第16章 作戦

第16章  作戦

「…で、これをどうやって使うんだ?」
 丸底フラスコの下の部分だけのような球体のガラス容器を手に、男はルーカスに尋ねた。
「これから立ち向かう闇の存在に対して、必要なのは光です。この中に、あなたの光を集めるのです」
「…それは一体どうやって?」
「具体的にご説明しますと…」
 ターレスは小さな咳払いをすると、その球体の穴の部分を眉間に押し当てながらこう言った。
「今までこの船の中で見た前世の記憶を振り返りながら、次の4つの感情を想起して、このようにして中に集めるのです」
「4つの感情…というのは?」
「『愛』と『感謝』と『懺悔』と『許し』です」
「…それは、まるで何かの宗教じゃないか?」
「この際、方法は何でも良いでしょう。しかし、厳密に言うと、これは宗教ではない。宗教というものは外側からこれらの概念を注入するものですが、この方法は自分の中から発掘する作業ですから、中身は全て自前です。教祖がいないものは、宗教とは呼びません」
「ふぅん、そんなものか…。まあ、確かにこの際、方法はどうでも良い。急がなければ、とにかくもうあまり時間がない」
「その中が光で一杯になったら出かけましょう。それまで、私も自分の光を強化しておきます」
そう言い残すと、ターレスはどこかに消えた。

 美しく整えられたターレスの部屋の中に一人残された男は
「『愛』と『感謝』と『懺悔』と『許し』」
と先ほど与えられた課題を反芻した。
「愛、…愛ねぇ…」
 以前、ターシャに「愛という言葉の意味が分からない」と自分が言ったことを、男は思い出していた。しかし、これまで見た映像の中には、確かに何人かの人々が自分に与えてくれた確かな「愛」があった。
 命をかけて自分を産み落とした実母、マーガレットの悲しい愛。
 何も見返りを求めることなく自分の芸術を理解し、献身的に尽くしてくれたモデル、カレンの健気な愛。
 そして、今まで決して認める事の出来なかったことだが、どんな困難をももろともせず自分を育ててくれた養母、ローズの強くたくましい愛。
 確かに自分の前世には、多くの愛が存在していた。そんな彼女達のことを思い出す男の心の中には、今はもう歪んだ先入観はなくなっていた。客観的事実として、純粋に自分を愛してくれた彼女たちのことを思うとき、極自然に、男の心の中に「感謝」の念が湧いてきた。とんだ災難の連続だったと思っていた自分の前世は、実はそれ程最低なものではなかったのかもしれない。少なくとも、この3人の女性達からの愛情、そして、生命の危機を感じずに済む安定した生活環境。また、努力によって人生を改善できるという可能性を信じられる余地。自分が前世において、意識することなく当たり前に享受していたものが、先程観たチョウキチの人生では、当たり前ではなかった、ということに男は気づいた。
 愛する者の為に命がけで戦うチョウキチの姿を、男は改めて思い出した。彼の経験していた戦というもの、それは悲惨極まりないものだった。しかし、その是非はともかく、自分自身は、何かのためにあれ程までにがむしゃらに命がけになったことはあっただろうか?19世紀のイギリスで、画家としての自分が追求しようとした美に対する姿勢には、果たしてそこまでの気迫のようなものがあっただろうか?
 その時彼は、大きな事実に直面した。自分は今まで様々な問題を、全て誰かに責任転嫁してきたのではなかったか?実母が早くに病死して継母に育てられることになったという生い立のせいに、養育者の芸術に対する理解のなさせいのに、また印象派芸術の台頭という時代背景のせいにして、自分はそこまで本気で自分自身や自分の求める美というものに向き合って来なかったのではないか?それらの諸条件によって自分は不遇だったと今まで思い込んでいたが、実は自分はそれらを言い訳にして、そこまでの努力を怠っていたのではないか?
 あまりに突然の気づきに、男はまるで頭を思いきり殴られたような衝撃でめまいを感じて、テーブルに肘をつきがっくりとうなだれた。
 図らずも、これこそが真の「懺悔」だと、男は苦笑いを浮かべた。要するに前世の自分は、その悲しい境遇に甘えていたのだ。そして、相手の愛に気づかないことによって、随分彼女らに迷惑をかけてしまったのだ。実母のマーガレットに関しては、それは彼には不可抗力だったが、後の2人には多大な迷惑をかけてしまった。

