第19章 序章 (最終章)

第19章  序章 (最終章)

 

 枕元に置いたスマホから鳴り響く何度目かのアラーム音を止めるために布団の中から苦しそうに手を伸ばすと、思いのほかベッドの端に体を横たえていたため、バランスを崩した早川眞一の体は、鈍い音を立てて床に転げ落ちた。
「ってぇー!」
右肩を押さえて悶え苦しむ眞一に、階下から大きな声が聞こえてくる。
「何なの?今の音。眞一、あんたまたベッドから落ちたんじゃないの?」
「つっ…、そうだよ。悪かったな」
小さな声で眞一は呟いた。
「ちょっと、どうでも良いけど早く起きなさいよ。母さん、今日は朝から推薦入試の選考会議があって、急ぐのよ」
階下の声はそう言いながら階段を上って来る。
「…うるせえなぁ」
布団にくるまってそう呟く眞一の耳にドアを開ける音が聞こえる。眞一の頭上には、40台後半とおぼしき女の呆れたような顔があった。
「大丈夫?」
布団をめくって中を覗き込むその女に眞一は
「何だよ、勝手に部屋に入んなって言ってんだろ!」
と大きな声で怒鳴った。
「部屋に入られたくなかったら、さっさと起きて来なさいって言うのよ。ほら、大丈夫?ちょっと、どこ打ったのよ?見せてご覧なさい」
と言って無理矢理布団を引き剥がそうとする女に
「大丈夫だって!いいから放っといてくれよ!」
と、布団に簀巻きになったまま、眞一は必死に抵抗した。
「とにかく早く起きなさいよね。もう母さん行くからね。今日は文化祭だからお弁当要らないんでしょ?」
 諦めて階下に降りようとする女の言葉を、眞一は無視していた。
「そう言えば、悟君と待ち合わせしてたんじゃないの?K高とS高と文化祭の日程がかぶらなくて良かったって、悟君、凄く喜んでたじゃない?あの子はあんたと違ってきちんとしてるから、待ちぼうけ食わせたら可愛そうよ」
「…いけねぇ、忘れてた」
慌てて起き上がろうとすると、簀巻きになった布団に足を取られて、眞一はよろめいて布団もろとも再び床に倒れ込んだ。
「本当にもう…」
もう一度部屋を覗き込んで、彼の母親は苦笑いを浮かべた。
「それから、今日は藍子ちゃんの写真の前撮りの日だけど…」
階段を降りながら母親は言った。
「眞一、あんたも見たいんでしょ?ウェディングドレス姿」
「まあな。肖像画を描く時の参考になるだろうから…」
「そう言うだろうと思って、玲子おばちゃんに時間と場所を聞いといたわよ。ロイヤルホテルの3階のフォトスタジオで4時からだそうよ。それと、藍子ちゃんにも頼んでおいたわ。『眞一が後で写真だけでも撮らせてくれって言うだろうからポーズとってやって』って」
母親の慶子は、いつもこういうことに関してはよく気が利いた。
「母さん」
玄関で靴を履こうとする母親の後ろ姿に向かって、二階のドアから顔だけ出して眞一は呼びかけた。
「ん?」
背中のまま返事する慶子に
「サンキュ」
と眞一は小さく言った。

 

