第6章 曾祖父

第6章 曽祖父

 

 壁紙の、デフォルメされた優美な曲線の花模様の連続体をぼんやりと眺めながら、それからいったい何日その部屋で過ごしたのか、男には皆目見当がつかなかった。というのも、この船に乗って以来、彼の中で、はっきりとした時間の感覚が日に日に薄れていっているのだった。

「そもそも、何で独身の僕に曾孫が?」

悪霊の攻撃によるダメージから少し回復した彼のこの質問に、金髪の青年は口元に意味深な笑みを浮かべて

「全く身に覚えが無い、という訳でもないでしょう?」

と、優しく問い返した。

「そりゃあ…、そうだが…」

そう言いながらなおも首をかしげている男に、金髪の青年は、すっきりと整えられた短めの髪の毛をかきあげながら

「私と同じ髪の色の女性はいませんでしたか?」

と尋ねた。

 そう言われて、男はベッドの上に上体を起こして腕組みをしながらしばらく考えてみた。自分の前世の42年の間に関わった人間の中に、果たしてそんな女がいただろうか?

「この人を、覚えていませんか?」 

そう言って、金髪の青年は男の目の前に小さなポートレートを差し出した。そこに写し出されていたのは、頬にあどけなさの残る、長い髪の女だった。

「この女…。これは、確か…」

「…カ…、…カレン?!」

一瞬の沈黙の後、男はその名を叫んだ。

 金髪の青年は嬉しそうに目を細めて

「あなたに思い出してもらえて、曾祖母もさぞかし喜んでいるでしょう。もっとも、彼女の魂はその後何度も転生を繰り返して、今は全く別の人間として生きてはいますが…」

と言った。

「だが、ちょっと待ってくれ。この娘のことは確かに知っている。確か、僕が死ぬ前に雇っていた最後のモデルだ。そう、確か…カレン・ハドソン。二十歳くらいの無口な女で、取り立てて美人というわけではなかったが、肌が白くて指の形がきれいな、長時間きついポーズにも耐えられる良いモデルだった。彼女は僕の元で二年近くモデルを務めた。でも、ある時突然僕の前から姿を消した」

「それは、あなたの子ども、つまり私の祖父を身ごもったからです」

青年のその言葉に男はギョッとした。

「あっ、…え?そんな…。こっ、こう見えても僕は生来真面目な質で…、仕事とプライベートは基本的に別にしていたんだ…。誓ってもいい!モデルに手を出したことは、生涯一度も…」

「それは、あくまでしらふの時に、ですよね?申し訳ないのですが、資料庫であなたの前世について少し調べさせてもらいました。近親者や深いつながりのあった人間には閲覧が許されているものですから。あなたは酔った勢いで、カレン・ハドソンと一度だけ関係を持ったことがある。1880年3月に祖父の魂があちらの世界に召還されていますから、逆算するとお二人が関係したのは1879年の年末頃ということになりますね」

 1879年、その年は男にとっては忘れ難い年だった。その年のサロンの展覧会に彼の出品した入魂の大作が落選した。落選自体はそれまでも何度も経験してきたことなので、大したショックは受けなかった。問題は、その後、その絵がどこかの金持ちに高額で買い取られたということだった。彼ははじめ、そのことに大層喜んでいた。しかし、後で調べてみるとその絵は、展覧会をきっかけに彼の消息を付きとめた義母、ローズ・ハミルトンが買い取っていたということが分かったのだった。それを知ったとき、彼は一瞬当惑し、次の瞬間激しい怒りを覚えた。アトリエでモデルのカレンに向かって「あいつに僕の絵の何が分かるというんだ!」と大声でグダをまきながら、いつもよりきつい酒をあおってしたたか酔っ払った後の自分の行動を、おぼろげな記憶の中から辿っていくと…。

 男はあまりのバツの悪さにうつむいたまま、ベッドの上に仰向けに倒れこんだ。

「『お前の曾おじいさんは困ったことが起こると死んだふりをする癖があったんだよ』と曾祖母がよく笑いながら言っていましたが、大丈夫、心配しないで。あなたとの関係は、彼女が望んだことでもあったのですから」

「彼女が望んだこと?それはいったいどういうことだ?」

再び勢いよく上体を起こしながら、男は半分やけになったように、責めるような目で青年をにらみながら言った。

「どういうことだ?って、その通りのことですよ。曾祖母、カレン・ハドソンは、あなたとの間に、単なる画家と職業モデルとしての関係を超えたものを望んでいた、ということです」

