第15章 追跡

第15章 追跡


 男は自分の鼓動がどんどん早くなって行くのを感じた。彼は鼠男を追いかけたが、そのどす黒い塊のような姿は、あっという間に人込みの中に埋もれて見えなくなってしまった。
 男はしばらく雑踏の中に立ち尽くし、遠くの人影に目を凝らしてみたが、そこにはすでにミッちゃんとハナちゃんの姿もなくなっていた。 
[いったい、何がしたいんんだ!」
 男はどす黒い鼠男の姿を思い出しながら、吐き捨てるようにそう言った。その言葉には鼠男への激しい怒りと共に、自分自身に対する苛立ちに似た思いも込められていた。
 鼠男の考えははっきりした所までは分からないが、彼が何か良からぬことを企てていることは明白だった。そして、そこに何の罪もない人間が今まさに巻き込まれようとしている現場を、男は目撃してしまったのだった。まだ時々痛む胸の傷に手を当てながら
「僕には、関係ない…」
と呟きながら、しかし、先程彼の目の前を通り過ぎて行った、可憐な若いミッちゃんの姿が、繰り返し男の脳裏によみがえった。
「いったい、何を考えているんだ」
 男は、鼠男の良からぬ企てを想像してみた。奴はミッちゃんの乗船許可書をどうしょうと言うのか?大方例の呪い部屋の仲間と一緒になってミッちゃんをなぶりものにするのが目に見えている。こうしている間にも、彼女の身に危機は確実に迫りつつあるのだ。
「こんな時、ターシャなら…」
ミッちゃんを救うための良い方法を何か知っているかもしれない。そう思って男はポケットから例の髪飾りを取り出して降ってみたが、しばらく経ってもそこにターシャの姿は現れなかった。
「船の外は圏外なのか?」
男は唇を噛み締めた。このまま、あのミッちゃんと呼ばれる可憐な女性が悪霊の餌食になるのをみすみす見殺しにすることに、男の正義感は耐えられなかった。
「どうすれば…」
男はしばらくその場に立ち尽くしたまま、次に取るべき行動は何かと考えあぐねた。彼はもはや自分がどうしたいのかということは分からなくなっていた。そもそも、一旦船に乗せられたら時から、彼は自分でどうしたいのかということを考えること自体をやめていた。自分がどうしたいのか分からない時には、自分は今、どうすべきか考える他ないと彼は思った。しかし、どうすべきかということさえ、今は何も思いつかないのだった。
「だめだ…」
諦めかけた彼の脳裏に、不意に海亀の老人の顔が浮かんだ。
「彼ならば、どうすべきかきっと分かるのだろう…」
そう呟いた時、男はあの老人の言葉を思い出した。
「特別閲覧…」
その言葉を思い出した刹那、男は船に向かって一目散に走りだしていた。

 

「ある人から聞いたのですが、生命の危機にさらされた相手については、その人間の記録を特別に見ることが許されているとか…」
男は息を切らしながら、図書室のカウンターで係の女性にそう尋ねた。
「どのような被害に合われたのですか?」
以前何度か資料の閲覧を頼んだことおある、見覚えのある優しそうな係員は、顔立ちから想像するより低く落ち着いた声で、男にそう尋ねた。
「この場合、被害を受けたのは生きた肉体ではなく、死後の魂なのだが…」
「…とおっしゃいますと?」
怪訝そうな表情の係員に、男は、以前呪いの部屋で鼠男から受けた被害状況を客観的に伝えた。
「相手の名前は?」
「わからない」
「死亡年月日は?」
「それも知らない」
「では、その被害に遭われた日時と場所は?」
「数日前に、この船の最下層の部屋で…」
そこまで聞き終わると、資料を検索していた係員の手が止まった。
「しばらくお待ちください」
そう言って数分カウンターを離れた後、係員の女性は銀色の薄いファイルケースを持って戻ってきた。
「こちらがお探しのデータです」
 係員の女性に礼を言うと、男はそのまま階段を駆け上がった。空いている視聴覚ブースを見つけるとそこに滑り込み、所定の位置に素早く銀色のファイルをセットした。
「今日中に何とかしなければ…」
 給油とメンテナンスの為に船が港に停泊するのはたったの1日。その間に何とか鼠男からミッちゃんの乗船許可書を取り返さなければ…。男は急いではいたが、同時にとても冷静でもあった。彼には、今自分が何をすべきかということが直観的に分かっていた。


