジーナにそう言われて、男はそれが自分の生誕の記録の入ったデータであることを思い出した。
「ああ、ありがとう」
男は少し照れくさそうにそれを受け取り、無造作にズボンのポケットに突っ込んだ。
「それをあんたに返すかどうか、実はちょっと迷ってたんだ。自分の経験も踏まえて、それは何となくあんたには必要ないものかなあ、とか思って。でも今のあたしは、それはあんたに必要な物だって確信してる。船を降りるまでに、もう一回見てみて」
「分かった、そうするよ」
男は、とりあえず話を合わせてそう返事をした。 ジーナの荷物を運ぶターレスと共に、男とターシャも港に降り立ちジーナを見送ることにした。ターレスからスーツケースを受け取ったジーナは、しばらく黙ってうつむいていた。
「ホントはまだ、ちょっと怖いんだ。今度はちゃんとしたところに生まれられるかな?って」
ターレスは、ただ黙って穏やかな微笑をジーナに向けた。
「ねえ、あたしのことちゃんと見つけてよね。どんな場所にいても、あたしのこと見つけて、それで…」
「約束します。必ずあなたのことを見つけます。そして必ず…」
ターレスがその先何か言いかけた時、大勢の人の波が押し寄せて、四人を飲み込んだ。ジーナはその先の言葉を聞こうと慌ててターレスに向かって手を伸ばし、ターレスは一瞬ためらった後、強く彼女の肩を引き寄せた。雑踏の中で抱き合う二人の姿を見て、男は何となく気恥ずかしくなって、わざと視線を別の方向に逸らせた。


 それからしばらく、港は一時下船の乗客でごった返した。ちょうど彼らの乗っていた船の隣に、もう一隻の巨大な客船が停泊し、その乗客達も同時に下船していたので、なおさら港は混雑していた。

 男がしばらくしてあたりを見回すと、すでに他の3人の姿は雑踏の中に見えなくなっていた。またしても自分は皆からはぐれてしまったことに気付き、男はやれやれとため息をつきながら頭を掻いた。
 隣の船からは、白や黒の無彩色の衣服を身にまとった乗客が大勢降りてきていた。中には若者の姿もあったが、その多くは衰弱しきった老人の姿をしており、中には傷跡が生々しい重症の怪我人の姿もあった。皆一様に顔色が悪く、疲れた足取りで、トボトボと港に降り立った。