「二十歳そこらの小娘が、四十のおやじに、いったい何を求めていたって言うんだ?」

 青年は、少し呆れたように、それでもなお口元に笑みを浮かべながら

「あなたも鈍いお方ですね、私にそこまで言わせるなんて。カレンがあなたに求めていたもの、それは“愛”ですよ」

「愛?」

男は奇妙に裏返った、間の抜けた声で青年の言葉を繰り返した。

「それは何かの間違い、いや、あんたの勘違いだ。前回の僕の人生に、愛なんて言葉は存在しなかった。私生児として生まれ、生まれてすぐ母親と死に別れ、その後、鬼のような継母に操り人形のように育てられ、画家になってからの業績はあんたも知っての通り、そのうちアル中になって川に落ちて溺れ死んだ。…それが僕の前回の、何ともお粗末な一生だ。その中に“愛”なんてものがあるわけが…。少なくとも僕は、愛ってものがどんなものか、全く知りはしないんだ」

やや興奮気味に早口にまくし立てる男をいさめるように、穏やかな口調で青年は

「それなら、この航海中に、しっかり調べてみることですね。我々が初めて出会ったあの図書室に、全ての資料がありますから。資料庫や視聴覚ブースで、あなたの人生を隈無く調べてみると良いですよ。確かにあなたは、前回の一生の中で、愛というものを確信したことはなかったかもしれない。けれども、そのことがあなたの人生に全く愛がなかったということを立証する証拠にはならない、そうは思いませんか?第一、私が今まで一度も会ったことのなかったあなたに初めからこんなにも親近感を抱いているのは、ひとえに曾祖母のあなたに対する愛があればこそ、なのです」

 そう言って、彼は昔を懐かしむように柔らかな笑みを浮かべ、更に話を続けた。

「私が幼い頃、年老いた曾祖母は私を膝の上に乗せて昔話を沢山聞かせてくれましたが、その中にはあなたのことがたびたび出てきました。彼女の記憶の中で、あなたは優しく善良な人間であり、才能はあるが世間に正当に評価されることのない、不遇な画家でした。曾祖母はあなたのことを『時代に飲み込まれた画家』と言っていました。また、『生まれてくるのが遅かった』とも。あなたが前回生きた時代は、折しも印象派の台頭と時を同じくしていましたからね」

 そんな解釈もあったかと、ハッとした表情の男に、青年は更に話し続けた。

「世の中が芸術に新しい価値を求め始めた時代に、あなたは敢えて古典的な技法を貫いた、それも神話や物語の中に主題を求めて、聖母や女神のような女性像ばかりを描き続けていた。それでも、その時代に生き残って後世に名を残した写実主義の画家もいたのですが、そうなるにはあなたはあまりにも、世間に自分を売り込むことが下手だった」

 青年の言葉を確かめるように、うなずきながら話を聞いていた男は、ベッドサイドの花瓶に目をやりながら

「そう言われれば、確かにそうかもしれない。でも、今となってはそんなことはどうでもいいことだ。それより、カレンは何で子どもが出来たことを僕に知らせず、黙って僕の前から姿を消したんだ?」

と、さっきから気になっていた疑問を投げかけた。

「それは、あなたの暮らしを見ていれば、とても言えるような状況ではなかったのでしょう。何せ、あなたは絵の具代にも事欠くような生活をしていたのですから」

「そうか…」

 妙に納得して、男は再びうつむいてぼんやりと物思いにふけった。カレン・ハドソン。貧しい農村から出てきた若い娘で、モデルとカフェのウエイトレスの仕事を掛け持ちして、弟や妹のために田舎に仕送りをしていたっけ。ろくにモデル料が支払えない自分に、「御代はこれで」と床に描き散らしていた習作のデッサンを所望した、小柄で気の良いカレン。あんな初心な娘が、自分のためにとんでもない苦労を背負い込むはめになったのか。あの娘もまた、自分と同じ、父親のない子を産んだのか。

「それはそうと、あなたはあんな危険な場所に、なぜ入って行ったのですか?」

男が再び死んだふりをしそうな気配を察して、青年は、あえて別の話題を持ち出した。

「あなたが入ったのは、悪霊のたむろする呪いの部屋だったのですよ。あなたの居場所を私に教えてくれたジーナという女性も、あの部屋に入るのだけはやめるように、と注意したそうではないですか。」