 男の目の前の白い壁一面に、月明かりに仄かに照らされた花野が現れた。そこを7歳くらいの女の子が泣きながら走って来る。
「おシノ、どうした?またいじめられたのか?」
声変わりしかけの少年が、心配そうに駆け寄って女の子の顔を覗き込んだ。前歯の目立つ痩せた小柄な少年と泣いている女の子は、少し年の離れた兄妹のように見える。 

「チョウやぁーん!」
女の子は少年にすがりついて泣きじゃくっている。
「おシノ、どうしたのじゃ。誰に何と言うて苛められた?」
「タロさん達に…、みなしごおシノ!南蛮人のあいのこよ!ように顔を見せてみい!着物を脱いで尻尾がないか見せてみい!って言われて…。追いかけまわされた…」
「それで、おシノはどうしたのじゃ」
「本当に着物を脱がされそうになって、怖くて…。地蔵さんの祠の陰に…ずっと隠れとった」
「タロめ、またそんなことを…。おシノ、ほんに無事じゃったか?あれ等に何もされなんだか?」
「暗くなるまで隠れとったから、何もされなんだ」
おシノと呼ばれるその少女は両手の甲で涙を拭いながらそう答えた。 

 白い肌に艶やかな黒髪、くっきりとした目鼻立ちが印象的なおシノを見て、男は不意にロンドンにいた幼い頃の友人、ジョゼットのことを思い出した。彼と同様、このおシノもまた混血児なのだろうと男はその事情を察した。言われのない差別を受ける彼らだったが、しかし、血は異質のものを混ぜ合わせる程、良い性質を発揮するものなのかもしれない。幼いおシノは、既にその容姿が彼女の人生に何らかの影響を及ぼすことが予見されるほど、美しさを約束された少女だった。
「男の子は嫌い」
おシノは泣きながらそう言った。
「皆、おシノのことじーっと見たり、追いかけて意地悪する。チョウやんだけ、嫌なことをしないのは」
そう言って少年にしがみついたおシノは、昼間の恐さを思い出して身震いした。
「おシノ、もう大丈夫じゃ。わしがおる。このチョウやんが、何があっても守ってやる」
 小柄な少年は、小さな体を少しでも大きく見せようと思い切り胸を張った。
「わしは今はこんなチビでみみっちい百姓の伜じゃが、今に戦で強うなって、誰もおシノに手出しできんようにしてやる。それまでは、何かあったら今のように逃げるのじゃ。逃げ足の速さなら天下一のこのわしが、うまい逃げ方を教えてやるから、今は何とか逃げのびるのじゃ」
「今は?」
「そうじゃ、今は…」
その先は考えまいというように、少年は首を振って、少女の顔を見つめた。
「おお、そうじゃ。今日はこれをおシノにやろうと思っておったのじゃ」
そう言って、少年は着物の懐から藁で出来た小さな人形を取り出した。 
「この人形を守りと思うて持っておけ。わしが念を込めて作った人形じゃ。わしのおらん間は、この人形がわしの代わりにおシノを守ってくれるぞ。わしが付いておる、大丈夫。大丈夫じゃ、おシノ」
少年は自分自身に言い聞かせるようにそう呟いた。

 