 男の傍を、白い揃いのキモノを着て青白い顔に不自然な化粧を施した小柄な二人の老婆が通り過ぎながら、こんな会話を交わしていた。
「それにしても奇遇やわぁ。小学校時代からの同級生のミッちゃんにこんなとこで会えるやなんて。ミッちゃんはクラスいちのべっぴんさんやったもんね。そういえば目元の辺、今でも何となく面影があるわぁ」
「イヤやわ、ハナちゃん。こんなおばあさんおだてたかて、何んにも出まへんで」
「おばあさんて、そんなんうちかて一緒やがな」
二人はその外見に似あわない明るく弾んだ声で高笑いし、その後もかしましく喋り続けた。
「せやけど、ミッちゃんはいつこっちに来はったん?」
「あたしはさっきこの船から降りたばっかりなんよ」
「いや、そうなん?うちも昨日こっちに着いたばっかりで、知り合いも誰もおらへんから心細いなぁて思うてたとこなんよ。よかったわぁ、ミッちゃんがいてくれたら何かと安心やし」
「ホンマ、あたしもホッとしたわ」
 二人はトボトボと弱々しい足取りで、港にあふれかえる人の流れに沿って歩いていた。男も、なぜかその独特のリズムに引き込まれるように、二人の会話を聞くともなく聞きながら、人の流れに従った。
「ところでミッちゃん、あんた死因はなんやったの?」
不意に小声になって、ハナちゃんと呼ばれる老婆が隣の老婆にそう尋ねた。
「ああ、あたし?あたしはね、すい臓ガン」
「ああ、やっぱりミッちゃんもガンやってんな。うちもよ。うちのはね、何かあっちこっちに転移してて、最後はよう分からんかったけど、はじめは胃ガンやったらしいんよ」
「あれはホンマしんどいね~」
「ホンマホンマ、かなわんわ」
「ハナちゃんは、コクチはしてもろたん?」
「いや、うち、ほら、もうこんなおばあさんやったし、最期の方はちょっと頭の方もはっきりせんで。…ほら、何?ニンチショウ?あれやったから、誰もそんなこと教えてくれへんかったんよ」
「ホンマぁ。ハナちゃん、あんたも大変やったんやね。でも、せやね。そんなん聞かされん方が幸せやったんかもしれへんね。あたしなんか、病院行ったらすぐお医者さんに家族呼ばれて説明受けたけど、いきなり末期ガンや言われても、どうしたらええんか分からんで…。ガンなんてうちらみたいな年寄りの罹る病気や思ってなかったから、ホンマびっくりしたわ」
「今はホンマにガンが多いねぇ」
「ホンマやねぇ」
二人はしみじみ頷き合った。
「せやけど、このヨレヨレの体とも、もうすぐさようならやね」
「せやね、そう考えたら何かちょと寂しい気もするけど…」
「うっそぉ、うちなんか嬉しいばっかりやわ」
「それにしても、ハナちゃん。あたし一つ不思議に思ってたんやけど、何で死んだ後、体焼いて骨になってるはずなのに、あたしらこうやって昔の体のまんまなんやろ?」
「さあ、うちもようは知らんけど、うちらの船のガイドさんは、この方が便宜上分かりやすいから体があるように見えるだけで、ホンマは関係ない、言うてはったよ」
「便宜上て、なんやの?」
「さあ、よー分からん。でも、死んだ瞬間から、確実に楽にはなったよね?」
「そうそう、それは言えてる。死ぬ直前は、ホンマにもう死ぬほど…てホンマに死んだんやけど、『いっそ一思いに殺して~』て叫びたいくらいしんどかったけど、死んだら途端にスーッと気持ちよーなって、…というか、死ぬちょっと前が一番気持ちよーなかった?」
「何か狭いところからぐーっと押されてツルンとすべり出たような…」
「先に亡くなった人が迎えに来てくれたりとか、お花畑が見えるいうのもホンマやったね」
「え?うそ?お花畑はうちの時はなかったわ…」
 二人はそんな会話を交わしながらどんどん街中に入っていき、やがて長い行列の出来た大きな戸口の前に行き当たった。
「ミッちゃん、これって、あの有名な温泉の入り口とちがう?」
「有名な温泉て、…何それ?」
「えー?ミッちゃん、あんた意外に情報遅いねんな。ほら、船の中でガイドさんに聞かへんかった?若返りの温泉のはなし」
「若返りの温泉?いや、それホンマやの?」
「なんやガイドさんの話によると、ここの温泉のお湯に浸かると、体が自分の好きな年齢に戻れるんやて」
「いや、それ知らんかったわ」
「それだけやないで。温泉の向こうには大っきな美容室があって、好きな衣装や髪型にしてくれはんのやて」
「へー、えらいサービスええなぁ」
「そりゃ、うちらどえらい苦労しながら、最期の最期までがんばって生き抜いたんやから、そのことに対するご褒美みたいなもんやないやろか?」
「そうかなぁ。あたしなんか、別に何も考えんとただがむしゃらに生きてきただけやけど…。まあ、何にせよありがたいこっちゃ」
そう言ってミッちゃんは両手をこすり合わせた。
「でも、…それならあたし、何着せてもらお?」
「うちはもう決めてあるねん。ミッちゃん、これ見て」
そう言うと、ハナちゃんは一枚の写真をキモノの懐から出してミッちゃんに見せた。
「いや、ハナちゃん、えらいハイカラな…。この人、あの有名な女優さんやろ。ほら、なんちゅう名前やったかいな?…ああ、…もう、ここまで思い出してんねんけど…」
「うちも名前は忘れたんやけど…。若い頃憧れてた銀幕のスターや。綺麗やろ。…うちがやってもここまで綺麗にはならんやろけど、まあ、これも記念やし」
「それにしてもハナちゃん、えらい準備ええね。この写真どないしたん?」
「昨日こっちに着いて、暇やったからそこの土産屋さんで買うたんや」
ハナちゃんは得意げにそう言って、曲がった腰を心持ち伸ばして胸を張って見せた。一方ミッちゃんは
「あたしはどないしよかな~」
と斜め上を見上げながら、少女のように空想にふけった。

