第8章 実母

第8章 実母

 目覚めるとそこは、見覚えのある質素な船内の一室だった。あの後どうやってその部屋にたどり着いたのか、その記憶は男には全くなかったが、とにかく彼はその6497号室のベッドの中にいた。初めてその船に乗り込んだ日の様子と部屋の中はそう変わってはいなかった。しかし、心なしか清潔に整えられたその部屋のベッドサイドのテーブルの上には、小さなオレンジ色のランプが置かれ、その隣には薄いブルーのシャツがきれいに畳まれて置かれていた。
 男は体を起こして何気なくそのシャツを手に取ると、やはりそのシャツの胸ポケットには濃いブルーの糸で6497という数字が刺繍されていた。彼はガクンとうなだれて片手で髪の毛をモシャモシャとかきまわした後、シャツをベッドの足元に放り投げて、そのまま仰向けにベッドの上に倒れこんだ。
 昨晩は何か奇妙な夢を見ていたに違いない。彼は、昨夜のあの夢のような光景は本当の夢だったのだと納得しようとして、記憶の断片を拾い集めながら感慨にふけった。あの天国をそのまま具現したような舞踏会の様子。そして、前世で彼の曾孫だったというターレスと名乗る青年に出会ったこと。また、怪しい地下室の光景までもが、彼には全て夢の中での出来事のように思われた。
 するとその時、入り口のドアがノックされた。彼の「どうぞ」という声を待たずにするりと滑り込むように部屋に入ってきたのは、例によって黒皮のボディースーツに身を包んだターシャだった。
「昨日の夜はお疲れさま。この船の舞踏会はお気に召して?」
ターシャは意味ありげな笑いを口元に浮かべて、男にそう尋ねた。
「ああ、おかげさまでね」
男は、「やはり夢ではなかったのか…」という諦めのようなものを感じて、ため息混じりにそう答えた。
「あなた随分良い調子で飛べていたのに…、一瞬邪念がよぎったのね。でも気にすることではないわ。ああいうことは初心者にはよくあることですもの」
ターシャはこともなげにそう言って、先ほど男が投げ捨てたシャツを拾って男に手渡した。
「さあ、今日のあなたのご予定は?先日ご案内した所以外にも面白い部屋は何箇所かあるけれど、一度には場所を覚えられないでしょうし、時期が来ればまたおいおい紹介するわね。だから、しばらくはあのプールと図書室で時間を潰すといいわ。この部屋にじっとしていても退屈でしょうから」
ターシャは殺風景な部屋の中を見回してそう言った。
「プールも図書室も、僕にはあまり魅力的な場所ではないんだが…」
男は手渡されたシャツの刺繍部分を指先でいじりながら面倒くさそうにそう答えた。
「でも、だからと言ってむやみに下の階を散策しない方が安全だということは、少しは理解してもらえたかしら?」
ターシャはモナリザのような微笑をたたえながらも、無邪気にそう言った。
 彼女にそう言われると何も言い返せなくなって、男は不貞腐れた顔をして無言で着替えをはじめた。

 さっぱりと糊のきいたシャツの袖に腕を通しながら、男はターシャに
「昨日のあれは、いったい何だったんだ?」
と尋ねた。
 しかし、ターシャはその質問には答えずに
「この二人、いい人達だったでしょう?」
と言って、男の目の前に二枚の紙切れを差し出した。何気なくその紙切れを彼が受け取ると、そこには昨夜の舞踏会で彼を踊りの輪の中に引きずり込んだ老女と青年の顔写真と名前、そして死亡場所と死亡年月日が印刷されていた。
「彼らは2人とも、これから行く世界の20世紀を生きた人物で、人々の精神生活にかなりの影響を及ぼした、相当有名な人物だったそうよ。図書室の歴史図鑑に載っているから、関心があれば調べてみるといいわ」
「ふうん、そうか…」
男はさも興味なさそうに、その紙切れを無造作にズボンのポケットに押し込んだ。そしてターシャに
「ところで、君はこれからどうするつもりなんだ?」
と気だるい声で尋ねた。
「私?私はあなたのお望みのままに。一緒に船内の散策にお付き合いしてもいいし、この前みたいにベッドで添い寝をしたまま過ごしてもいいし、何なら本の朗読をして差し上げてもよくってよ」
「その選択肢の中には、僕を一人にさせてもらう、というのも入っているのかい?」
男は、いつかの夜のことを思い出して、妙にばつの悪い思いでそう言った。
「あら、それはもちろんですとも。そうね、あなた、昨日の舞踏会で相当お疲れだものね。それでは、私はこれで失礼するわね。…そうだ、もしどこか出かける時にはこの案内図を持っているといいわ。それから…」
そう言いながらターシャは長い琥珀色の髪から小さな髪留めを外して
「私に用がある時には、これで知らせてくれるといいわ」
と、銀色に光る楕円形の鈴飾りの付いた髪留めを小さくふって見せた。するとその髪留めはかすかに「シャラシャラ」とかわいらしい音を立てて鈴を揺らせた。
「小さな音だけれど、通信圏内ならどこからでも私に伝わるから安心よ」
そう言ってターシャは案内図と呼び鈴を男に手渡すと
「それではごきげんよう。良い船旅を」
と爽やかに言い残して部屋を出て行った。男は彼女の煙のような空気感にあっけにとられたまま、しばらくボーっとドアを見つめていたが、やがて視線を手元に移すと
「こういうのは最初から渡しとけよ」
と苦々しげに独り言を言った。
 着替えを済ませると、男はターシャから受け取った呼び鈴をポケットに仕舞い込み、代わりに先に突っ込んでいた紙切れを出して、そこに印刷された二人の顔を改めて凝視した。すると、男の脳裏に昨夜の老女の言葉が鮮明に蘇った。
(「この場所にふさわしくない人間など、本来一人もいないのよ」)
(あれはいったいどういう意味なんだろう?)
 昨夜の奇妙な舞踏会について、不思議に思う点は数限りなかったが、中でも老女のあの言葉は男にとって最も不可解なものだった。
 そしてまた、男の脳裏に昨夜の青年の言葉も蘇ってきた。
(「全ての人達がこうして手を取り合える争いのない平和な世界を、僕はずっと夢見てきたんだ」)
(彼らはいったい何者なんだろう?)
男はしばらくその紙切れをじっと見つめながらベッドに腰掛けて胸ポケットの刺繍を指先でもてあそんでいたが、やがて立ち上がると、船内案内図を片手にドアの外に出た。彼の体は常に、良きにつけ悪しきにつけ彼の好奇心に対して忠実だった。