 そこで場面は変わって、画面には小柄な若い男の姿が映し出された。ジャポニズムのサムライに似た独特の髪型をして、粗末な着物を身に纏ったその男は、先程のチョウやんだろう。突き出した二本の前歯はやはり鼠のようだったが、その目は澄んで希望に燃えていた。
「おっ母ぁー!」
彼が薄暗い粗末な家の戸口に立って大声で呼びかけると、中からみすぼらしい初老の女が現れた。
「おっ母、戦じゃ、戦!わしはこれから戦に行くぞよ!」
「このバカたれ!おまえなんぞ戦に行ったら露払い同然、先頭に立たされて、真っ先に斬り捨てられるのが目に見えておると言うに!」
女はそう怒鳴った。
「おっ母、人の話を最後まで聞け。それがな、わしはこの度、大殿様から特別な任務を仰せつかったのじゃ」
「なぜにおまえごとき水呑百姓の伜が、特別扱いなどされようものか。大方おシノとの手引きでもさせようという魂胆に違いあるまい」
言葉に詰まる男に、その母親はまくしたてるように言った。
「この辺りの男衆で、おシノのことを知らぬ者はおらぬ。親のないあの娘が浜で倒れておったのをお父が拾うて寺に連れて行ってから10年ばかり、あの娘は年々玉のように美しうなっていく。まだあのような子どもじゃから、今は寺の手伝いなどさせておけば良いが、そのうちにあの娘の噂は国中に広まるじゃろう。そうなる前に早く手を付けて側女にでもしようというのが、大方の男の考える所であろうが」
「大殿様はその様な方ではないわ!」
男は怒鳴った。
「大殿様はな、わしの足の速さと話術を買うてくれたのじゃ。敵の陣に忍び込んで雑兵共を誑し込んで我が兵に寝返らせるのがわしの役目。もし上手くゆけば、家臣として録を賜ることとなろう」
「なんじゃ、その小狡い戦術は」
「戦とはそうしたものよ。おっ母、これよりしばしの別れじゃ。このチョウキチ、戦で必ずや手柄を立てて戻るゆえ、皆にもように伝えておいてくれ」
 そう言い終わるが早いか、チョウキチはひらりと身を翻して、元来た道を一心に駆け戻っていった。
「こら、チョウキチ!この親不孝者めが!この辺りの百姓は皆、お主のようにそうして勇んで戦に行っては、虫けらのようにあっけなく切り捨てられてしまうのじゃ!これ!待たぬか、チョウキチ!」
 母親の声を振り切るようにチョウキチは一心に田の畔道をひた走った。本人の言う通り、その足の速さは、どんどん変わる周りの景色から、視ている男にも伝わる程だった。
「おシノ!」
 東洋様式の寺院の境内のような場所に行って男が大声で呼ぶと、大きな銀杏の木の影から、抜けるように白い肌のおシノが箒を持ったまま現れた。その姿は、男の想像通り、また先程のチョウキチの母親の言葉通りだった。
「おシノ、わしはこれから戦に行く!」
息を弾ませながらチョウキチは言った。
「チョウやん。本当に、行ってしまうの?」
そう言って心配そうにチョウキチを見詰めるおシノの目は、大人と子ともの狭間の微妙な年齢の少女が持つ、独特の魅力を放っていた。
「これおシノ、そのような顔をするな。大丈夫じゃ。わしは此度の戦では大殿様から特別な任務を与えられておるのじゃ」
「大殿様?」
おシノは、チョウキチの言葉を繰り返した。
「よう聞け、おシノ。わしの主の大殿様はの、それはそれは立派なお方なのじゃ。戦術の斬新さや先見の明、また適材適所で兵を動かす統率力と判断力、どれを取っても武将としてこの上なきお方じゃ。それに、そのお人柄も素晴らしく、その証拠にわしのような一兵卒にもきちんと目をかけて下さっておる。わしは、あの方のためなら、命懸けて戦うことをいとわんぞ」
「だめ、チョウやん。戦で死んではだめ!」
「じゃから、心配要らぬというに…。良いかおシノ、この戦で手柄を立てたら、わしには一つの考えがあるのじゃ」
おシノは目をパチクリさせてチョウキチを見詰めた。
「戦で手柄を立てたら、最早この村でわしに文句の言える者はいなくなる。そうすれば、わしはそなたをわしの妹として我が家に迎えようと考えておるのじゃ」
おシノの顔がパッと輝いた。
「お前ももう良い年頃、いつまでもこの寺に置いてはもらえまい。男を怖がるお前を見ず知らずの男に嫁がせることも、さりとて仏門に入れて尼にならせることも、わしにはかわいそうに思えるのじゃ。わしの妹になれば、いつでも傍でわしが守ってやれる。もう誰からも逃げ回ることはしなくてすむ」
チョウキチは少し顔を赤らめて、言葉を続けた。
「じゃ、じゃが…、お…、おシノに好いた男が出来たら…。その時は、そなたの好きにすれば良いのじゃぞ。ただわしは…、おシノに無理はさせとうないのじゃ」
「チョウやん…」
チョウキチを見詰めるおシノの瞳は潤んでいた。

