第17章 誤算


第17章 誤算

 船室の丸い窓から柔らかな午後の光が射し込み、6497号室の壁の薄いグレーに少し温かみを持たせていた。そのグレーの部屋の壁際のキャビネットには、薄いピンクとクリーム色とレモンイエローと真紅のバラがたっぷりと活けられた翡翠色の花瓶が置かれ、その花々の前には白いシーツをゆったりと体に纏ったターシャが立っている。潔く顕になったなめらかな象牙色の左肩から伸びたしなやかな腕は胸の前で曲げられ、布のひだの隙間から半分のぞいた左の乳房をさりげなく隠していた。右肩の上で布を結ぼうとして細い首筋を伸ばして顔を右に向けたその口元は微かに開き、肩に掛かった琥珀色の髪の毛は光に透けて一部分だけ金色に輝いていた。
「君がこんなにも僕の理想のモデルそのものだとは、思ってもみなかった」
男は、10号のキャンバス越しにターシャを鋭い目で見つめたまま、そう言った。
「それは良かったわ」
実に素っ気なくターシャは答えた。
「疲れただろう?少し休憩しよう」
男がそう声をかけても、ターシャは
「別に、どうってことないわ。そもそも、疲れるという体感自体、私には無いのだし。どうせなら、もう少し続けたらどうなの?何せ、もうあまり時間がないのだから」
と言うので、そのまま男は絵筆を走らせ続けた。
 しばらく黙々と作業を続けていた男は、やがて
「フー」
と大きく息をついて、パレットと絵筆を傍の小さな木箱の上に置き
「ちょっと一息入れよう」
とターシャに声をかけて、近くに置いてある粗末な椅子に腰掛けた。そうして、しばらくムッツリと黙り込んでいたが、突然カッと目を見開いて、改めてじっと穴が開くほどターシャを凝視した。
「何で、今になってこんなに君を描きたい衝動に駆られるんだろう?」
男は対象を観察する目で、ターシャを凝視したままそう言った。
「さあ、何故かしら?あなたの内なる美的世界を投影するのに、私の容姿はきっと適しているのでしょうね」
ツルッとした喉元を前に突き出して大きく伸びをしながらターシャが答えた。その拍子に、右肩の上で軽く止められていた布はほどけ、バサリと音をたてて床に落ちた。
「あら」
そう言うと、ターシャはことも無げにその布を拾うと、軽くまとめてベッドの上に置いた。一糸纏わぬ姿で男の前に立った彼女の肢体はまるで少し華奢なギリシャ彫刻のようで、ある種の神々しさを放っていた。その姿に男は一瞬たじろいで、思わず壁際に一歩退いた。
「き、君…その格好は…」
 「何か問題でも?」と言わんばかりの表情で、ターシャは
「どうかしたの?私のおヘソ、これ、何の意味もないただの飾りみたいなものだけど…。何か変かしら?」
と、男の視線の動きを察知して、とぼけた質問を彼に投げかけた。
「僕が気になるのは、君のヘソではなくて…、ゴホッ!…エヘン…ェヘン!」
妙な咳払いをしながら男は慌てて視線を他に外した。
「その…恥ずかしく、ないのか?」
顔を赤らめて男は尋ねた。
「え?」
ターシャは目を丸くして首をかしげながら
「何が?」
と、男に尋ね返した。
 あまりにも天衣無縫なターシャを前に、一人恥ずかしがっている自分を、男は滑稽に感じた。考えてみると、人間の感受性を持ち合わせないこの「水先案内人」と名乗る女は、自分とは全く異質な存在なのだった。自分がこれまで感じてきた喜怒哀楽や物事への様々な執着心、愛憎の念、無論、恋愛感情や性欲、また羞恥心といったものとも無縁な存在なのだと、男は改めてターシャを見て、ため息をついた。
「寒くはない…だろうが、これでも着ておけよ。目のやり場に困るから」
そう言って、男は自分の着ていた6497の刺繍の入った灰色のシャツを脱いでターシャに手渡した。
「あら、そうなの?」
大きめの男物のシャツを無造作に羽織り、ターシャは椅子に腰掛けて膝の上に頬杖を付き、不思議そうに男を眺めた。
「君は良いな。そうやっていつも、我々人間の愚かな営みを気楽に眺めていれば良いのだから」
「いいえ、そうでもないわ。基本的に私が付くのは転生を嫌がるそれなりに手のかかる乗客なのだから、それはそれで色々大変なのよ」
「まあ、確かに」
男は改めて自らのことを回想しながら
「君には色々手間を取らせたな」
としみじみと呟いた。
「でもね」