「ああやって止められると、なぜか興味が湧いてしまうんだ、昔から」

男は、うつむいたまま首の後ろを掻きながらそう言った。

青年は呆れたようにため息をつきながら

「確かに、あなたはいつもそうですね」

と肩をすくめて見せた。

「あの界隈の住人は、下船を拒否し、当局の管理を巧く潜り抜けて長くあの場所に居座り続け、何の関係もない善良な人間をああやって不幸に陥れているのです。隣の賭博部屋も、まあ似たようなものではありますが、奥の呪いの部屋は更に悪質です。あの者達は長くあの場所に居すぎて、自分の人生の本来の目的をすっかり忘れてしまっているのです。本当は、生まれ変わりによって新たな生を受け、そこで果たすべき本来の課題に取り組むべきところを、誤ってあんな場所に長居している間に、すっかり本性からかけ離れた魔物に成り変わってしまった。彼らもまた、哀れな者達です。しかし、あの場の持つ呪いの力はなかなか強力でした。打ち破るのにかなり骨が折れました」

青年は、呪いの部屋の魔性の威力を思い出し、微かに眉をひそめた。

「あいつらは、あの部屋でいったい何をしていたんだ?」

男は、いつもの好奇心に駆り立てられて、青年に呪いの部屋での出来事を話し、説明を求めた。男の話を聞きながら、青年は顔を曇らせた。

「そういった無知な子ども達が、どれ程危険な目に遭っているか、考えるとぞっとします。あの者達は、全く無関係なあちらの人間にいわれのない呪いをかけては、自分達の無念を晴らそうとしているのです」

「無念?」

「そうです。あの者達にも生を受けた時期があった、その頃に負った無念を、無関係な人間を呪うことで晴らそうとしているのです。何せ、彼らの無念は何世紀にもわたって続いている。彼らを傷つけた人間たちは、とうに死んで、新たな転生を繰り返していますからね。その子孫を呪う場合もありますが、その相手もやがては死ぬ。ですから、その恨みの感情は呪いの対象を失って、ああして薄暗い所に固まっては、好奇心から近づいてくる生きた魂を陥れては、面白がっているのです」

「そんなことをして、本当に無念が晴らせるのか?」

「全くその逆です。生前の恨みを晴らそうとすればするほど、死後の業を更に深めるばかり、…つまりペナルティーが加算されて、尚一層苦しい状況に堕ちていくだけなのです。まるで、喉の渇きを癒そうとして海水を飲んでいるようなものです」

「……」

 青年の言葉を受けて、男は黙り込んでしまった。なぜ自分があの部屋に吸い寄せられるように近づいてしまったのか、分かるような気がした。彼の脳裏を、ローズ・ハミルトンの面影がほんの一瞬よぎった。

「ところで」

忌まわしい残像を振り払うかのように、男は話題を変えた。

「あの藍子とかいう女の子は、あの後どうなったんだろう?」

 青年は男の言葉に笑顔を取り戻して

「気になりますか?」

と、嬉しそうに彼に聞いた。

「気になるというか。…まあ、単なるいつもの好奇心だが…」

「少しお待ち下さい。調べてみますから」

そう言うと、青年はサイドテーブルの引き出しから蒔絵で緻密な装飾の施された手のひら大の長方形の鏡のようなものを取り出し、それを右手に持って慣れた手つきで操作した。すると、男の目の前の壁にかかっていた横長の大きな鏡に、家族三人の朝食の風景が浮かびあがった。

 

「ほんとに藍子ったら、何であんな寝方するのよ?」

呆れた顔で藍子の母親はコーヒーの入ったマグカップを口元に運びながら言った。

「だって…、ピエロのオルゴールがいきなり鳴り出して、怖いから一階に下りようとしたら…」

スクランブルエッグをフォークでむやみにつつきながら、藍子は小さな声で答えた。

「寝ぼけて階段の下でぬいぐるみ抱えたまま寝ちゃった、ってわけ?」

母親は、隣の若い男の方を見ながら

「ねえ、パパ、この子どう思う?4年生にもなって、まだぬいぐるみが離せないなんて。それに、なんか昨日の夜も『壁に顔が見える』とかどうとか…。この子が階段の下で倒れてるの見て、あたし一瞬何が起こったのか分からなくて、ものすごくびっくりしたのよ。でもよく見たら、この子ったら、幸せそうな顔して、よだれ垂らしながら寝てるの」