 

 そこからは、激しい合戦シーンが繰り広げられた。白い矢が雨のように飛び交い恐ろしい形相の敵兵が刀を構えて向かって来る中、敵の陣地に向かってチョウキチは走りに走っていた。彼の足元には敵味方入り混じった兵士の遺体が無数に転がり、またその傍では瀕死の負傷兵が激しい声で悶え苦しみ、

その兵士の下には、死後何日も経過して腐敗しかけた死体が横たわっていたが、その倒れた兵士たちの上を踏み越えながら、チョウキチは無心に走り続けた。途中、敵兵の遺体から自分のものとは異なる旗印のついた鉢巻をもぎ取って素早く付け替えると、チョウキチは作戦を着実に遂行していった。
 激しい戦闘場面を見かねて男がしばらく映像を早送りしていると、やがて大勢の男達が車座に座って食事をしてるシーンが現れた。
「おお、チョウキチ。おまえ、大殿に呼び出しを受けているそうじゃねえか」
岩のように屈強な髭ずらの大男がチョウキチにそう声をかけると、丼茶碗を片手に飯を頬張って猿のように頬を膨らませたチョウキチは、無言のまま頷いた。
「多方、おシノのことだろうよ。あんな綺麗な娘がお前のようなチンケな男としかろくに話もできないなんて、何だか変な話だぜ」
「でも、ああして恥かしがる所もまた、あの娘の可愛いところだ」
「それにしても、何でまた、大殿様がチョウキチを直々に呼びつけたりされるのか?」
集まった男達は、銘々好きなことを話しだした。
「大殿様に所望されれば、女御の方に断る余地などないであろう。そんなことをすれば、即刻打ち首じゃ」
「しかし、大殿の妾になるなど、我らのような身分の女にとってはこの上なき話。そのような玉の輿をみすみす蹴る女もおるまい」
「しかし、あのおシノは分からぬぞ。何せ、変人じゃからな」
「いずれにせよ、その気になれば大殿様は下々の女など如何様にでもできるのじゃから、それはチョウキチとは関係あるまい」
皆の噂話がおわらないうちに、食事を済ませたチョウキチは無言でその場から立ち去った。

 

「お召しによって参上つかまつりました。チョウキチにござりまする」
 広々とした殺風景な板の間にひれ伏して、チョウキチは緊張に凝り固まったまま挨拶をした。
「うむ、そちがチョウキチか。此度の戦でのそなたの働き、物頭から聞き及んでおる。大義であったな。褒美をとらすぞ」
これまたサムライのような風変わりな髪型の目つきの鋭い男が、板の間の正面に壁を背にして座り、鷹揚な態度でチョウキチにそう言った。
「ははっ!ありがたき幸せに存じまする!」
チョウキチは再度床に頭を擦りつけて、喜びに肩を震わせた。
「それはそうとチョウキチよ。今日はそちに折り入って頼みがあるのじゃ」
「はっ!何なりと、このチョウキチめにご命じ下さりませ!」
チョウキチは忠実な番犬のように期待に満ちた目で大殿を見つめて、次の言葉を待った。
「頼みというのは他でもない、あのおシノのことじゃ」
 その瞬間、チョウキチの体がビクンと固まった。
「わしは、予々あの娘に目を付けておってな。先祖の墓参に寺に参った時、まだ幼いおシノを一目見た時から、ゆくゆくはわしの側室にと考えておったのじゃ」
「し、しかしながら大殿様、あれはまだ子どもにござりまする」
チョウキチは恐る恐るそう言った。
「そうは言うても、もう13.4にはなっておろう。いずれにせよあの様子では、既に女の体になっておることは確かじゃ」
そう言った大殿の口元からは、赤い舌がチラチラ見え隠れしていた。
「それに…、恐れながら….。お、おシノは、…男というものを怖がっておりまする」
言葉に詰まりながら、チョウキチは必死になってそう言った。
「そうじゃ、そこなのじゃ」
大殿は言葉を続けた。
「何もそちの手引きがなくとも、小娘一人どうすることも本来ならばたやすきこと。しかし、これにはちと訳があってな…」
窓の外で、鶯が優雅に鳴く声が聞こえた。
「半年ばかり前に、わしはある八卦見から、『身分低き女に無理矢理手を付けたならば、末代までの祟りに合う』という卦を示されたのじゃ。占いなど、もともと気にする質ではなかったが、このところの戦況はことごとくその八卦見の言う通りになってきたので、さすがのわしも怖うなってな。そこで、そちに頼みたいのじゃ」
大殿の目がキラリと怪しい光を放った。
「おシノが自ら進んでわしの元に嫁ぐよう、仕向けて欲しいのじゃ」
  チョウキチは、呆然とした顔でそのまましばらくその場を動けずにいた。