 古い紙が湿気を吸い込んだ独特の匂いに満ちたその場所で、男はかなり長い間資料を読み込んでいた。彼の目の前のテーブルの上に積まれた分厚い資料は、20世紀に生存した著名人の略歴が記されたMとJのファイルだった。
「へぇー、あのばあさん、そんな偉い人だったのか」
インドのスラム街に自ら赴き、貧しい人々の支援活動に生涯を捧げたという老女の略歴を読みながら、男は再びあの老女のいたずらっぽい笑みを思い出した。

 さらにあの青年の略歴には「同時代及びそれ以降の音楽活動と若者の文化全体に多大な影響を与えた」と記されていた。
「本人が言ってた以上の人気だな」
 資料に掲載されている写真の中の、青年の歌う姿は、男のイメージする音楽家のそれとは随分違っていた。その写真の中で彼は、他の三人の若者達と共に、丸いマッシュルームのような髪型で、男には見慣れない楽器を肩から下げて歌っていた。
 資料集の説明を大まかに読み終えた後、彼はふいに二階の視聴覚コーナーに立ち寄ってみた。特に何か見たいものがあったわけではないが、他にしたいことも見つからない彼は、何気なくカウンターに座っている係の女性に向かって声をかけた。
「かなり退屈して困っているんだが…、何か面白いものを貸してもらえないかな?」
 彼女は、前にターシャと一緒に彼が図書室を見学した際に、一階の受付に座っていたのと同じ女性だった。
「今日はお一人ですのね」
カウンターの女性はそう言って、柔らかな笑顔を浮かべながら
「そうですね。何か面白いもの、と言われましても…。こちらでお貸しできるものは、ご本人とご親族のものというふうに規則で決められていますので…」
と小さく小首をかしげながら、少し困ったように言った。
「親族ねえ…」
男はしばらく考え込んだ後、ふとひらめいて
「そうだ!僕の母さんの…、マーガレット・ハミルトンの生涯をまとめた映像の記録を見せてもらおう」
と、声を弾ませて言った。
「その方の死亡年月日と亡くなった場所はお分かりでしょうか?」
「僕の生まれた3日後、つまり…1839年12月19日に、ロンドン郊外のぼろアパートで亡くなった、と聞いているが…」
「分かりました、お調べいたしますので少しお待ち下さい」
そう言って、その女性はカウンターの奥の部屋に入って行くと、しばらくして以前ターシャが持っていたのと同じ金色の薄い円盤状のものが入った透明のケースを数枚持って現れた。そして、それらをブルーの蛇腹状の入れ物に仕舞って
「どうぞ、これがあなたの前世のお母様、マーガレット・ハミルトン様の生涯の記録ですわ」
と言って、両手で恭しく男に差し出した。
「これはどうも…」
男も恐縮しながら両手で受け取り、しばらくそのブルーの入れ物をじっと眺めていた。その入れ物は東洋風の細密な織物で出来ていた。
「ありがとう」
男はなぜか不思議な高揚感を感じて、改めてカウンターの中の女性に礼を言った。
 女性は肩の上で緩やかにウエーブのかかった髪を揺らしながら
「どうぞ、ごゆっくり。よい出会いがありますように」
と言って、穏やかな笑顔で男に一礼した。

 白い壁に囲まれたその狭い空間の中で、男はぎこちない手つきで数枚ある金色の円盤の中から一番下の一枚を取り出して壁の中の細い隙間に差し込んでみた。すると程なくして、そこには彼が知っているたった一枚の写真に写っていたのと同じ時期の、息を呑むほどに美しい、彼の母親マーガレット・ハミルトンの姿が映し出された。
 彼女は薄い水色の、細かいひだ飾りの施された豪華なドレスを身に纏い、どことなくそわそわしながら、鏡に映った自分の姿と鏡越しに見える窓の外の様子とを交互に眺めていた。
「マーガレット、あなたそんなにめかしこんで、こんな時間からいったいどこへ行くというの?」
背後からそう声をかけられ、彼女が驚いて振り向くと、そこには怖い顔をした、若いローズの姿があった。
「あら、お姉様、そんなところにいらしたなんて…」
マーガレットは慌ててたじろぎながら、しかし冷静を装いつつ、こう答えた。
「アンナから、お姉さまにお伝えしていると思っていたのですけれど…。わたくし、今日はエリザベスのお誕生パーティーにお招きを受けているんですの」
「こんな中途半端な時間から、お誕生パーティー?それに、そういえば先月も、あなたそんなこと言っていなかったかしら?それからそのドレス、あんなに沢山衣装を持っているあなたが、このところそのドレスばかり着て…。何だかおかしいわ」
 射抜くような鋭い眼差しのローズに、マーガレットは極力平静を装いながら
「あら、お姉様イヤですわ。わたくしをうたぐってらっしゃるの?先月のは、エリザベスの妹のルイーズのお誕生パーティーだったのよ。それにわたくしこのドレスが大好きで、…エリザベスのおばあ様もこのドレスを大層気に入ってくださって、『来月も是非それを着ていらして』って言って下さったものですから…。それに、わたくしがたった一人のお姉様に嘘をつくとでも思って?お父様もお母様も亡くなった今、わたくしにとってたった一人の家族である大好きなお姉さまに、このわたくしが…」
マーガレットは、大きな瞳にうっすらと涙を浮かべ、切なげな眼差しでローズをじっと見つめた。
「そうねマーガレット、あなたは素直な娘だものね。ごめんなさい、疑ったりして私が悪かったわ」
「お姉様」
マーガレットはローズに抱きついて頬に口づけた。すると、外に馬車の樋爪の音が聞こえてきた。
「ああ、お迎えが来たわ」
「そうねマーガレット、では、気を付けて。パーティーをせいぜい楽しんでいらっしゃい。でも、ちゃんと門限までには帰って来るのよ」
そう言って、ローズも妹の頬にキスを返した。
「それではお姉様、行ってまいります」
そう言い残すと、マーガレットは足早に屋敷の前に止められた馬車に向かい、御者に助けられながら馬車の中に乗り込んだ。
 馬車の窓から遠のいていく屋敷を眺めながらマーガレットは
「お姉様、ごめんなさい」
と、小さな声で呟いた。
 やがて馬車は粗末な長屋の密集した狭い通りの前に止まった。マーガレットは薄いショールで大きく開いたドレスの胸元をしっかりと覆って足早に馬車を降りると、ドレスの裾を踏まないように注意しながら短い階段を駆け上がり、小さな部屋の前のドアベルを二回鳴らした。すると、すぐに入り口が開き、中から痩せた鳶色の目をした青年が現れた。
 そこまで映像を進めて、男は一瞬映像を止めて、しばし感慨にふけった。初めて見た母の姿、彼の思っていた以上に美しく清らかなその容姿とは裏腹に、彼女は見事に姉をだまして男との密会を果たしていたのだった。彼は、少し迷いながら、映像を先に進めた。
「今日はもう駄目かと思っていたよ」
男は薄汚れた服で手を拭いて、彼女のドレスを汚さないように気を使いながら、マーガレットを部屋の奥に招き入れた。その部屋は大きな描きかけのキャンバスが無造作に並べられた画家のアトリエだった。
「このドレスを着て来られるのは今日が最後かもしれないわ。姉が随分怪しんでいるもの」
「よし、じゃあドレスは今日中に仕上げよう」
そういうと青年は、早速絵筆を取ってキャンバスに向かった。そこには実物と見紛うばかりの初々しいマーガレットの姿が描かれていた。彼女はその部屋には不似合いな小さくて美しいロココ様式の椅子に腰掛け、ほんの少し小首をかしげて絵の中と同じポーズをとった。
 そうしてかなり長い時間、同じような場面が続いた。男はいい加減退屈になって、映像を先に進めるための早送りのボタンを探そうとした。すると、映像の中の画家の青年は
「よし、そろそろ休憩にしよう。何とかドレスは仕上がったよ」
と、マーガレットに声をかけた。マーガレットは少し疲れた表情でほっとしたように顔をほころばせて
「よかった」
と嬉しそうに笑って、そのまま大きく伸びをした。 