 知らないうちに彼を密かに恋い慕うモデルのカレンを未婚の母にして、想像できない程の苦労をかけてしまった。

 また養母のローズにも、激しい反抗の末に失踪したことによて、ひどく心配をかけたに違いない。

 先程の映像の中での、チョウキチの母親が大声で叫んでいた姿を、男は思い出した。あの母親の、悪態をつきながらチョウキチを必死で止める叫び声は、最後には泣き声に変わっていた。きっと、子を思う親の気持ちには、時代も国籍も、そして実母か養母かということも関係ないのだろう。かつてローズも、あのチョウキチの母親のように、自分のことを罵倒しながら涙にくれていたのではなかったか?
「僕は、…随分ひどいことをしてしまった」
男は一人そう呟いた。自然に彼の目に涙が溢れた。
「誰か、僕を…許してくれ」
 彼女らに許しを乞うのではなかった。なぜなら彼女らはそもそも男を責めてはいないのだから。しかし彼は、その時、真に許しを乞うていた。
 誰に?
 …神仏?
 否、そんな形式的なものではない、と男は思った。
 …それでは自分自身に?
 否、そんなセンチメンタルな問題でもない、と彼は再度自分自身の考えを打ち消した。
 そうしてよくよく考えると、やはり彼は許されるべき対象を持たないことに気がついた。
「つまり、僕は、…既に許されていたのか!」
 周囲の人間の気持ちを思いやることもなく、自分自身の芸術というものへの執着だけに突き動かされてがむしゃらに過ごした前世の42年間、ずっと彼はそうすることを許されてきたのだった。社会的承認は得られず、その為に暮らしは苦しかったが、しかし、それでもその生活を、彼は何か大いなる力に導かれたかのように、続けることが出来ていたのだった。
「こんな僕でも、許されていたのだとしたら…」
 男は、不意に今まで彼が許せないと感じ続けてきた、ローズの諸行に思いをはせた。
 移民の子という理由で、幼い自分から唯一の友達を遠ざけたローズ。
 苦手な数学で学位を修めることを強要し、大好きな絵を取り上げようとしたローズ。
 それは、どちらも彼女のエゴであり、前世の自分はそのローズのエゴによって人生を大きく動かされてしまったのだ。しかしまた、自分自身も、自分のエゴによって人の人生を大きく変えてしまったのではなかったか?
「人は、皆…過ちを犯す…」
男はそう呟いた。
「僕に、彼女を裁く資格など、ないのだ」
 男は、先ほどターレスに手渡された球形の容器をゆっくりと額に近づけた。その容器の口が彼の額に触れた瞬間、その接点は強い光を放った。男はそのまま、静かに目を閉じた。自分の中から溢れ出る光を直視出来なかったのだ。そして、そのまま彼は光の中に包まれた。それまで、自分の中でずっとくすぶり続けていた黒い物が、今静かに消滅し、憎しみが完全に浄化されたことを彼は体感した。
 部屋を満たしていた強い光は、徐々に小さくなり、球体の中に収まった。その球体は、直視できない程の眩しさではなく、白い静かな光を放つ電球のようになった。その白い球体を眺めていると、
今まで感じたこともないような安堵感と、暖かな充足感がゆっくりと男を満たしていった。今彼は、曰く言いがたい初めての感情を手に入れたのだった。


 やがて、静かなノックの音によって男は我に返った。彼のものと同様に白く発光する球体を携えたターレスが、端正な顔立ちに一層清浄な雰囲気を加えて戻ってきたのだ。
「準備は整ったようですね」
「ああ、そのようだ」
男は、ゆったりと答えた。
「それでは、参りましょう。あの悪霊の巣へ」
 二人は見つめ合った。その時、男は初めて、ターレスに向かって屈託のない微笑を投げかけた。

 