 大きな戸口には紺色と朱色の長いのれんが掛かっていて、それぞれののれんの前に男と女が別々に分かれて二本の列を作りながら、吸い込まれるようにどんどん建物の中に入って行っていた。
「お兄さん、あんたはそっち。こっちの列は女湯だよ」
恰幅の良い中年女性に襟首をつままれ、男は列の外にはじき出された。
 二本の列から少しはずれたところに避けて、男はミッちゃんとハナちゃんの後姿を見送った。二人はやがて朱色ののれんの掛かった入り口の奥に姿を消した。
「何て元気なばあさん達なんだ。あれでも死人か?」
男は思い出し笑いのような笑みを口元に浮かべながら、独り言を言った。生きることに対してひたむきな人間は、死後も尚、それぞれの置かれた状況でそれなりの楽しみを見つけられるものなのだなあと、男はある種の憧れに近い感情を二人の老婆に抱いた。

 

 温泉から逆方向へも大きな人の流れが出来ており、その中を歩いていると、やがて男は沢山の露天が軒を連ねた商店街のような場所にたどり着いた。

 店先には様々な土産物がところ狭しと並べられていた。洋の東西や時代を超えた有名人の写真やポスター、様々な食料品や衣料品などを、多くの客が楽しそうに買い求めていた。
「今更こんなものを買って何になるというんだろう?」
その光景を覚めた目で見ている男を、露天の元気な女主人が大きな声で呼び止めた。
「ちょっとそこのお兄さん。そんな浮かない顔してないで、冥土の土産に何か買ってかない?」
「悪いが今、持ち合わせがなくてね。それに、僕はその冥土から生れる旅の途中なんで、こんな物は必要ないんだ」
「あら、再生のお客さんね。それにしては、なおさら暗い顔ね。普通、再生客は皆もっと明るい顔をしてるもんだけど」
女主人にそう言われて、何も言い返せず、男は苦笑いした。
「でも、そういうお客さんには、こんないい物もあるわよ」
そう言って土産屋の女主人は、男に小さな黄色い紙袋を手渡した。
「何だ?これは」
「それはね、お兄さんみたいな暗い顔してる人に希望を持たせる薬よ」
「希望を持たせる薬?」
「そう、希望を持たせる薬。だって、ほら、お兄さん、今、希望ってものを見失ってるでしょ?」
「希望…」
そんなもの、いつから無くしているか、男は思い出すことも難しいと思った。
「ああ、それね。さっき薬の卸屋が見本に置いて行った新商品、お兄さんにあげるわ。そんな暗い顔して再生するって聞いたら、何だか気の毒になってきちゃったから。それから、…そうそう、これもついでに持って行ったらいいわ」
そう言うと女主人は今度はピンク色の小瓶を男に見せた。
「それは?…」
「これはねえ、うふふ…」
そう言うと女主人はちょっとシナを作って
「ほ・れ・ぐ・す・り」
と言って、含み笑いを浮かべた。
「なに?ほれ薬?」