 画家は側の棚に置いてある洗面器に水を張って丁寧に手の汚れを落とし
「じゃあ、今度は肌をしっかり塗りこんでいくとしよう。でも、その前に、少し質感を調べておかないとね」
と、意味ありげに微笑んだ。
「あら、どういうこと?」
マーガレットは無邪気なふりを装ってそう尋ねた。
「全く君はいつまでたってもねんねのようだね。さあ、ドレスに絵の具を付けたくなかったら、それを自分で脱いでこっちへおいで」
青年の意外なまでに下卑た言い方に、マーガレットは
「嫌な人、そんな、まるで娼婦みたいな真似、わたくしできないわ」
と、口を尖らせてツンと澄ましてそっぽを向いた。

 すると画家は余裕に満ち表情で
「それなら、今日はこれぐらいにしておこうかい?迎えの馬車が来るにはまだしばらく時間があるが、それなら俺がそこの路地で辻馬車を拾ってきてやるよ」
と言って、おもむろに立ち上がろうとした。すると、マーガレットは途端に顔を曇らせて
「いやよ!まだ約束の時間まで間があるというのに。あなたにこうして会うためにわたくし、下女を手なずけたり姉に嘘をついたりして、それは大変な思いをして来ているというのに。まだ約束の時間も来ないうちに帰れだなんて、そんなのあんまりだわ」
と言って、大きな目を見開いて、すがるような眼差しで画家をじっと見詰めた。
 画家は優しい声を出しながら、尚も余裕たっぷりの表情で
「なにも俺は君に帰れだなんて一言も言ってはいない。ただ、画家としての仕事、つまりキャンバスに絵の具を乗せるのは、今日はここまでだと言っているんだ。俺は君にただの1ペンスもモデル料を支払ってはいない。つまり、全くの君の善意を頂戴して、こうして仕事をさせていただいているわけだ。で、今日の仕事はこれで終了。後は君の好きにしてくれればいいんだよ」
と言った。
マーガレットはうつむいて、聞こえるかどうかの微かな声で
「だって、これから…お調べになるのでしょう?わたくしの、肌の…質感、を」
と、もじもじしながら言った。
「それは、決して画家としてモデルに強要できることではない。俺の密やかな願望ではあるけれども、あくまでもそれを俺に許すかどうか、選ぶのは君だ」
画家はベッの上でタバコをふかしながら、マーガレットを上目づかいに見てそう言った。
「それじゃあ今日は、あなたからは触れても下さらないの?」
「俺は一度だって自分からモデルに手を出したことはないさ。それは君にも、それに他のモデルに対しても同じ、俺の仕事の流儀だ」
そう言って仰向けに寝転がろうとする画家に、マーガレットは
「そんな。あなた、わたくしのことを他の方達と同じように考えてらっしゃるの?」
と、責めるような目で訴えた。
「いや、君は他のモデルとは違う。無償で自分からモデルを買って出てくれた、貧乏画家の俺にとっては、まるで女神のようなお方だよ」
「からかわないで!」
そう言ってマーガレットは怒って椅子から立ち上がり、しばらく画家を大きな目でにらんだ後、彼に背を向けて
「どうせあなたは、わたくしが帰った後、カフェの二階のあの女の所にお行きになるのでしょう?」
と、すねたような声を出した。
「俺がどこで誰と会おうと、俺の勝手だろう?」
画家はまるで彼女の反応を楽しんでいるかのようにそう答えた。
「どうして?どうして、わたくしでは駄目なの?」
マーガレットは、少女がダダをこねるように首を横に振りながらそう言った。
「だから、さっきも言っただろう?理由は簡単さ。俺は自分からモデルに手は出さない。そういう主義なんだ」
「……ずるい人」
マーガレットはしばらくがっくりとうなだれたまま男に背を向けて立ちすくんでいたが、やがて諦めたように
「…できるだけ、暗くして。…お願い」
と、消え入るような声で言った。
「仕方ないな。本当は質感だけでなく色の微妙な変化も見たいんだが…」 
そう言いながら、画家は後ろ手にベッドサイドのカーテンを閉め、窓と反対方向にあるサイドテーブルの上のランプの明かりを吹き消した。窓の外から漏れ入ってくる薄明かりにほの白く浮かび上がるマーガレットの後姿は、しばらくそのまま身じろぎもせずにいたが、やがて彼女は意を決したように大きく息を吐いて、ゆっくりとドレスのホックに手をかけた。彼女が服を脱ぐ姿を、画家は絵を鑑賞するようにじっと見入りながら
「きれいだ。いつかその格好でポーズをとってほしいものだ」
と言った。
「そんなことをして、もしばれたら、姉に殺されるわ」
 マーガレットがゆっくりと振り返ると、ベッドの上に寝そべる画家は満足げな笑みを浮かべながら
「おいで」
と優しく彼女に囁いた。
そこまで映像を進めると、男はいささか複雑な気分になってしまった。彼の生みの母親、マーガレット・ハミルトン。彼女は男が思い描いていた以上に美しく可憐な女性だった。しかし、彼女のしている行為そのものは、彼が今まで想像していた母のイメージとは幾分異なっていた。