 重い扉の向こうには、薄暗い緑色の光の下、ボロを纏った悪霊達が例によって泥団子のような塊を作って、壁にぼんやりと映し出された映像に見入っていた。
「こいつは、七週間前に87歳で癌で死んだ、回帰航路の乗客だ」
ミッちゃんの乗船許可書を中央に置いて、そこから浮かび上がった映像を見ながら、鼠男は仲間に向かって得意げにそう告げていた。
「何?87歳まで生きながらえて、殺人でも事故でもない、一番平和な病死を迎えるなんて…。その上、こんな若くて綺麗で、何の悩みもなさそうな姿を手に入れるなんて…」
声だけで、何とか元は女だったと分かる、ボロ雑巾の塊のような悪霊が、憎々しげにそう言った。
「何て羨ましい…」
と数名が一斉にそう言った声は、地を這うような怪しいハーモニーを奏でた。
「さて、どうやってこいつをいたぶってやろうか?まずは、いつものように悪寒と幻聴で恐怖心を与えて、死んでしまったことへの恐怖を与えてやろう。そして、混乱した隙に転生ルートから引きずり出してしまえば、後は地縛霊になって、俺たちみたいな転落を辿るのがお定まりのコースだからな。一旦転落人生にはまったが最後、そうやすやすとは抜け出せない。長寿の末に癌でちょっと苦しんだくらいでそう簡単にまた幸せな転生なんか、させてやるものか…」
甲高い男の声が、せき立てるようなヒステリックな調子でそう言った。
「それと、さっき、この獲物が届く前にやりかけていたこの小娘だが…」
そう言って別の悪霊が、淡い緑色にうすぼんやりと発光するひもう一つの映像をひねり出した。そこには、以前同じこの部屋の中で悪霊達の餌食になりかけていたあの藍子の寝顔が映っていた。熊のぬいぐるみのミッシェルをしっかり抱きしめて眠る子どもっぽい寝姿の藍子は、しかし、以前よりほんの少し大人びた顔立ちになっていた。藍子は時折寝苦しそうに体をよじったり眉をひそめてうわごとを言ったりしていた。額にびっしょりと汗をかき、悪夢にうなされていることが、その映像から見て取れた。
「この娘、最近急に可愛らしくなってきて…」
先程の女の声の悪霊が、一層恨めしそうに歯ぎしりしながら言った。
「それじゃあ、始めるか」
ねずみ男がそう言った時、
「待て!」
というターレスの力強い声とともにドアが開き、眩しい光が薄暗い部屋の中を一気に照らした。
「なんだ!これは!!」
悪霊たちは眩しさのあまりうずくまって悶えながら叫んだ。
「やめてくれ!苦しい!そんな強い光、早くどこかにやってくれ!」
突然の奇襲攻撃に悪霊たちはなすすべもなく、まるで溶けかけたスライムのように地面に這いつくばった。
「だ、誰だ…お前は…」
床に這いつくばったまま、ねずみ男ターレスに向かって、呻きながら尋ねた。
「今までここで、仲間が何度か世話になった者だ」
「…まっ、またしてもお前か。一体何だというんだ。どうしてこう、…何度も俺たちに…か、絡んで来るんだ…」
息も絶え絶えに何とか話そうとするねずみ男に、近くの女の声が加勢する。
「そう、…何でまた、このあたし達に、そうも執拗に、…関わろうとするのよ…。こんな、人生の全ての喜びから見放されたあたし達の唯一の楽しみ、…人を呪うという、ささやかな楽しみを…、何だってあんたは、邪魔ばかりするの?」
「そうだ、何の権限があって、お前は俺達の邪魔をするんだ…」
先ほどのヒステリックな若い男の声もそれに賛同する。
「こんなことをして…」
ターレスは低く静かな声で悪霊達に語りかけた。
「こんなことをして、一体何になるというのだ」 
 床に倒れこんで苦しそうに身悶えする悪霊たちに向かって、ターレスは言葉を続けた。
「あなた方がこのような姿に成り果てたには、それなりの理由があったのだろう。何者かに対する行き場のない恨みを抱いたまま亡くなった魂のまま、一旦は転生の為にこの船に乗り込んでみたが、やはり無念を晴らしきれず、悪霊としてこの薄暗い船の最下層の部屋に長年住み着いて、自分でも訳の分からぬまま、現状から抜け出せずにいるのだろう?今のあなた達のその姿は、本来の姿ではない。長くこの部屋に居たために、本来の姿を忘れた者は、思い出すが良い。自分が初めてこの船に乗り込んだ時のことを、今一度、思い出すのだ!」
 ターレスは力強くそう言うと、一番近くに倒れ込んでいた女の声の悪霊の上にしゃがみこんで、先程の丸い瓶の口をその額に当てた。
「な、なにを…?!」
女の声の悪霊は驚いて必死になって体をバタつかせた。
「や、やめて!苦しい…!」
「しばらく辛抱しなさい。自分の中に光を取り戻すまで!」
ターレスは、女の悪霊に馬乗りになっての逃さないように押さえ込んだ。
「ウヒャー!!ギョエー!!」 
異様な呻き声を上げてその悪霊は尚もしばらくジタバタもがいていたが、そのうち動かなくなった。すると彼女の口のあたりから濃い緑色の煙のようなものがモヤモヤと立ち上ってきた。ターレスがそっと悪霊の身につけているボロ布の端ををめくってみると、そこには蒼白く痩せてはいるが、人間の姿を取り戻した女の顔があった。女は苦しそうに眉を潜めながら、長い悪夢から目覚めたようにゆっくりと目を開けた。
「わ、私、どうしてここに…?」
女は、呆然とした表情でターレスに尋ねた。
「あなたの中にあった弱い心の為に、しばらくの間、悪い夢を見ていたのです。でも、もう大丈夫。こうしてまた、人の心を取り戻したのですから。もう一度、この船の中で補講を受けて、改めて転生先を見つけるのです」
「…転生?」
女は、古い記憶をたぐり寄せるようにその言葉を繰り返した。
「そう、あなたはかつて、生まれ変わって新しい人生を始めるはずだった。それが、あなたの捨てきれなかった何らかの執着によって阻害されてしまった。そして忘れてしまっていたのです、大事な予定を。ですから、今一度、転生のサイクルに戻って行くのです。大丈夫、どんな所だって、ここよりは良いはずだ」
 ターレスは穏やかな深い眼差しで女に向かって諭すように言った。
「私や私の仲間も、これから転生するのです。あなたは一人ではない。ここにいるあなたの仲間も皆一緒だ。恐れることはない。あなたはもう、孤独ではないのです」
女は眩しそうにターレスを見詰めた。
「行きましょう、我々とともに、あちらの世界に」
ターレスの静かな言葉に、女はしばらく無反応だったが、やがておずおずと言葉を発した。
「…良いのですか?私のような者が今更あちらに生まれて行っても…」
 ターレスは深く頷いてこう言った。
「必ず、あなたに出会うべき人があちらの世界にいるはずです。遠い昔に出会った誰かの魂が、今もあなたを待っている」
「…私を…待って?」
「そう、世界はあなたを待っている。生まれるべきでない魂など、本来どこにもないのです。さあ、行きましょう。我々とともに、新たな世界へ」
慈愛に満ちた表情でターレスは女にそう言った。女の頬を、一筋の涙が伝った。
「…はい」
女は静かにそう答えた。