ターシャは、少し柔らかな声で言葉を続けた。
「前にも一度話したことがあるけれど…、羨ましいなって、思うこともあるのよ。あなた方人間のその生々しい感情の動きを。殊に、恋。その、「狂おしいまでの渇望」とか「切なさに涙する」とか、そういうの、いくら小説で読んで知識としては理解できても、私達には実感としては分からないのですもの。もしも、許されるものなら、一度だけ、人間としてのそういう複雑な感情を経験してみたいとは思うわ」
ターシャは、以前それを話した時と同じように、うっとりした目で遠くを見ながらそう言った。
「君達水先案内人が、人間になることは出来ないのか?」
「出来ないかどうか、ということになると…。可能性は…皆無ではないわ」
ターシャは珍しく妙に歯切れの悪い言い方をした。
「どうやって?」
「それは…、当局に願い出て、審査に合格すれば…。全く無理という訳ではないけれど…」
「じゃあ、そんなに人間を体験してみたいのなら、君も志願すればいいじゃないか?」
「まあ、それはそうだけれど…」
志願して変更が許されるのは一度だけ、しかも案内人から人間になることは許可されるが、人間から別の属性に変わる場合には本人の希望は反映されないというのが大まかな決まりだとターシャは言った。
「一度体験してみたいとは思うけれど、その先ずと人間として過ごすことになるかもしれない、というのはちょっと…」
「要するに、降格ってことだよな、君が人間になるというのは」
男は皮肉っぽくそう言ったが
「そうそう。そう言えば分かり易いわね」
と、ターシャは素直に頷いた。
「私達の同業者で稀にそうしたルートを辿るケースは、水先案内人として不適切な言動及び思考に至った場合に限るわ」
ターシャはそう言った。
「不適切な言動及び思考?」
男は繰り返した。
「要するに『人間っぽい』ことになった場合、ということね。魂のランクダウンをしてまで転生のサイクルに入りたいという非合理な発想自体、『人間っぽい』ということでしょう?どういう言動や思考がそれに該当するのか私には分からないけれど、おそらく恋でもしない限り、そんなことは起こらないでしょう」
「でも、恋をする感性が備わっていないのに?」
「そうなのよ。だから、それはどだい無理な話。オスの鶏に卵を産ませようとするのと同じことだわ」
そう言ってターシャは笑った。その笑顔は、いつもより少しだけ寂しそうに男には見えたが
(この女には寂しいなんて感情はないんだよな)
と気がついて、男は逆にそう感じた自分を寂しく思った。
「ところで、今後の予定だけれど…」
ターシャは裸に男物のワイシャツを羽織っただけのラフな姿で、いつも通りの事務的な話を突然始めた。
「これから後6つ島を経由したら、いよいよ目的地に到着よ。それまでに、今度の転生における諸条件をある程度選べるというオプションが付いているんだけど、あなたはそれらの事象を自分で選ぶのが良い?それともおまかせコースというのもあるけれど…」
「何だ、そのチープな設定は…。どっちが良いのか僕には分からない。君が良いように選んでくれ。
そんなことより、今は少しでも、この絵を仕上げることに残された時間を使いたいんだ」
そんな男に、ターシャは呆れたように言った。
「あなたはつくづく珍しい人ね。普通は、そういう設定には、皆物凄くこだわるものなのに。容姿や能力といったある程度先天的なものから出会いたい相手やそのタイミング、そして遭遇すべき試練とその難易度等、皆、各々に用意された分厚いカタログとにらめっこしながら大いに悩み始めるのがこの時期よくある光景なのだけれど。…でも、本当はあなたのような人の方が良いわ。何事にも執着しなければ、その分ポイントが加算されるので、それだけ魂の成長に繋がるのだから。特に出会いたい相手などに執着すると、ポイントの消耗が激しいの。それだけ何かに強く執着するということだから、魂の成長という観点から見ると大きなマイナスですもの。それに、相手のあることは、自分一人の努力ではどうにもならないこともあるから…」
それを聞いた男はぼんやり考え込みながら
「では、僕が前世の養母の許に転生するのは、あちらからの希望があったから、ということなのか?」
と尋ねた。