 やがて、映像は別の場面に変わった。
「えー?マーガレットお嬢様、そんなこと急に言われても!」
いきなり、下女のアンナが驚いて大声で叫ぶ声が、視聴覚ブースの狭い空間一杯に響きわたった。
「ちょっとアンナ、やめてちょうだい、そんな大きな声。お姉様に聞こえるじゃない」
マーガレットは眉をひそめてキッとアンナをにらみつけたが、すぐに気を取り直すと穏やかな声で
「そうね、アンナが驚くのも無理はないわ。でもね、私もう決めたの」
と、きっぱりと、まるで自分に言い聞かせるかのようにそう言った。
「でも、お嬢様、何でまたそんな急に…。お屋敷を出て、いったいどこで暮らそうとおっしゃるんですか?」
「分からないわ、まだ今は」
「分からないって、お嬢様、そんな…」
若いアンナは、情けなさそうな声を出して、心配そうにマーガレットの美しい横顔を見詰めた。
「でも、いずれ住む所が定まったら、アンナに真っ先に連絡するわ。だから、お願い。今夜私がこの家から出て行くのを、黙って見逃して欲しいの」
「そんな、ローズ様に内緒で家出のお手伝いなんか…。ばれた日には、ただじゃ済みませんもん」
アンナは恐ろしさに身震いするかのように大げさに肩をすくめた。
「だから、何も知らなかったことにしてくれればそれで良いの。お姉様にもいずれ、話せる時が来れば事情をお話して、分かっていただけるはずよ。でも、今はまだだめ。だから、アンナ。お願い、あなたは何も知らなかったことに…」
 必死で懇願するマーガレットにアンナは
「お嬢様!どういうことなのか、訳を教えてください!」
と、マーガレットの目を見詰めながら、すがるように問いただした。
 アンナの気迫に押されて、マーガレットは観念したかのようにゆっくりと口を開いた。
「私、赤ちゃんができたの」
「!…」
若いアンナは絶句し、うつむいてほんのり頬を赤らめた。
「あの、絵描きさんの…子?」
聞きにくそうにもじもじしながらそう尋ねるアンナに、マーガレットは
「そうよ」
ときっぱりと告げると、優しい笑みを浮かべた。
「こんなことになってしまって、それは急なことだけど…。でもねアンナ、私嬉しいの。だってあの人の子どもが私のお腹の中にいるんですもの。私、あの人のことを心からお慕いしているの。だから、この子を絶対に無事に産みたいの。みんなが反対するのは分かってるわ。あの人だって最初は戸惑っていたもの。…でも、彼も認めてくれたの。だから私、この家を出て、誰も知らない所でひっそりとこの子を産むわ」
「でも、お嬢様、世間はそんなに甘いもんじゃありません。住むところも決まってないって言うのに、いったいどうやって生活していこうって言うんです?それに、お金は?」
 若いアンナは、その幼い顔に似合わない低い声を出して、たしなめるようにそう言った。
「部屋は彼が探してくれるわ。粗末なアパートでも、二人で暮らせるなら、私どんな所でもいいの。それに、お金は私の宝石やドレスを売れば、しばらくは大丈夫よ。彼も、この子のために、今までみたいに仕事を選ばず何でも受けると言ってくれているし」
 それを聞いて、アンナはふいに、マーガレットの恋人となったその絵描きが、以前肖像画を描くために屋敷に来ていた時のことを思い出した。
「二年前、お嬢様の二十歳の記念にと、当時まだご健在たった旦那様があの方を初めてお屋敷にお呼びあそばした時、旦那様はあの方の腕を見込んで、マーガレット様に続いてローズ様の肖像画もあの方に頼もうとお考えでした。何せローズ様は長時間じっとしているのがイヤだからって、まだ一度も肖像画をお描かせになったことがなかったもんですから。で、旦那様は渋るローズ様を何とか説得して、その依頼をあたくしからあの方に伝えるようにと言われなすったんです。でもあたくしが旦那様のご依頼をそのままあの方にお伝えすると、あの方ったら…」
「確か、お断りになったのよね」
「そうなんです」
アンナは、その後黙って一人で回想を続けた。アンナの回想場面は、ぼんやりとした輪郭線に縁取られて画面に現れた。
窓越しに中庭を散歩するローズの姿をチラリと一瞥して、画家は気だるそうにあくびをしながら
「俺は美しいものしか描かない主義なんでね」
と言ったのだ。そんなことを言われても、自分はどう言ってそのことを主に説明すればいいのかと、アンナは途方にくれたが、そんなアンナを残して画家はさっさと帰ってしまい、その後二度と屋敷に姿を現さなかった。
 そのことはさすがに口にできず、しかし、あの男と駆け落ちするというマーガレットの行く末がどうにも案じられて、アンナは
「それにしましても、お嬢様、どうしてよりにもよってあの方と…」
と、非難と同情の入り混じったような目で、マーガレットの顔を見た。
「私はお姉様と違って、絵のモデルになったことは他にも何度かあったけれど…。あの方は、…目が違うの。あの目に見つめられると、私の全てを見透かされているような、なんとも言えない気持ちになるの。初めは逃げ出したくなるくらい、恥ずかしくてどうしようもなかったの。でも、しばらくすると、あの方にもっと見られたい、私のこともっと知って欲しいと思うようになる、…あの方の目にはそんな不思議な力があったの」
 アンナは呆れたようにため息をついて、天井を見上げた。画面下には