 

 場面は再び、男達の食事のシーンになった。食事内容は、前回同様、丼鉢に入った茶色い米飯のみだ。
「さあ食え、チョウキチ。腹が減っては戦は出来ぬぞ」
山盛りの丼飯をチョウキチの目の前に置いた気の良さそうな中年の男がそう言った。
「…皆の言う通りであった。大殿様は、わしの力を買うてくれていたのではなかった。最初から…、おシノが目当てだったのじゃ…」
がっくりとうなだれたまま、チョウキチは力なくそう言った。
「しかし、おシノにとっては良い話ではないか」

 チョウキチの肩に手をかけて、中年男は言葉を続けた。
「よいか、チョウキチ。わしらは所詮しがない雑兵。少しくらいの褒美を賜ったところで、戦の度に命懸けの、明日をも知れぬ身の上じゃ。よしんば生き長らえたとしても、一度戦で負傷したら最後、後は辻で物乞いでもして人の情けにすがるより他は、生きて行く術がないのじゃ」
チョウキチは黙って頷いた。
「その点大殿様の奥方になれば、おシノの行く末は安泰じゃ。武将の妻にもそれなりの苦労はあろうが、少なくとも喰うや喰わずの生活からは程遠い」
 そして、男はチョウキチの肩に乗せた手に力を込め、声を落としてこう続けた。
「それに、最早断れる話ではあるまい…」
 チョウキチは、ハッと目を見開いて男を見上げた。