 隣の若い男は

「いいじゃないか、ぬいぐるみぐらい、幾つまで持ってても。それより、藍子、風邪ひかなかった?」

と、優しそうに藍子に尋ねた。

「…」

「藍子、何黙ってんのよ?」

「ごちそうさま」

「あら、全然食べてないじゃない。ちょっと、…藍子!」

 母親の声を背中で聞き流しながら、藍子は洗面台の鏡に向かって髪をとかし、黙々と登校の準備をはじめた。

 昨日のあの出来事は一体何だったのか、彼女にもうまく理解できていない様子だった。

 ただ一つだけ分かるのは…。藍子は、階段を駆け上がり、自分の部屋のベッドの上の熊のぬいぐるみを抱きしめた。

「ミッシェルが、あたしのこと助けてくれたんだよね。昨日は、一瞬だけどミッシェルのことが怖く見えて…。放り投げたりして、ごめんね」

ミッシェルの黒いボタンで出来た目玉が、窓から注がれる朝日にキラキラ輝いていた。

 藍子は、そのまま学校向かい教室の自分の席に座っていつも通り授業を受けた。そこには、誰が見ても普通の、いつも通りの藍子の姿があった。しかし、藍子の表情はどこか暗く、「オ・ト・ク・ラ・ア・イ・コ・ア・シ・タ・シ・ヌ」というテロップは繰り返し流れ続け、やがて漢字変換されて彼女の回りを立体的に回り始めた。

 

「藍ちゃん、やっぱり元気ない」

休み時間になると、おかっぱ頭の少女が心配そうに藍子の顔を覗き込んでそう言った。

「そんなことないよ。ぜーんぜん元気だよ!」

藍子は、大げさなくらい、とびきりの笑顔を作って見せた。

 

 昼休み、藍子は昨日のオカルトゲームの首謀格の少年に、裏庭の掃除道具置き場の前に呼び出された。

「何よ?ケイ君、話って」

先に行って待っていた少年は、心持ち緊張したように顔をこわばらせながら

「乙倉、おまえさぁ、今日、何か無理してねぇ?」

と藍子に聞いた。

「ううん、ベーつに」

藍子は、そう答えて、唇をアヒルのように尖らせた。

「いいや、おまえのその顔は、無理してる顔だ。俺、幼稚園からおまえのこと知ってるから、そういうの分かるんだよな」

「何よ、それ。偉そうに」

「昨日の十円玉のこと、あれ、気にすんなよ。あれ、ぜんぜん当たってねぇから。あれ、ぜんぜん、嘘ばっかだから」

「でも…、うちの晩御飯、昨日、肉じゃがだった…」

「…そんなの、偶然だよ。気にすることねーって」

「でも、分かんないじゃん!他の事は、未来のこととか、そんなの、なってみなきゃ…ホントかどうか!…分かんないじゃん!」

 藍子は、思わず興奮して、大きな声で言った。だんだん怖さがつのってきて、半分泣きそうな声になっていた。

「分かるよ。えーっと、一組の冲田先生と保健室の久藤先生が付き合ってるって、あれ、嘘だよ。俺、見たんだ、沖田先生が別の女と街歩いてんの」

「どっちも沖田先生の彼女かも…」

「……」

少年は、しばらく黙り込んで考えていたが、やがて怒ったように顔を赤くして

「とにかく、違うんだよ!昨日のあれは!」

と、大きな声で叫んだ。

「何で、分かるのよ?」

「分かるよ、…俺には!」

「何でよ?!」

藍子もだんだんムキになって、二人で喧嘩しているように大声で怒鳴りあった。

「だって…佐藤玲華じゃねぇもん、あれ…」

「何よ?」

「…あれ、…おまえだからな!」

そう言い放つと、藍子の次の言葉を待たずに、少年はどこかに走り去ってしまった。

(「ケイ君の好きな人は誰ですか?」)

「昨日自分が言った他愛ない質問を、藍子はその時思い出した」という水色のテロップがゆっくりと流れ、裏庭の隅の、八重桜の花びらが風に舞った。

 

 そこまで映像を進めると、青年は男に

「この子には、私が結界を張っておきました。当分の間、邪悪なものは近づけません。それに、この調子だと、大丈夫そうではないですか」

と言って、鏡面状のリモコンのスイッチを切り、男の方を見て嬉しそうに笑った。

「結界って何だ?」

男は怪訝そうな表情で青年に尋ねた。

「結界、というのは目に見えないバリアのようなものです。この場合、悪霊達から彼女を守るバリアですね。ひょんなことから、当分私はこの藍子という少女を守るという役目を帯びてしまったようです」