(マーガレットは完全に盲目の恋に陥っている。もはや誰が何と言おうと、この娘のひたむきな恋心を思いとどまらせるわけにはいかないだろう。それに、彼女のお腹の中は早くも画家の赤ん坊が宿っていると言うではないか。万事休す)

という文字が流れた。

 アンナは胸の前で小さく十字を切って、一瞬気の遠くなるふりをした。
「ねえアンナ、お願い、ここは見逃して。大丈夫、住むところが決まったら必ず手紙を出すから。トムにもこのことは知らせてあるから、彼を通じてアンナに手紙をことづけることにするわ」
 トム、という名前を聞くと、アンナの顔色がにわかに変わった。そのことは、映像を見ている男の目にもはっきりそれと分かるほどだった。
「どう?アンナ、それならアンナもいいでしょう?私、知ってるのよ。アンナが去年からうちに出入りしている庭師のトムに御執心だってこと」
「まっ!お嬢様…」
アンナは驚いて再び顔を赤らめた。
「実は、トムには初めから協力してもらっているの。あの方のアトリエに通うために馬車の手配をするのも、全部トムに頼んでいたのよ。だって、うちの馬車を使ったりすれば、すぐにお姉様にばれてしまうもの…。だから…」
 少し間を置いて、マーガレットは意味深な笑みを浮かべながら
「アンナがこのことをお姉様に内緒にしておいてくれさえすれば、アンナはトムと秘密を共有するということになるのよ」
と、怪しくも美しい、媚態のこもった眼差しをアンナに投げかけた。
 「秘密の共有」という甘美な言葉が若いアンナの心を魅了したのか、彼女はしばらくもじもじとエプロンのひだを握り締めてうつむいたまま黙り込んでいた。しばらくの間沈黙が続き、しんとした屋敷の中の重々しい空気が、映像を通して男にも伝わってきそうなほどだった。
 しかしその静寂は、窓をコツコツと叩く音によって破られた。びっくりしたアンナが恐る恐る窓辺に近づいて分厚いカーテンをそっと開けて窓の外を見ると、そこに日に焼けた若い男の顔が現れた。アンナは、とっさに三たび顔を赤らめた。窓辺から少し離れたところに立っていたマーガレットはその男を見ると、ちょうどいいところに、と言わんばかりの嬉しそうな声で
「ああトム、待っていたのよ」
と言ってアンナの顔をちらりと横目で見た。アンナは、今までほとんど話したこともない、密かに恋心を抱いていたこのたくましい青年がこんな夜更けにいきなり目の前に現れたことにすっかり動揺しているようだった。ボーっと立ち尽くすアンナをよそに、マーガレットはいつになく毅然とした態度で
「さあ、トム。急いで、時間がないわ。裏口から中に入って、隣の部屋にあるトランクを馬車に積み込んでちょうだい。そっと、音を立てないように気をつけてね」
と言うと、裏口の鍵を開けに屋敷の奥に消えて行った。あっけにとられてその場にたたずんでいたアンナは、ふと我に帰り急いでマーガレットの後を追ったが、動揺のあまり足がもつれてスカートの裾を踏んだり家具の角に体をぶつけたりして二度も転んでしまった。そしてやっとの思いで裏口までたどりつくと、もうすでに庭師のトムは大きなトランクを二つ抱えて馬車の方に向かっており、マーガレットは扉の前でアンナが来るのを待っていた。
「ああアンナ」
涙声でそう言うと、マーガレットはアンナに抱きついた。
「お嬢様」
アンナも、何がなんだか分からないまま、雰囲気に飲まれて声を詰まらせながら、マーガレットの細い肩を抱きしめた。
「アンナ、いいこと?これから私が言うことをよく聞いて、その通りにするのよ。私がここから出て行ったら、アンナは一旦この扉の鍵をかけてちょうだい。そして、朝になったらもう一度鍵を開けて『夜のうちに鍵が開けられてる!』って騒ぐのよ。そうして一部屋ずつ盗まれたものがないかどうか探すふりをするの。そうしているうちに私と私の持ち物がなくなっていることにお姉様は気づくでしょう。そうしたら、アンナはわざとらしくない程度に取り乱して、私の部屋の中をあちこち見て回りながら、枕の下に置いてある書置きを偶然見つけたふりをしてお姉様に渡してちょうだい。とにかくアンナは『どうしましょう?どうしましょう?』とそれだけ言っていればいいから。そうすれば、まずお姉様にアンナが疑われることはないわ」
「お嬢様…」
アンナがそれ以上何言いかけた時、外の闇の中から庭師のトムが再び現れ
「お嬢様、準備が整いました」
と、低い声で言った。
「分かったわ」
マーガレットはそう言うと、もう一度アンナの顔をじっと見詰め
「アンナ、元気でね。後を頼んだわよ。それから、…今更私がこんなことを言うのはおかしいけれど、お姉様のこと、よろしくね。ああ見えて、ホントはとても優しい方なの。私がこんな勝手なことをしなければ、ずっと一緒にいられたのだけれど…」
と言って声を詰まらせた。しばらくそのまま動かない彼女を
「お嬢様、さあ、お急ぎください」
と言うトムの声が急き立て、マーガレットは泣き顔を見せないようにくるりとアンナに背を向けて、門の外に止めてある馬車に向かって、走りはじめた。 

 その後ろにつき従うトムは、その時一瞬アンナの方に顔を向けてこう言った。
「これで僕らは共犯者、ってわけだ」
そう言ってアンナをじっと見詰めた後、トムは闇の中に消えて行った。アンナは真っ赤な顔をして、そのままそこに呆然と立ち尽くし、二人が去った後の中庭の植え込みには、満開のクチナシの花が闇の中に白く浮かび上がっていた。