「ルーカス!さあ、入って下さい。他の者達にも今の方法で浄化を施します」
 僅かに開けた扉の隙間から中の様子を伺っていた男も、ターレスと同じく光の玉を持って入室したため、部屋の中は尚一層明るくなり、悪霊達は眩しさに再び悲鳴を上げた。


「もしもの時の為にあなたに外で待機してもらっていましたが…」
床に倒れた他の悪霊の上に馬乗りになって先程と同様に浄化を行いながらターレスが言った。
「それにしても、何かあっけない位うまくいったな。何だか無気味な程だ」
男もターレスと同じ姿勢で、もがき苦しむ悪霊の上に跨って浄化を行い、やがて一人二人と、悪霊達は人間の姿を取り戻して行った。
 二人の光の玉によって明るく照らされた部屋の中で、十名程いた悪霊の大半は浄化を終えて人間の姿に戻り、半ば放心したようにその場にぐったりと横たわり、まだ浄化を行っていない残りの数名は、苦しそうに身悶えを続けていた。部屋の中央には、若い姿のミッちゃんの静止画像と、その隣には、幾分寝苦しさから解放されかけた藍子がくまのミッシェルと共に寝ている映像とが薄ぼんやりと浮かんでいた。
ターレス、後どの位で終わりそうだ?」
「これから我々が浄化しようとしているこの二人で最後のはずです」
そう言いながら、ターレスは苦しそうにうごめく未浄化の悪霊に跨りながら言った。
「そうか、じゃあ、こいつで最後だな」
男もターレスと同様に別のうごめく塊を組みしだいてそう言った。
「この作業もなかなか疲れるな」
男は額を右手の甲で擦りながらそう言った。
「そうです、自分の中の光を他者と分かち合う行為ですから。でも、だからと言ってあなたの中の光が減っている訳では決してない。光というのはそういう性質のもので、分けても減ることがない。いえ、逆にどんどん伝播して広かっていくものなのです。ただ、この者達は内なる闇がかなり深かったですから、彼らが浄化の際に発する緑色の煙を吸い込んでしまったら、しばらくはその闇に感化されて、多少疲れを感じるかもしれませんね」
ターレスは涼しい口調でそう言ったが、しかし彼も幾分疲れた表情で、額にかかる前髪をかきあげてそう言った。
 やがてその二人の浄化も終わり、辺は静かになった。もう誰も苦しそうにうごめく者はなく、辺は穏やかな平安に包まれた。
「これは?」
男は、手元の光る玉を見ながら言った。
「ご自分の中に戻しておくと良いです。そうすれば、疲れも幾らか和らぐはずです」
そう言いながら、ターレスは手元の光の玉を自分の額に当てた。中の光は音もなくターレスの額に吸い込まれて、空のビーカーが手元に残り、そうすることで、部屋の中の明るさは半分位になった。
「では僕も…」
男も、ターレスと同じようにしてビーカーの口を額に当てた。何か清らかな力強い物が自分の中に入って来たようで、先程の疲れが一瞬で取れたように、男は感じた。彼のビーカーも空になり、部屋の中は元のように薄暗くなったので、中央のミッちゃんとアイコの映像が、はっきりと見えるようになった。
「彼女に早くこれを返してやらないと…」
男はミッちゃんの乗船許可書を手に取った。
「それから、こいつらは…?」
周囲に倒れたままの、人間の姿を取り戻した十名程の元悪霊達を振り返りながら、男はターレスに尋ねた。
「あなたの水先案内人を介して、当局に早急に身柄を保護するよう連絡していただけませんか?このままここに倒れていても衰弱するばかりです」
「早急に…?そうか、それならこれで彼女を呼ばう」
男はズボンのポケットからターシャの髪留めを取り出して振ろうとした。するとターレスは
「おそらく、既にこの海域はそうしたアイテムの通信圏外に入っていると思われます」
と言った。
「何?そんな話は聞いてないぞ?」
男は怪訝そうに、髪留めを見つめながらターシャがそれを彼に手渡した時のことを思い出そうとした。
(「小さな音だけれど、通信圏内ならどこからでも私に伝わるから安心よ」)