「大殿様に?…」
 寺院の裏庭の大きな椿の木の下で、チョウキチはおシノにそのことを告げていた。成人に達しても小柄なままのチョウキチと、スラリと長身のおシノは、向き合うと同じくらいの目線の高さになる。
「嫁に行かずとも良いと、…言っていたのに…」
そう呟くおシノの顔は真っ青だった。
「ああ、それは、この村の連中には…ということで、お相手が大殿様なら話は別じゃ」
チョウキチはとぼけた顔をして、頭を掻きながらそう言った。
「良いではないか、おシノ。大殿様の奥方ともなれば、今まで見たこともないような綺麗なべべを、山のように買うてくれるぞよ」
「そのような物は要りませぬ」
「諸国から取り寄せた珍しいご馳走も、腹いっぱい食わせてもらえるぞよ」
「それも要りませぬ」
「多くの侍従が傅いて、身の回りのことを何でもしてもらえるのじゃぞ」
「それもこれも、おシノは何にも要りませぬ!」
おシノは怒って声を荒げた。
「おシノは、チョウやんの妹になりたいのじゃ!誰にも気兼ねのう、チョウやんと百姓をして、静かに暮らしていきたいだけなのじゃ!」
そう言って、おシノは泣きだした。チョウキチは困った顔でしばらくおシノを見つめていたが、やがて口元をへの字に結ぶと、意を決したような強い口調でこう言った。
「わしは、百姓は嫌いじゃ!」
 驚いて、おシノが顔を上げた。
「百姓の暮らしはそなたが思っているような生易しいものではないのじゃ。鉄砲水や日照りで一度飢饉が起これば、バッタバッタと人が死ぬる。牛馬も死ぬる。仮に豊作だったとしても、いつでも高い年貢に苦しめられ、果ては戦で田畑を滅茶苦茶に荒らされる始末」
チョウキチの語気に力が込もる。
「わしは戦で出世して、この貧しさから抜け出したいのじゃ!おシノが大殿様の御許に上がれば、わしも少しは取り立ててもらえよう。のうおシノ、わしに楽をさせてくれ!貧しいこの村を助けてくれ!」
チョウキチは深々と頭を下げた。
「おシノが大殿様の許に嫁げば、…チョウやんは本当に、…楽に、なるのか?」
おシノは大きな瞳でチョウキチを見つめて、そう訪ねた。
「そうじゃ…、そうじゃ、…おシノ」
搾り出すように、チョウキチはそう答えた。
 長い長い沈黙の間、木の上ではモズが忙しげにさえずっていた。やがておシノは、目を閉じて大きく息を吐くと、ゆっくりと目を開けて凛とした口調でこう言った。
「分かりました。おシノは、…大殿様の御許に参りまする」
「よう言うてくれた!おシノ、…おシノ…」
チョウキチは、おシノの肩を掴んで何度も頭を下げた。
「チョウやん…」
おシノは子どもの頃と同じように、チョウキチの体にしがみついた。しかし、ぴったりと密着させて体を沿わせるその様は、子どものするそれとは明らかに違っていた。チョウキチは、掴んでいたおシノの肩から手を離して、そのまま両手を宙に浮かせていた。そのままおシノを力いっぱい抱きしめたい衝動を必死に抑えているチョウキチの切ない思いが、画面を視ている男にもひしひしと伝わってきた。
「チョウやん、おシノは本当は…」
熱を帯びたように頬を赤く染めながら、おシノがそう言いかけた時、不意に頭上の木の枝に止まっていた一羽のカラスが大きな声で鳴きだした。おシノはその鳴き声を聞くと弾かれたようにチョウキチから離れて、寺院の裏口に向かって走り去って行った。
 途中で一度振り返ったおシノがすっかり建物の中に入ったのを見届けると、チョウキチは目から涙が溢れ出した。
「すまぬ、おシノ!こらえてくれ…」
 椿の木の幹にすがったままチョウキチはその場に泣き崩れた。
「こうするより他、仕方がないのじゃ。こらえてくれ、おシノ。わしではそなたを、…守ってやれぬ…」
 へたりこんだチョウキチのすぐ傍に、踏みしだかれた赤い斑入りの白椿が一輪、ひっそりと落ちていた。

 その先は、ひたすら無残な戦闘シーンが繰り広げられた。累々と横たわる兵士の遺体、中には既に腐敗して、中からウジが這い出してきている物もある。その遺体の山を踏み越えて、
雑兵達は、互いに殺し合っていた。

 

 次の場面では、空を厚い雨雲が覆い、遠くで雷の音が聞こえていた。チョウキチは槍の刃こぼれを気にしながら、鉢巻を締めていた。戦いが始まる前の静かな時間、不意に、彼の後ろで兵器を積んだ荷台を運ぶ二人組の話し声が聞こえてくる。
「それにしても、大殿様もむごいことをなさるものよ」
「さりとて、そのまま逃がしては、大殿様の面目が丸つぶれじゃ」
「じゃが、それにしてもあのような美しい娘を…」
「何の話じゃ!」
殺気立った顔で、チョウキチは二人に詰め寄った。何も知らない二人は、チョウキチ交互ににこう語った。
「それがの、美貌で名高きおシノという若い娘がの…」
「望まれて大殿様に嫁いだまでは良かったが…」
「床入りの晩に逃げ出そうとしたとかで…」
「その場で手打ちにされたのじゃそうな」
「…手打ち、じゃと…?」
 ポツリと雨粒が数滴落ちたかと思うと、突然激しい雨が叩きつけるように振ってきた。
 その時、遠くで開戦の合図の法螺の音が轟いた。豪雨の中、白い矢が容赦なく飛んできて、チョウキチの頬をかすめた。雨と血と泥にまみれて走る味方の兵に突き倒されて、チョウキチは泥の中に膝をついて倒れ込んだ。彼の背中を踏み越えて、兵はどんどん前に進んでいく。泥の中に倒れ込んでそのままチョウキチは動かなくなった。