 
 更に場面は変わって、木枯らしの吹きすさぶ薄暗い空と、その下に立ち並ぶ粗末な建物の隣接する細い路地が映し出された。その路地の奥まったところにある古びたアパートの二階の窓から中を覗くと、そこには寒そうに身を縮めて、くすんだピンク色のドレスの上から分厚い肩掛けを何枚も羽織り、肘掛け椅子に座って編み物をするマーガレットの姿があった。彼女が編んでいるのは小ぶりの卵がようやく隠れるほどの、小さな赤ん坊用の靴下だった。ゆったりと体のラインを隠すはずの寸胴なドレスは、大きく前にせり出した腹部に張り付きいかにも窮屈そうで、彼女はすでに臨月を迎えているであろうことは一目で分かるほどになっていた。彼女の指先は荒れ、顔色は以前より幾分悪く見えたが、それでもマーガレットは幸せそうにシューベルトの子守唄をハミングしながら熱心に編み針を動かしていた。するとその時、ドンドンと入り口のドアをノックする音が聞こえ、マーガレットは少し神経質に眉間に皺をよせながら入り口のドアを恐る恐る開けた。
「絵描きの奥さん。あんた、ちょっと困るんだよ。先月とその前の月の家賃、早く払っておくれよ」
部屋の外で太った中年の女がそう言っているのが、ドアの隙間からほんの少し見えた。
「え?お家賃は毎月主人がきちんとお支払いしていると聞いていましたけど?」
マーガレットは、外の寒さと不意の訪問者の声に怯えて、ドアから体を半分だけのぞかせてか細い声でそう言った。
「それは、あんたの旦那の勝手な言い分さ。とにかくこっちも生活がかかってるんだからね、今月中に支払い頼んだよ」
そう言い残すと、その女は寒そうに襟元を押さえて、ブツブツ独り言を言いながら去って行った。マーガレットは女の背中を見送った後、ドアを見詰めてしばらく不思議そうに考え込んでいたが、やがて
「そうね、あの人、この頃仕事用の絵の具が高くなってきたってこぼしてたものね」
と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。そして、大きなお腹をかばいつつ棚の奥にしまってある飾り箱を出して、その蓋を開けた。箱の中には、ビロードでできた小さな箱が数個あり、箱を開けると中にはルビーやエメラルド、オパールなどの豪華な宝石のちりばめられたアクセサリーが数点、大切に布で包まれていた。
「もうこれだけになってしまったのね」
マーガレットは小さなため息をつきつつ中の宝石を一つ一つ出しては愛しそうに眺めていたが、やがて、小首をかしげながら
「あら?このネックレス、確かおそろいのイヤリングがあったはずだけど…」
と呟いた。それは、金の地金に大きなエメラルド、それを取り巻くようにダイアモンドのふち飾りが施された、中でもひときわ豪華なネックレスだった。
「あの時急いで荷造りしたから、きっと屋敷に忘れてきてしまったのね」
そう言って、マーガレットは重い体をゆっくり動かしながら、身支度を始めた。分厚いコートを着込み、つばの大きな帽子を被り、ハンドバッグの中に先ほどのネックレスの入った小箱をしまいこむと、彼女は寒空の下に出て行った。
 マーガレットの向かった先は、通りのはずれにある質屋だった。あいにく店の主は不在で、
「目利きの者がいないから買取りは出来ないよ」
と、店番をしていた老婆は鼻眼鏡の奥の小さな目をしばたたかせながら素っ気なく言った。しかしこんな寒風の中、身重の女がわざわざ出向いて来たことに同情したのか、老婆はマーガレットに椅子を勧め、
「しばらく待ってればそのうち帰って来るだろう。まあこれでもお飲み」
と店の奥からミルクティーの入ったカップを出してきて、マーガレットに手渡した。
 マーガレットは、老婆の親切に感謝して、熱いミルクティーを飲みながら、店のショーケースの中の質流れ品を見るともなく眺めていた。店の中には古い掛け時計の振り子の音しか聞こえず、店番にすっかり退屈していた老婆は、マーガレットにあれこれ話かけてきた。
「あんたのお腹、随分大きくなったねえ。はじめうちに通いだしたころには、まだぺったんこだったのに。…もうそろそろかい?」
「ええ、今月中には生まれる予定です」
「そうかい、年の暮れに生まれてくるとは、そりゃまた大変だね。ただでさえ、あんたみたいなお嬢さんがこんな下町の質屋に通って来るってだけでもふびんだってのに…」
他に客がいないのをいいことに、老婆はさらに色々なことをマーガレットに尋ねてきた。
「あんたの旦那は何してる人なんだい?」
「主人は絵描きです」
気のいいマーガレットは、素直にそう答えた。
「そう、絵描きさんねぇ。あれも先の見えない不安定な仕事だよ。うちの店にもよく来る絵描きがいるけどねぇ。腕は良いんだが、売れる絵を描くのが嫌いな男でね。その上博打癖があって、いっつもすっからかんでさ。何で、ああいつも負けてばっかりなのに、博打が止められないのか、あたしゃ不思議でならないよ」
「そう、大変なんですね、その方」
マーガレットは適当な相槌をうった。
「それにねえ、その絵描きの所には子どもが2人もいるっていうのに、最近じゃ、よそに女ができらしくて、ちっとも家に寄り付かないそうだよ。あそこの嫁さんも随分苦労してるみたいだけど、あの男は全くしらんぷりさ。まったく悪い男だよ。でもね、そうはいってもうちのお客さんだし、あたしも余計なことは言わないことにしてるんだけどね」
そう言って、老婆は紅茶を静かにすすった。マーガレットは、
「そう、そこの奥さんも大変なんですね」
と、心から同情して言った。
「それがさぁ、不思議なんだけどね。この頃、その絵描きが妙に刃振が良いみたいなんだよ。こんなことはよそでは言えないが、あんたはめったなことでは他言しないだろうから言うんだけど…。ほら、そこのケースの奥の方にある一等豪華なやつ」
そう言って老婆が指差した方を見た瞬間、マーガレットの表情が凍りついた。
「その耳かざり、どう見たって良いとこの貴族の家から出たとしか思えない。そんな高価な物を、あんたみたいな人が持って来るならともかく、あんな金なしの絵描きが持って来たんだから、あたしゃ驚いちまったよ。おおかたどっかの金持ちの女をだまして貢がせたんじゃないかね。もっとも、あんなうだつの上がらない絵描きに貢ぐ女もいないだろうけどね」
老婆がそう言って指差したのは、紛れもなく、今マーガレットのハンドバッグの中に入っているエメラルドのネックレスと揃いのイヤリングだったのだ。
 マーガレットはしばらく呆然とそのイヤリングを見ていたが、やがて震える手でティーカップを何とか側のテーブルの上に置き、よろめきながら立ち上がった。
「おや、どうしたんだい?もうお帰りかい?」
老婆は心配そうにマーガレットの顔を覗き込んだ。
「ええ、ちょっと具合が悪いの…」
老婆に礼も言わずに、マーガレットはそのままフラフラと店の外に出た。そして、通りを歩く人にぶつかりながら、放心したように無表情のまま来た道を引き返して行った。
アパートの入り口で先ほどの太った大家に出会った時、女はマーガレットのいつもと違う様子に驚いて
「あら、絵描きの奥さん、あんたどうしたの?顔が真っ青だよ」
と、声をかけた。
マーガレットは、
「ええ、大丈夫…」
と言って階段に足をかけたが、その時急に腹部を押さえてその場にしゃがみこんだ。
「ちょっと、あんたどうしたの?」
女は慌ててマーガレットに駆け寄った。マーガレットは額に薄っすらと汗を浮かべて、苦しそうにうめき声をあげた。そんな彼女の様子を見て、女は辺りに響く大きな声で
「誰か、手を貸しておくれ!お産だ!陣痛が始まったんだよ!」
と叫んだ。
 その後、近くにいた数人でマーガレットを部屋に運び込み、年取った産婆が呼ばれ、出産の準備に取り掛かった。その後は延々マーガレットの苦しむ姿が映し出され、映像を見ていた男は見かねてその場面を早送りにした。するとしばらくたったころ真っ赤な肉の塊のようなものが産婆によって取り上げられる様子が見えた。男が早送りを解除すると
「オギャー!オギャー!」
という動物的な赤ん坊の泣き声が大音量でいきなりブース内にこだました。耳障りなほど大きなその声の主は、まさしく自分であるということは、彼自身、疑いようのない事実だった。ベッドの上にぐったりと横たわるマーガレットに年取った産婆は
「よくがんばったわね。ほら、ご覧なさい、とっても元気な男の子よ」
と、言って、産湯を使って真っ白な産着に包まれた生まれたての赤ん坊を大事そうに抱き上げ、ゆっくりと上体を起こしたマーガレットにそっと抱かせた。
「まあ、なんてかわいい。この子が私の…赤ちゃん」
マーガレットはこの上ない愛おしさに包まれた、まるで聖母のような微笑を浮かべて、優しく赤ん坊に語りかけた。
「いらっしゃい。かわいい赤ちゃん。私がママよ」
 その後、マーガレットは赤ん坊に乳を与え、その姿を見届けて産婆は帰って行った。大家の太った女も
「何か困ったことがあれば、いつでも声をかけておくれ」
と、いつになく優しいことを言ってきた。
「奥さんありがとう、ご親切に。でも、大丈夫、うちには主人がいるから…」
そう言いかけて、マーガレットは質屋での一件を思い出してふいに顔を曇らせた。そして、少し考え込んだ後、おずおずと
「ずうずうしいお願いをして申し訳ないのだけれど…、ここから2本先の通りに住んでいるトムという庭師の青年に、私に男の赤ん坊が生まれたと伝えていただけないかしら?ついでの用事の時でもいいから…」
と、言った。
「ああ、庭師のトムね、そりゃ、そのくらいお安い御用だけど。でも、何せあの男よく働くからねえ。この前も遠くの屋敷の広い庭を任されたって言ってたし、2.3日家を空けることもざらだそうだけど…。まあ、なるべく早く伝えておくよ」
そう言って、暗くなった頃、大家も帰って行った。
 そうして、赤ん坊と二人だけになった部屋の中で、マーガレットは改めて感慨にふけった。そして、赤ん坊に向かってこう話しかけた。
「ねえ、赤ちゃん、あなたのお父さんは、ホントはどんな人なのかしら?今日質屋の奥さんが言ってたのは、あれは何かの間違いよねぇ?この頃家に帰ってこないのは、きっと仕事が忙しいから、そうよね?赤ちゃん」
するとマーガレットの問いかけに答えるかのように」、突然赤ん坊が火がついたように泣き出した。
「ごめんね、ごめんね、あなたにそんなこと言っても、だめよね。おお、よしよし。泣かないで、赤ちゃん」
そう言って、マーガレットはぎこちない手つきで赤ん坊を用心深く抱き上げて、懸命にあやし始めた。
 