確か彼女はそんな言い方をしていたはずだ。下船時にターシャと連絡が取れなかったのは、自分が船外にいるせいだと思い込んでいたが、実際は、既にこの海域全体が通信圏外ということなのだと、男はその時初めて気がつた。
「ここより先の海域は、時間の流れがあちらの世界での早さに変わるのです。全ての機構がそれに影響を受けるのです」
ターレスは、まるで彼自身が水先案内人であるかのような口調で、男にそう説明した。
「それなら、まずは部屋に戻ろう。そうすれは、彼女もどこからともなくいつものように現れるだろうから」
 男はターレスに気軽にそう声を掛けたが、ターレスは無言のままだった。
ターレス、どうかしたか…?」
 ターレスは、怪訝そうな表情で藍子の映像を見詰めてこう言った。
「この少女、相変わらず苦しそうにうなされているのは何故でしょう?」
「それは、何か悪い夢でも見ているからだろう」
「それにしては、苦しみ方が尋常ではない気がしませんか?既に、悪霊達の干渉は取れているはずなのに…」
ターレスは、緊張した険し面持ちでそう言った。
「…そう言えば、さっきから何となく気になっていたんだが…。この部屋の中、何かこう…嫌な感じがしないか?何となく、空気が、重いというか、…悪霊はもう、居ない…はず、だよな?」
「ええ…、その、はずですが…」
ターレスは、引きつった笑みを浮かべてそう答えた。その笑顔にいつになく無理があることで男も顔を引きつらせながら、努めて明るくこう言った。
「…そう言えば、あの、…ネズミ男、あいつはどうだった?ヤツがこの中のリーダーだった訳だから、浄化するのは相当大変だっただろう?」
「え…?私はてっきり、あの者はあなたが浄化されたのだろうとばかり思っていました…」
 二人は、同時に顔を見合わせた。
「ということは…」
「…どういうことだ?」
「こういうことだ」
 二人の後ろから、聞き慣れた低い声がした。それは、二人がその時一番聞きたくない声だった。
 途端に、濃い緑色のガスが背後から大量に湧き上がった。息が詰まるような悪臭が部屋中に充満し、男は激しい頭痛と吐き気に襲われた。それはまるで前世で画家をやっていた頃、深酒した翌日の激しい二日酔いの感覚にそっくりだった。
「な…、何だこのリアルな感覚は?僕達の肉体はまだ本来存在しないはずなのに!」
男は、込み上げる吐き気を抑えながら、苦しそうに叫んだ。
「こ…この海域では…、既に我々は…部分的に身体感覚を、取り戻しているのです…」
苦しそうに喘ぎながら、ターレスはそう答えた。二人とも、急いで出口に向かい、ターレスがドアノブを掴んで激しく押したが、ドアはビクともしなかった。
「何てこった…」
 やがて二人は、息苦しさに立っていられなくなりその場に倒れ込んだ。二人の前に、暗闇の中ですっかり活力を取り戻したネズミ男が得意げに仁王立ちになって言った。
「浄化されたフリをして、苦しいのをじっと我慢するのは、なかなか骨が折れたぞ。だが、今度こそ、お前達の息の根を止めてやる。可哀想に、折角もう少しのところで無事に転生できたのに。余計なお節介が命取りになるということだ。今度転生する時の為に、そう肝に銘じておくがいい。ま、もっとも、この部屋に入ったが最後、まともな転生のサイクルに戻ることなど望むべくもないことだがな」
いやらしい薄笑うを浮かべながら、ネズミ男はそう言った。
「我々のことをそんな風に憐れむなら、お前は何故転生を拒み続けるんだ。お前も、本当は転生したいのではないのか」
ターレスが、渾身の力を振り絞って諭すようにネズミ男に言った。
「ハン、転生?今更笑わせるな。強いものが弱いものを支配する、あんな腐ったあの世に戻るなんざ、まっぴらだ。それに、これだけ長くここに居れば、今更誰も俺を待ってる人間なんかいやしねえ」
ネズミ男は、ちゃんちゃら可笑しいと言わんばかりにそう答えた。
「おシノは、どうなんだ?」
男のその言葉に、ネズミ男は一瞬ビクッとした。
「お、お前…、何故その名前を…」