「何だ、その役目というのは?」

「この船の中、いやわれわれのいるこの世界のルールのようなもので、魂の進化がある一定のレベル以上に達した者は、あちらの世界の住人を悪から守り導くという役割が与えられるのです」

「レベル?」

「そう、レベル、です。あなたももう既に幾らかお気づきかもしれませんが、この世界は様々な法則の上に成り立っていて、その法則の中に『類は友を呼ぶ』というものがあります。要するに習熟度別クラス編成のようなもので、私の属するクラスでは、そのようにあの世の住人を守護することが、更なる魂の進化のための課題なのです。そもそも、この船の構造自体そのように作られていまして…」

 青年の説明によると、この船は魂の進化の度合いに応じて、船室が何層にも分けられていて、同じ階に似通った状態の魂が収容されているのだという。

「ちなみに、あなたが悪霊に出会ったのは、この船の船底にある部屋です」

と青年は補足した。そう言えば、あの階段の踊場で、男は直感的にそのことを感じ取っていたのだった。

「正しい道を直感的に認識しつつも、体制への反抗心と刹那的な快楽主義に身を委ねてしまうようですね。あなたはいつも」

 そう言いながら男を見る青年の目は、それでも温かな慈愛に満ちていた。

「何だかよく分からないが…、結局、こっちの世界もあっちの世界と同じなんだな。上流社会と下流社会、上の者が全てを取り決めて、下の者には何も知らされちゃいない。金持ちが貧乏者を見下し、上の者が下の者を差別し偏見の目で見つめ隅っこに追いやる。あの世の汚さとそう違いはないじゃないか」

男は吐き捨てるようにそう言って、天井の豪華なシャンデリアを忌々しそうに見上げた。

「いいえ、それは違います。こちらの世界には金持ちも貧乏人も存在しません。それに、ルールを決めるのは我々ではない、ルールはもともと普遍的に存在しているのです。差別も偏見も存在しない。現に、あの世で大富豪だった人間がこの船の船底で哀れな低級霊と化していたり、あの世では貧しい一介の農夫だった人間がこの船の最上階で最も神々しい衣を身に纏っていたり、といったことは例を挙げればきりが無いほどです。要は魂の進化のレベル次第なのです」

そう言われて冷静に考えると、確かにそれもそうかと思う気持ちもあり、男は不承不承

「ふぅん、そんなものか…」

と納得せざるをえなかった。

「それじゃあ、…あんたは随分偉いんだな」

広い部屋の豪華な装飾を見回して、男は自分の与えられた粗末な船室を思い出しながら言った。

「いいえ、それ程でもないのですが…」

青年は自分は生前ある寺院で修行していたため、その間の鍛練が魂の成長にダイレクトに働きかけ続けていたのだ、と言った。

「あなたのように、芸術を通して美という普遍的価値を表現するということも、なかなかに尊い行為であると思います。ただ、あなたの場合、そこに一抹の不純な動機が混じっていたようで…」