 映像は、そこまでで終わり、その後黒い画面に白い字幕で、「これから3日後、マーガレット・ハミルトンは、飢えと寒さによる産後の急激な衰弱により永眠。享年23歳。尚、本人と子どもの父親との間に戸籍上の婚姻関係は成立していない」と記されてあった。
 男は壁の細い隙間から金色の円盤を取り出して、ブルーのケースにしまうと、おもむろに立ち上がってカウンターにそれを無言で返却した。そしてぼんやりとした生気のない顔で自室に向かってとぼとぼと歩いて行った。
 その夜、男は無性に落ち着かない気分になって、ポケットをまさぐり、その日の朝ターシャから手渡された呼び鈴を何気なく振ってみた。呼び鈴はシャラシャラと心もとない音をたてただけだったが、それから数分後にはどこからともなくターシャが現れ、するりとドアの隙間から部屋に入ってきた。
「どうしたの?そんな浮かない顔をして」
ターシャはいつものモナリザのような微かな笑み浮かべながら男にそう尋ねた。男はベッドに横たわったまましばらくじっと天井を見詰めていたが、やがて
「僕が生まれたことで、母さんの人生を台無しにしてしまったようだ」
と、ぽつりと呟いた。
 するとターシャは、いったって冷静に
「そうね、出産を機に女性の人生は大きく変わるケースが多いから、そういうことは決して珍しくないでしょうね」
と言った。
「君が僕の過去についてどこまで把握しているのか知らないが、僕の父親らしき男は最低の男だったよ。純粋で世間知らずな僕の母さんを、だまして金づるにして子どもまで生ませたあげく、…捨てたんだ」
「そうね」
ターシャは全てを知っているらしく、静かに相槌を打った。
「本人の真意はともかく、結果的にはそうなってしまったようね。私が読んだ記録によると、その後彼があなたの生まれた部屋に帰ったのは、あなたの母親の死の知らせを聞いた後だったそうよ。彼はあなたが生まれていたことも、その時に知ったの。でも、もう既にあなたは母親の実家に引き取られた後だった。あなたの母親の葬儀の後、その男は雨の降る中いつまでも彼女の墓碑にすがって泣いていた、と、記録にはそう記してあったわ」
「それは本当か?」
男は急に体を起こして、食い入るようにターシャを見詰めた。
「ええ、当局の記録は公正かつ正確だから、事実に間違いはないはずよ。彼は確かに他の女と結婚していて、離婚に手こずっていたそうよ。そして、ギャンブルで多額の借金を背負い、ついにはあなたの母親の私有財産にまで手をつけてしまった。そのことが気詰まりでしばらく家に帰れず、賭場に入り浸っていたのよ。まあ、いずれにせよあなたの母親の死は、彼の弱さが招いた悲劇ね。でも、あなたの誕生が間違っていた訳ではないわ。あなたも見たでしょう?それは、彼女が望んだことだったのよ」
「それは彼女が望んだこと」、そのフレーズを男は繰り返し頭の中で反芻した。どこかで聞き覚えのあるその言葉、それは確か…。
 思い出した瞬間、男は起こしていた体を再びベッドに投げ出した。それは先日ターレスから、彼の祖父の出生の秘密を聞いた際、彼の口から出た言葉だった。
(「それは、彼女が望んだことでもあったのです」)
 あろうことか、自分もまた、その父親と同じような悪い男であったことを、男は改めて思い知った。