「そうよ、ほれ薬。そういう憂鬱な気分をパッと明るくするには、恋をするのが一番だからね」

そう言うと、その気前の良い女主人は男の手に半ば強引にそのピンク色の小瓶を握らせると

「それじゃあ、良い航海を」

と男の肩を威勢よく叩いて、露天の裏に姿を消した。

男はポカンとしたまま、女主人にもらった2つの薬を両手に持ってばらくその場に立ち尽くしていた。
「希望の薬とほれ薬」

男はその唐突な手土産をじっと見つめながらそう呟いて、両手に持った二種類の薬を、頭上にかざして日に透かして見た。
 そうして露天の前にぼんやりとたたずんでいる男の耳に、歯切れのよい例の二人組みの声が聞こえてきた。
「まあ、ミッちゃん!やっぱりもともとの器量よしは仕上がりがちがうなぁ!」
 ハッと我に返って、男はあたりを見回したが、そこにはあの先ほどまでの顔色の悪い老婆たちの姿はなかった。
「また、ハナちゃんたら、そんなお上手言うて」
おっとりとしたミッちゃんらしき声も聞こえてきた。しかし、どちらも先程男が聞いたよりも随分張りのある若々しい声だ。男のすぐ横を、ウエストを細く絞った赤いワンピース姿の活発そうな女と、引きずるような長い袖の豪華な着物を着た純日本風の女が通り過ぎて行った。
「ハナちゃんかてスタイル抜群やし、髪型もお洒落でほんま素敵やわ」
キモノ姿の女が言った。
「そう?あたしについてくれた美容師さの腕が良かったんかな」
そう言いながら上機嫌で笑っているのは、どうやら温泉から上がって若返った理想の姿を手に入れたハナちゃんで、隣の純日本風がミッちゃんらしかった。
 二人は若々しく、ハナちゃんは大輪の真紅のダリアのように、またミッちゃんは満開の枝垂桜のように、二人ともそれぞれに美しかった。
「ほう」
男は横目で二人の姿を盗み見ながら、一人小さく感嘆の声を漏らした。あのしなびた老婆達がこうも艶やかな妙齢の女性に変貌するとは、彼は思ってもみなかった。男はここに来て、時間の流れの不思議さと残酷さのようなものを改めて感じた気がした。
 若返った二人の美しい女性達は、男のすぐ目の前をゆっくりと楽しそうな笑い声を立てながら通り過ぎて行く。その姿を眩しそうに目を細めて見送る男の視界に、その時突然黒い人影が飛び込んできた。
「キャッ」
という小さな声を立てて、ミッちゃんがよろめいた。反対側から小走りにやってきた小柄な男が彼女の左肩に勢い良く体当たりしたのだった。黒っぽい服のその小柄な男は、ミッちゃんの方に振り向きもせず、そのまま男の目の前を通り過ぎて行った。
「ミッちゃん、大丈夫?ちょっと!おっちゃん、どこ見て歩いてんねん!」
威勢の良いハナちゃんの声にも全く耳を貸さず、その黒い塊のような男は、あっという間に雑踏の中に紛れ込んでしまった。
 その光景を目の当たりにした男は、一瞬のうちに自分の鼓動が早くなっていくのを感じた。彼の中に戦慄が走った。

 男は弾かれたようにその場を後にし、目を凝らして先ほどの黒い男の姿を人ごみの中に探した。不安と憤りの混じったえもいわれぬ感情が、彼の胸の中に渦巻いていた。
 その時、彼は見てしまったのだ。ミッちゃんにぶつかった黒づくめの男が、桜模様の刺繍に朱と紫の襟を重ねたその美しいキモノの胸元から、巧みに彼女の乗船許可書を抜き取る瞬間を。

 そしてまた、その異様な気配と一瞬鼻先をかすめた胸の悪くなるような悪臭から、彼はそのことを瞬時に悟ってしまったのだった。

 その黒い塊のような小柄な男は、あの悪霊の巣窟に住む鼠男だということを。