「悪いが、あんたの前世は全部調べさせてもらったぞ。彼女だって、どれだけ無念な思いで死んでいったか分からない。それも、全てはあんたを思うがゆえの行動からだろう。彼女の思いをあんたはどう受け止めているんだ?第一、今のその姿を、彼女が喜ぶとでも思うのか?」
男の口から、思いがけない強い言葉が出てきた。彼は尚も言葉を続けた。
「あんたは逃げているんだ。生まれることから、そして、生きることから」
「お前に、何が分かるというのだ。わしの何が…」
怒りに顔を歪めながらネズミ男は、より一層濃い毒気を口元から吐き出した。
「お前になど、分かるものか!」
ネズミ男はそう叫んだ。
「僕には分かるんだ。己の運命を儚み、転生を拒み続けてきた僕にはな。だが、今は違う。僕は転生を受け入れた。今まで時代や周りの人間のせいにして逃げていた自分の本来の姿と、もう一度向き合ってみることに決めたんだ。だから、ここでこのまま悪霊の仲間になるわけにはいかない。僕を待っている人がいるんだ。もともと望まない転生ではあったが、そこに生まれることもまた、受け入れるべき僕の運命なんだ」
「お前の説教など、聞きたくはないわ!」
ネズミ男は尚も感情的に叫んだ。
「おシノはずっとあんたに会えずにいるんだぞ!」
男も叫び返した。
「あの娘は、もうとうにどこかの誰かと幸せになっているわ。わしのことなど、とうに忘れて…」
「それは、あんたの勝手な思い込みだろう?彼女の本当の気持ちにあんたはどれだけ気づいてたんだ?」
「うるさい!黙れ!黙れ!」
ネズミ男は更に逆上した。
「それ以上何も言えないように、とどめを刺してやる!」
ネズミ男は再度、濃厚な毒気を男に吹きかけた。呼吸困難に陥って男は意識が朦朧とした。隣に倒れているターレスは既に意識を失っているようだった。
「ミイラ取りがミイラになるというのは、こういうことを言うのだな…」
 徐々に霞んでゆく男の視界に、悪夢にうなされながらくまのミッシェルをきつく抱きしめている藍子の映像が映っていた。起毛素材のミシェルの体は所々糸がほつれて耳の端から中の綿が少しはみ出し、キラキラ光る瞳は黒いボタンで出来ていた。このぬいぐるみはおそらく藍子が赤ん坊の頃から、ずっと傍で彼女の成長を見守って来たのだろう、と男は薄れゆく意識の中で、そんなことを考えた。自分が赤ん坊だった頃、そこにもぬいぐるみはあっただろうか?頭上で回るオルゴールから流れる子守唄。そして…。
 いつか、眠れない夜にターシャが歌ってくれた子守唄。あれは、以前子どもに先立たれた乗客から教わったと彼女は言っていたっけ…。
 彼はいつしか幻視を見ていた。大きな屋敷の中の小さな揺り篭。窓辺のレースのカーテンを揺らす初夏の風。
 するとその時、突然男の記憶の扉が開いた。自分に注がれる優しい眼差し、そしてそこに流れる懐かしいメロディーとローズの柔らかな歌声が、男の脳裏に鮮明に蘇った。ターシャの歌っていたその歌は、ローズが自分に歌ってくれた歌だったのだ。彼女の子どもになることをあんなに拒んでいた、それは遠い昔のことのように今の彼には思えた。
「ああ、…母さん」
 このままここで意識を失ったら、おそらく二度と彼女の子どもになることはできないだろう。赤ん坊の誕生を嬉々として待ち望むケイコの顔が、男には思い出された。
「すまない…」
 その時、男は藍子の映像に小さな変化を感じ、薄れゆく意識の中で必死に目を凝らした。何かが一瞬キラッと光った気がしたのだ。それは、映像の中の、ボタンで出来たミッシェルの目玉だった。ぬいぐるみのミッシェルがキョロキョロと目玉を動かしているのに男が気づいた時、ミッシェルは男に向かって、小さくウインクした。
 次の瞬間、ミッシェルの目玉から、暖かな光の洪水が圧倒的な強さで放たれた。
「ヒエー!!!」
おぞましい悲鳴を上げてネズミ男はその場に倒れてのたうちまわった。
「なんだ?これはー!」
ネズミ男は叫んだ。
「これは、あの少女を守る為にくまのぬいぐるみが放った愛の光だ。あんたも昔、そんなも物をおシノに持たせたじゃないか」