 酒に溺れ、モデルに手を出した情けない貧乏画家。幸い自分は独身だったし、子どものことも知らされてはいなかったが、それはひとえにカレンのけなげな計らいによるものであった。もし仮に、自分が子どもの存在をカレンから知らされていたとしたら…。男はそれ以上自分の父親のしたことを責めることができなくなり、黙って天井を見詰めたまま動けなくなった。
「どうしたの?死んだふりなんかして。そんなことをしても無駄よ、あなたはまだ生まれていないんだから」
そんな彼の心情を知ってか知らずか、ターシャはあっさりとそう言った。そのまましばらく男は考え込んでいたが、やがて
「母さんはあの男のことを恨みながら死んでいったんだろうか?」
と、独り言のように呟いた。
 ターシャは男に近づいて、ベッドに腰を下ろしながらこう言った。
「さあ、それは誰にも分からないわ。記録には事実がそのまま記されているだけで、それぞれの感情はそこから推測するしかないから…」
そう言いながら、彼女はベッドに両手をついて、猫のような仕草で男の顔を覗き込みながら、声をひそめてこう言った。
「あなたの母親の遺品である彼女の宝石箱の中には、死の直前に彼女があなたの父親宛に書き残したと思われるメモ書きが残されていたそうよ」
「それには何と?」
男は目を見開いた。
「『これをミルクと絵の具代に』って」
そう言ってターシャは男の髪の毛を優しく撫でた。
「そうか…」
男は遠い目をして小さく頷いた。
「私にはそういうのはよく分からないけれど…」
そう言いつつ、ターシャは言葉を続けた。
「たぶん彼女は最後まであなたの父親のことを信じていたのよ。彼女にとっては信じることが愛だった。現実の彼はそんなにいい人じゃない、そのことを分かっていながら、彼女はその現実を超えたところにある彼の本性を、信じていた。それが彼女にとって彼を愛するということだったのではないかしら?」
「なぜ君はそう思うんだい?」
男は、上目づかいに自分の顔の斜め上にあるターシャの顔を見詰めてそう尋ねた。
「愛というのは、どうやらそういうものらしいのよ。私は今まで水先案内をする乗客に同行しながら、人が生きていく中で経験する様々な感情についての話を聞く機会に数多く遭遇したわ。中でもとりわけ『愛』という感情について、生前の経験をもとに、人々は私に様々なことを語ってくれたわ。前にも話したように、私には人としてあの世に生まれた経験がないから、そういう人間の感情というものが分からないの。でも、彼らの話は私にとってとても興味深いものなの。とりわけその『愛』という感情が…」
そう言いながら、ターシャはまだ見ぬ恋人に憬れる少女のようにうっとりとした表情で、目を潤ませた。
「ふぅん、『愛』ねえ…」
男は、その日初めて見た母親のカラーの映像を思い出しながら、彼女の言葉を繰り返した。
「あなたは『愛』を知っているの?」
ターシャは男の顔を覗き込んだままそう尋ねた。
「『愛』なんて、そんな綺麗なものが僕の人生の中にあるわけが…」
そう言いかけて、男はその言葉を自分が言うのが初めてではないことに気がついた。彼の脳裏にターレスの顔と、彼の差し出したポートレートに写ったあどけないカレンの顔が浮かび、男は一瞬不思議な感情の揺れを感じた。そしてしばらく黙って考えた後、言葉を選んでこう言い直した。
「『愛』という感情を僕は知らない。僕の周りにそれがあったかどうかということも定かではないが、少なくとも僕は、『愛』というものを実感したことはない」
「そう、それなら私と同じね」
そう言って、ターシャはまた再び小さい子どもをあやすように男の髪の毛を優しく撫でた。
「ねえ、ターシャ」
男がふいに弱々しい声で彼女に呼びかけた。
「なあに?」
「前に歌っていたあの歌を、もう一度聞かせてもらえないだろうか?」
男がそう言って目を閉じると、まろやかな鈴の音のような声で、ターシャが子守唄を歌いはじめた。男はその声をまるで遠くに聞こえる潮騒のように感じながら、やがて深い眠りにおちていった。