「死んだのか?」

かなり長くその場面が続いて、映像を見ている男がそう呟いた時、チョウキチは槍を杖代わりにゆっくり立ち上がった。

 その泥まみれの顔面は、真っ赤に充血した目だけが、辛うじて生きた人間であることの目印のようだった。

 野獣のような声でチョウキチは低くうめいた。
「何故じゃ?」
 そしてチョウキチは、突然向きを変えると、皆とは逆方向に向かって猛烈に疾走し始めた。脱走者を防ぐため背後に控える味方の攻撃をもかいくぐり、味方の大本営に駆け込んで、チョウキチは喉が張り裂けんばかりの大声で叫んだ。
「何故じゃ!なぜに、おシノを!!」
たちまちチョウキチは甲冑を身につけたサムライ達に取り押さえられ、大殿の前に引き立てられた。
「自分から望んだのではないか!全て、思う通りになったのではないか!それなのに…」
血走った目で大殿を見据えて、チョウキチは渾身の力を込めて叫んだ。
「何故、おシノを殺したのじゃぁぁぁ!!」
 顔色一つ変えず大殿は答えた
「あの娘が悪いのじゃ。このわしに一言もものを言わず、汚い藁人形を握りしめて部屋の隅で震えておるばかり。その人形を表に打ち捨てたら、その隙に逃げ出そうとしおった」 

 おシノは子どもの頃にチョウキチからもらった人形を、肌身離さず持っていたのだった。
「逃げようとしたのではないわ!!おシノは…おシノは…」
チョウキチが全ての言葉を言い終わらないうちに、大殿は傍の家来に向かって顎をしゃくって見せた。刀を持った兵士が後ろからチョウキチの背中を斜めに切りつけた。血しぶきをあげてチョウキチはその場に倒れ、泥まみれのボロ雑巾のような姿でそのまま動かなくなった。

 そこで映像は途切れ、後にはチョウキチの心の声がナレーションのように流れた。
「今に見ておれ、大殿よ。わしはお前を呪うてやる。お前の恐れる悪霊に、このわしがなってやるわ。末代までも祟ってやるぞよ。よいか、大殿、覚えておれよ」

 

 男はしばらく、じっと視聴覚ブースの椅子に座ったまま動けずにいた。地下室のあの鼠男に、このように悲しい過去があったとは。
 のろのろと席を立ち、カウンターに寄ってファイルを返し、出口に向かって歩く男は、後ろから誰かに軽く肩を叩かれた。男が振り向くと、そこにはターレスがいつもの微笑みを浮かべて立っていた。
「よくこの場所でお会いしますね。ルーカス、あなたは本当に勉強熱心だ」
 男は、はたと我に返ると、ターレスの顔を見て急に何か思いついたように目を輝かせ、ターレスの両手を握った。
ターレス、君に折り入って頼みがある。ちょっとした人助けをするので、手を、…それと知恵を、貸してくれないか?」
 ターレスは嬉しそうに、笑いをこらえながら言った。
「ルーカス、あなたの口から『人助け』という言葉が聞けて、私は嬉しく思いますよ。まあもっとも、あなたはいつも無意識に、それをしているのですけれど」
 ターレスは言葉を続けた。
「良いですよ。どこのどんな人を助けるのでしょう?」
「通りすがりの若い娘と、後は…」
「後は?」
「地下室の悪霊だ」

「♪」

 男のその言葉聞いたターレスは、楽しそうに口笛を吹いた。