「ええそれは、恐らく途方もなく強い要望があったのではないかしら。あなたはそれを避けるために何度も転生を見送っていた訳だから、その執着たるや…。彼女はあなたの母親になるために相当ポイントを無駄遣いしているんじゃないかしら」
「なぜ、彼女はそこまで僕の母親になるという条件にこだわったのだろう?」
ターシャはクスクス笑いながら
「あなたはその逆のことをしてきたのだから、彼女の気持ちはよく分かるでしょう?」
と言った。
「うーん。そうだな…」
バツが悪そうに頭を掻く男にターシャは
「つまり、彼女はあなたとの親子関係をもう一度やり直したかったのよ。彼女のように前世のやり直しのために沢山のポイントを費やすことは魂の成長という転生本来の目的にとってはあまり得策ではないのだけれど、それをしないことには先に進めない魂というのもあるから…」
「つまり、彼女にとっても僕にとっても、親子という間柄での関係修復ということが、今度の転生の目的、ということなんだな?」
「ええ、まあそれも大きいでしょうけど、それだけではないわ」
ターシャは珍しく強い口調で言った。
「それ以外の目的もあるのか?」
男は、不思議そうな顔をした。
「今頃何を言っているの?魂の根本の目的を果たすために、そもそもあなた方人間はそんなにも苦労して何度も転生を繰り返しているというのに」
呆れ果てた顔でターシャは男の目を覗き込んだ。
「まさか、忘れた訳ではないでしょうね?あなたの魂の本来の目的を」
「ほ、本来の目的…」
男はターシャの妙な気迫にたじろぎながら
「そ、そりゃあ…。うーん、そうだな…」
慌てて口ごもる男にターシャは
「まっ、そんなものでしょうね。せいぜい到着までに頑張って思い出すことね。でないと、また今度の転生でも無駄に時間を費やすだけで終わってしまうことになるかもしれないのだから」
と冷たく言い放った。

「魂の本来の目的…」
木製のパレットに インディゴブルーの絵の具を絞り出しながら、男はそう呟いた。漆黒の背景に浮かび上がる透明感のあるターシャの肌の、その柔らかな曲線を描く頬のラインを丁寧に描きながら男は考えた。自分は何のために生まれ、生き、死んで、更に転生を続けているのだろう?何度肉体を入れ替えても絶えることなく続いていくこの魂に、真の存在意義があるとすれば、自分の場合、それは一体何なのか?そんなことを考えながらも、男は注意深い筆致で画面のターシャに肌の色を塗り重ねていた。ペインティングオイルをたっぷり付けて筆跡を残さないよう舐めるようにして色を重ねるのが男の描き方だった。ターシャの作る魅惑的な曲線と潔い直線に立体的な存在感を生むために、影の部分には濃い青色を大胆に乗せ、その上に肌色を重ね、更に柔らかな光の反射部分にうっすらと白を塗り重ねることで、絵はそれ自身に徐々に命を吹きこんでいるかのようだった。
 絵画製作中、二人は一切会話をしなかった。男は初めには考え事をしていても、そのうち次第に何も考えなくなっていた。唯ひたすらに、彼はその目の前の美の対象物を自分のキャンバスに収めることだけに神経を集中していた。如何にこの活き活きとした存在感を、そしてこの深みのある透明感を、更にはこの謎めいた憂いを、どうやって画面上に捉え出すかということにだけ、今や彼の関心は向いていた。そこには生まれ出る苦悩も生きて行く上での不安も、そして更にいつか訪れる死の恐怖も、何も存在しなかった。描いているその瞬間、彼には、生も死も、もはや転生そのものもどうでも良いことだった。思い通りの色や形や質感に辿り着くたびに、彼はそこに至福の喜びを感じた。
 彼が描いている間中、ターシャは彫刻のように身じろぎもせずポーズを取っていた。不自然に体をひねるポーズであるにも関わらず、疲れを知らない彼女は、何時間でもそのままでいられた。男が指定した通りの微妙な表情を作りながらも、彼女にその複雑な感情の機微はないらしく、それはまるでマネキンのようであったが、そんな彼女をじっと凝視しながら描かれる、男のキャンバスの中のターシャには、何故か生々しい息遣いが伝わるほどに活き活きとしていた。