「何だ、その不純な動機って」

 青年は、男をたしなめるように

「それは、ご自分でお調べになることです。私がいまここで答えを出しても、それはあなたの魂の成長にはつながらないのですから」

と、ゆったりとした口調で言った。

「ところで」

そう言って青年は振り返ると背後のキャビネットの上から一通の手紙を取り

「当局からあなたに招待状が届いていますよ」

と言って、金色の縁取りの付いた美しい封筒と、緻密な細工でひなげしのかたどられた銀製のペーパーナイフを男に手渡した。

「招待状?」

「この船の大ホールで毎晩行われる船上パーティーの招待状です。私も何度か出席したことがあります」

「船上パーティーなんて、そんな洒落たもの、僕は今まで一度も経験がない。それに、だいたいそんなお偉いさん達の集まりに、何で僕みたいな者が招待されるんだ?」

「それは、あなたの行いが、当局によって正当に評価された為です」

「僕の行い?」

「ええ、あなたが悪霊達からあの世の少女を助けたという行為が、当局に認められたのです」

「でも、助けたと言うより、あれは咄嗟に、自分でも自覚なく…」

「そういった咄嗟の行動こそ素晴らしいのです。曾祖母が私によく言っていました、『咄嗟の行動にこそ、その人が出る』と」

そう言って、青年は男に向かって満足そうに大きくうなずいて見せた。

「それともう一つ、あなたの呼び名ですが…」

青年は笑いをかみ殺しながら話を続けた。

「何か良い呼び名を考えて下さいませんか?いつまでも6497号では味気ないですし、幾らなんでも『ひいおじいさん』と言うのも…」

そう言うと、青年はたまらず吹き出した。

「それだけは止めてくれ」

男は呆れたように横目で青年を一瞥した。

「ちなみに私のこの船の中での呼び名は」

青年は、笑いを鎮めてから、おもむろに言った。

「私の尊敬する古代ギリシャの哲学者から名を拝借して、ターレスと申します」

ターレス」

男は、独り言のように反芻した。

「そうだな、それなら僕は…。そうだ、僕の尊敬する16世紀のドイツの画家、ルーカス・クラーナハにあやかって、“ルーカス”というのはどうだろう?」

「ルーカス、良い名前ですね」

そう青年に誉められると、自分が急に偉大な芸術家になったような気がして、男は少し気分が良くなった。

「パーティーの開始までまだしばらく時間がありますから、どうぞごゆっくり。着替えは私の物でよければこれをお使い下さい」

と言って、青年は後ろのクロゼットの扉を開け、中に掛けてあるタキシードを出して、側のコート掛けにそれを掛けなおしながらそう言った。

「それでは、私はしばらく席を外しますので」

そう言うと、青年はそそくさと部屋を出て行ってしまった。

「ちょっと待ってくれ、僕はまだ、行くかどうか決めてもいないのに」

男はブツブツ文句を言いながらも、ひなげしの優美なペーパーナイフを使って招待状の封筒を開けた。

 

それから数時間後、部屋のドアを二回ノックして、青年が戻ってきた。

「おや、よくお似合いではないですか。よかった、私とサイズが同じで」

と、青年はルーカスのタキシード姿を誉めた。そう言う彼も、すでにきちんと正装していた。

「パーティーにご一緒する方をお連れしました。やはり我々だけでは、どうも殺風景ですので」

彼がそう言い終わらないうちに、彼の後ろから衣擦れとともに現れたのは、薄いシャンパンゴールドのカクテルドレスに身を包んだターシャの姿だった。

「ターシャ!」

そう言ってぽかんと口を開けたまま立ち尽くす男に、ターシャは

「素敵よ、ルーカス」

と言ってにっこり微笑みかけた。

「き、君もだ」

男は半ば緊張した面持ちでそう言った。なぜこの二人が一緒に自分の前に姿を現したのか、また、ターシャのこの口調から彼女がどこまでことの顚末を把握しているのか、謎は深まるばかりだったが、それをどう尋ねたらいいのか分からず、彼は言葉に詰まってしまった。

「では参りましょう」

 青年はドアを開けたまま男を部屋の外に促し、廊下を出てすぐ隣の部屋のドアをノックした。すると、中から淡いミントグリーンのドレスを着た、すっきりとした顔立ちの東洋人の女性が現れ、にっこりと青年に微笑みかけた。

「ご紹介しましょう。こちらはシエナ、この船の中で出来た私の友人です。シエナ、こちらは私の元曽祖父であったルーカスさんと、彼の水先案内人のターシャさんだよ」

 シエナという名の女性は、男とターシャにも感じの良い笑顔で微笑みかけ、男はあたふたしながらも、それぞれに簡単な自己紹介を済ませ、四人はコバルトブルーのペルシャ絨毯の敷き詰められた長い廊下を歩いていった。

廊下の突き当たりの巨大な壁画の前で青年は立ち止まり、

「しばらくお待ちください」

と言って、壁にはめ込まれた翡翠色の三角形のボタンを押した。

「あなたがあちらの世界に生きた時代には、まだこのような設備はまだ無かったでしょう」

すると、ほどなく目の前の壁画が左右に開き、中に小さな小部屋が現れた。

「どうぞ」

青年に促されて、男は小部屋に入った。四人が中に入ると、扉は静かに閉まり、男は体の中心を心もち上に引っ張られるような微かな振動を感じた。やがて、音も無く扉は左右に開き、四人は明るい空間に降り立った。

「ようこそ。お待ちしておりました」

白い手袋をはめたドアマンが恭しくお辞儀をして、目の前にある、蜻蛉がデフォルメされたような曲線的な装飾の施されたアーチ型のドアをゆっくりと押し開けた。ターレスはシエナエスコートして

「お先に」

と部屋の中に入って行った。

 ここまで来てしまっては今更どうにもならず、男は襟元の乱れを直して大きく深呼吸した。そんな彼の左腕にターシャがさりげなく腕を絡ませる。

「どうぞお入り下さいませ」

恭しく頭を下げるドアマンの前を通り過ぎて部屋の中に一歩足を踏み入れた彼は、そこで大きく息を呑んだ。