 男は仰向けに倒れたまま、隣でうつ伏せになったまま苦しんでいるネズミ男に語りかけた。

「愛という言葉の意味を知らぬままに、僕は前世の命を終えた。だが、僕の知らないところで、自分は多くの愛によって生かされていたと、この船に乗って色々な出会いを経験する中で、ようやく僕は知っていったんだ」

「それが、どうした。お前ののろけ話を今更わしに聞かせて、どうしようと言うのだ!」

 ネズミ男は、肩で苦しそうに息をしながら吐き捨てるようにそう言った。

「泣きながら出征を止めようとしたあんたの母親や、自分の感情を殺して大殿の元に嫁いだおシノの気持を、あんたはどれだけ分かっていたんだ」

 ネズミ男は、ビクッと体を震わせた。

「自分の気持に精一杯で、相手の思いに気づかずに…いや、ひょっとすると気づかないふりをして、あんたは前回の一生を駆け抜けたのだろう。僕がそうだったように」

 ネズミ男は、何も言わなかった。

「…無念だとは、思わないか?」

「誰がだ!」

「あんたを愛した者達が、だ」

「!」

「自分を犠牲にしてでも愛する者を守ろうとしたのは、実はおシノの方だろう。それを、自分を守りきれなきっかった事をいつまでも気に病んで、とうとう悪霊にまで成り果てたとあっては、おシノは浮かばれないのではないか?」

「…おシノが…。わしを?」

「そうだ」

「あんな、チビでみみっちい百姓の倅を…」

「そんな事は、関係ない」

 またしても、ネズミ男は黙り込んだ。

「この、鈍感な僕にでも分かったんだ。あんただって、薄々気づいていたのだろう?ただ、怖かったんだ。あの美しい娘を守りきる自信が、あんたにはなかったんだ」

「わ、わしが、…おシノを追い込んだのか?」

「結果は、そうだったのかもしれない。しかし、あの時は、それしかなかったのだろう」

「…わしが、…おシノを…」

ネズミ男は、空を掴むようにして、体を震わせた。

 