 セブンウィークス諸島に入って以来、外の明るさは以前に比べて極端に移り変わりが早くなっていた。つまり、昼と夜が規則正しく入れ替わり時間の概念がはっきりしてきたという印象だった。夜になると明るさが足りなくなるため、そこで男は制作を止めた。ターシャはあっさりとした挨拶を残して部屋を去り、薄らとした明かりの灯った一人きりの部屋の中で、男はずっと昼間自分の描いた彼女の絵姿を見つめ続けていた。
 その夜、男は夢を見た。
 そこは白い円柱の並ぶギリシャ神殿の様な建物で、大理石の冷たい床の上に真紅の絨毯が長く引かれていた。建物の中には沢山の部屋があり、どの部屋も扉は開け放たれ中の様子が一目で見て取れた。部屋の中の調度はどれも豪華で、贅沢な装飾品があちこちに置かれていた。果てしなく続く長い廊下をあてもなく男が歩いていくと、そこに一つだけ扉が半分閉じた状態の部屋が現れた。扉に近づいて男が部屋の中を覗き込むと、そこには金の猫脚の付いた小さな浴槽があり、大勢の女達が浴槽に湯を運び入れたり、何色もの薄い布を壁際にある衣桁に掛けたりしながら、入浴の準備をしているところだった。すると、そこに屋敷の女主と思われる人物が現れた。煌びやかな衣装を纏ったその女は、高く結った髪を解くと、侍女に手伝われながら色とりどりの衣装を一枚一枚ゆっくりと脱いでいった。紫色の衣を脱いで、次に藍色の衣を脱いで、その次に青色の衣を脱いで、更にその下の緑色の衣を脱いで…。虹色に重ねられた薄い衣を黄色、橙色、赤色と脱ぎ捨てると、いきなりその下に雪のように白い女の裸体が現れた。数人の侍女達に見守られながら、貴婦人はゆっくりと浴槽に躰を沈めた。温かそうな湯から立ち上る湯気に乗って仄かに漂う甘い花々の香りが男の鼻腔を心地好くくすぐった。貴婦人は長い髪を湯の中に放って、頭の先まで湯の中に身を沈め、しばらくすると勢いよく湯の中から顔を出した。その仕草は、まるで水遊びしている子どものようで、開放感に溢れた様子で、彼女はしばらく湯の中で一人戯れていた。男のいる扉の傍から部屋の中心まではかなり距離があるため、女の顔は男にははっきりとは見えなかったが、その貴婦人は、若く美しい女であることだけは確かだった。男は、その美しい女の肢体を、もっとよく見たいと思い、扉の陰から身を乗り出した。
 すると、その時、侍女の一人が「あっ」と声を上げた。皆、一斉に男の方を見た。貴婦人も、驚いた顔で男を見た。そのまま、一瞬の間を置いて、貴婦人は突然湯船から這い出すと、一糸纏わぬ姿のまま、男のいる方と反対側の扉から部屋の外に逃げ出した。侍女たちの悲鳴で部屋の中は騒然となったが、男は、そのまま反対側の窓から向こう側の廊下に出て貴婦人を追いかけた。赤い絨毯の上を、全裸の貴婦人の白い躰が風のような速さで走って行く。人間の女というよりも、まるで野生の駿馬のように、その姿は、どんどん男の視界から遠ざかって行った。
 赤い絨毯の引かれた長い廊下の突き当りには白い木の扉があった。ギシギシと音をたててその木の扉を開けると、目の前に瑞々しい緑の草原が広がっていた。霧が立ちのぼる緑の草原の遠くから地響きが聞こえる。見るとそこには野生の馬が群れをなして走って来るのが見えた。馬達の荒い息遣いを聞きながら男はその馬の群れを凝視すると、その中に一頭の白馬が見えた。男は何故かその白馬を追いかけてそれに追いつき、たてがみを掴んでその背にまたがった。すると、白馬は徐々に走る速度を上げ、群れの中から他の馬とは別の方角に走り出した。風の中を飛ぶように、男を乗せて白馬は走った。まるで緑の中を透明な風になったように、男はいつしか馬と自分の境目がないように、そして、自分の存在さえも風に溶けていくように感じた。
 すると、突然目の前の視界が途切れた。断崖絶壁の上から男を乗せた白馬は、真っ逆さまに落ちていった。そしてしばらく経って男が夢の中で目を開けると、そこは白い雪の上で、男の跨っていた白馬は、先程の貴婦人に変わっていた。
 全裸の貴婦人は、死んだように目を閉じたまま、雪の上に横たわっていたが、「ホゥ」と大きな息をして、ゆっくりと目を開けた。貴婦人は男を見詰めた。その女の顔は、ターシャだった。

 男は、次の瞬間、本当に目を覚ました。彼の心臓は激しく拍動していた。その瞬間、彼は気づいたのだった。自分は、もうじき別れる予定のターシャを、愛し始めていたということに。