「待っているかもしれないぞ」

 しばらくの沈黙の後に、男は同じ姿勢のままでそう言った。

「おシノはあんたを、何世紀もの間待っているかもしれないぞ」

「そんな事、あるわけが…」

「ないとは、言いきれないだろう?現に、僕にはいたんだ。随分待たせた相手が」

 うつ伏せのまま、ネズミ男は男の方に顔を向けた。

「いや、実際は待っていないかもしれない。けれども、それを見届けてみたいとは思わないか?彼女のその後があんたは気にはならないのか?」

「そ、そりゃぁ…、気にならない訳では…」

「だったら、行こう。…怖いのは分かる。僕だって怖いんだ。けれども、これは、責任なんだ」

「責…任?」

「この船に乗った時点で、僕達は既に生を与えられたことになる」

 男はゆっくりと語りかけるように言葉を続けた。

「この船の中で、初めて気づいたことなんたが…。与えられた生を全うするということは…」

「…」

「一度でも、愛を知った者の、責任、なんだよ」

 部屋の中の毒気は一気に消え、隣のターレスは、いつしか意識を取り戻し、黙って二人のやり取りを見守っていた。

 もはや無抵抗なネズミ男は、目を閉じたまま、うつ伏せになってその場に倒れ込んでいた。ターレスは、擦り切れて既に衣服の体をなさない、ネズミ男上着の肩を掴んで顔を横に向け、そのミイラのような額に、改めて彼の光を注入した球体を押し当てた。

「ウグググッ!!」

 宙を掴むように苦しみに喘ぐネズミ男の前に、男はひざまずくと

「頑張れ!もう少しだ!」

と言って、その、大トカゲほどに爪の伸びた、枯れ木のような右手を両手で掴んだ。

 ネズミ男は、一瞬驚いてハッとしたように目を見開いた。

「グワァァァ!」

最後の断末魔と共に、ネズミ男は男の両手を強く掴み返した。すると、男の皮膚に食い込みかけた長い爪は、短く艶やかな桜色の爪に変わり、ボロ布の下からは、若き日のチョウキチの顔が現れた。

 

 男は、先程取り戻した記憶の中に、再び浸っていたいと思った。ローズの歌う懐かしい子守唄に吸い込まれるように、男はその場で意識を失った。

 

 男が目覚めると、そこは既に見慣れた彼の部屋だった。
「お疲れ様。今回のあなたの働きには当局も感心しているわよ」
窓辺に溢れんばかりの沢山のバラの入った花瓶を飾りながらターシャがそう言った。部屋の中には新鮮なバラの芳香が満ちており、その香りの帯を辿るように小鼻を動かしながら
「あの部屋の住人は、どうなったんだ?」
と男はターシャに尋ねた。
「彼らはこの度のジーナと同じように、しばらく教育を受け直した後、あなた方より少し遅れて転生することになったわ。転生に対する不安の強い者たちばかりなので、転生先でもそれなりの指導係を付けてケアしていくということだわ」
「へー、そうなのか。指導係なんていうのが付くのなら、僕にも付けて欲しいものだ。僕だって、まだまだ不安の塊なんだから…」
上体をベッドから起こして、大きく伸びをしながらそう呟く男に
「あら、その指導係というのは、あなた方のことよ」
と、ターシャは事も無げに言った。
「へ…?」
「あの者達の唯一の拠り所は今のところあなたとターレスの二人だけなんだから、そんなの当然でしょう?それに、あれだけの残留者を一度に更生させたあなたが、今更不安だなんておかしいわ。あの者達を導いたのは、あなたの中の生に対する肯定的な感情なのだから」
「…」
男は黙ってうつむいたまま真っ白なシーツのシワを見詰めた。確かに、悪霊にとどめを刺されて遠のいていく意識の中で彼が見た幻影は、彼の過去に対する肯定であり未来への希望そのものだった。初夏の風と優しい歌声が、彼の脳裏に再び蘇った。
「なあ、ターシャ」
不意にそう呼びかける男を、ターシャは小首をかしげながら振り返った。
「確かに、生まれることは、そんなに悪いものではないのかもしれないな」
 男のその言葉を聞いて、彼女は一瞬ハッとしたように男を見詰めた。そして、男が見慣れたモナリザのそれではなく、香り高いバラの花びらがゆっくりとほころぶように、その時ターシャは彼に向かって微笑んだ。彼女の笑顔がいつになく鮮やかで、眩しい物を見たように、男は一瞬目を細め、その後慌てて再びシーツのシワに目を落とした。
 そのまましばらく男は無言のままうつむいて、何か考え事をしているようだったが
「なあ、ターシャ」
と、彼は再び彼女に呼びかけた。
「なあに?ルーカス」
キョトンとした表情で再び振り返る彼女に男は言った。
「今更こんなことを頼むのは遅すぎるのかも知れないが…」
しばらくためらった後、彼は言葉を続けた。
「僕の絵のモデルになてくれないか?」
 ターシャは、フェルメールの絵の中の真珠の耳飾りの少女のような表情で男を振り返ったまま、そこに立ち尽くしていた。