「悟!悪ぃ、待った?」
息を切らせながら、眞一は正門前に走って行った。そこには端正な顔立ちの背の高い男子生徒が立っていた。彼は、手には『キルケゴール全集第15巻』を持ち、柔らかな微笑みを浮かべていた。
「いいや、大丈夫。今日はいよいよ憧れのS高に入れると思うと、それだけでワクワクだから、待つのも楽しい時間だったよ」
名門K高校の制服を着た悟を、すれ違いざまに何人もの女子生徒が振り返って目で追いながら、噂しあっていた。
「憧れって言うのは、普通こっちのセリフだろ。見ろ、周りの女子達の反応を。お前は頭が良い上に見た目も良くて、その上性格までそんなに良いからな…。俺のクラスの奴ら、俺とお前が従兄弟同士だってこと未だに信じてくれないんだぜ。そんなお前が、何だってこんな3流高校に憧れるんだよ」
「何だよ、眞一。そんなの分かりきったことじゃないか」
悟は照れたように頬を赤らめながら言った。
「今日は、遂にあの一ノ瀬華凛さんに会えるんだもの。この3ヶ月間、僕がどんなにこの日を待ち望んで来たか、眞一だって知ってるだろ?さっきだって眞一を待ってる間、本を読んでるフリをしながらずっと彼女を探してたんだから…」
「一ノ瀬?…ってか、お前、まだあの女のこと言ってんの?」
「まだって、…まだ3ヶ月しか経ってないじゃないか」
悟は珍しくムキになった。
「大体、一度も会ったこともないのに。俺の絵の中と写真でしか知らないのに。そもそもあんな性格のキツい女は悟には会わないと俺は思うけど…」
「眞一、そんな風に人を見た目で判断しちゃいけないよ」
「見た目で判断してるのはそっちだろ」
「…まあ、それはそうなんだけど…。でも、彼女はそんなにキツイ性格の人じゃない。彼女は…きっと彼女は寂しがり屋なんだと思うんだ。ただ強がってるだけなんじゃないのかな?」
「お前、何でそんなことが分かんの?俺の絵と写真見ただけなのに」
「彼女に関しては、何か分かる気がするんだ」
一人で納得したように悟は大きく頷いた。
「でも、それにしても良かったよ。悟は、それだけモテるのに女にちっとも興味がないから、俺はてっきりお前のことを、あのK高の生徒会長と怪しい仲じゃないかと思ってたんだ」
「彼とはそんなんじゃないよ」
悟は柔らかな笑顔でそう言った。
「それを言うなら眞一だって、高2の今まで彼女の一人も作ったことないじゃないか」
「何せこっちは、お前みたいに引く手数多じゃないんでね。それに俺は理想が高いんだ。今までリアルに出会った中で心底綺麗だと思った女なんて、正直ほぼ皆無だ。まあ、一ノ瀬花凛は確かにこの辺の女子の中じゃあ見た目のレベルは高い方だけど…。何せあいつが入学したての頃に、俺が絵のモデルを依頼したぐらいだから」
「それにしても、彼女よく引き受けてくれたね」
悟は、心底感心したようにそう言った。
「まあ、そこは俺の長年の経験が物を言うわけだ。俺の唯一得意な英語力を駆使して、一ヶ月間英語の宿題を代わりにやってやるっていう条件を出すんだ。それと、お世辞を並べ立ててその美貌を絶賛すれば、大抵の女はモデルを引き受けてくれるもんだ。まあ、もっとも暇で頭の悪い女子にしかその手は使えないけどな」
「そうか、一ノ瀬さんは英語が苦手なのか。…可愛いなぁ。僕なら無期限無条件で基礎から分かりやすく教えてあげるんだけどなぁ」
悟は瞳を潤ませながらそう言った。
「それにしても、今年の春あいつが入学してきた時は、ちょっとした噂の的だったよ。何せ、あの髪の色だからな。あんな赤毛に染める奴、今どきどんなヤンキーかって思ったら、あれは自毛の色なんだから、教師も困ってさ。あいつを真似て『これは自毛です』とか言って髪の色を変える生徒が急増したら収拾がつかないってんで、月に一度の服装検査の時には、いちいち生徒手帳の写真と髪の毛の色を照合するっていう新ルールが出来たくらいだ。確か、あいつのお祖母さんがイタリア人とか言ってたけど、隔世遺伝でそこまでなるか、って位すごい色だよな、あいつの髪は」
「眞一の部屋で彼女の絵を初めて見た時の衝撃は未だに忘れられないよ。燃えるようなあの髪の毛の色が僕を虜にしたんだ。で、改めて写真を見せてもらって僕は確信した。この人こそ、僕の探していた女性だって」
「その歳で一人の女に絞るなんて、何か早すぎねぇ?もっと色んな女を知ってから、そういうセリフは言うもんなんじゃないの?」
「いや、何人見たって、誰と付き合ったって、きっと同じだ。とにかく僕には彼女以外考えられない。こういうの…」
しばらく間をおいて悟は噛み締めるように言った。
「運命って言うんだと思う」
「単なる初恋ってもんじゃねぇ?」
 そんな会話を交わしながら、二人は校舎の正面玄関を抜け、二階の渡り廊下を通って東館の美術室の前に辿り着いた。眞一が美術室の扉を開けると、中は美術部員の作品が壁面にズラリと展示されていた。悟は真っ直ぐに部屋の一番奥に掛けてある絵の前に向かった。そこには、長くウエーブの掛かった赤い髪の美少女が深緑色のワンピースを着て、ツンとシラケた表情で正面を向いた姿が油彩で10号のキャンバスに描かれていた。
「ああ、やっぱり素敵だなぁ」
悟はうっとりと絵に見とれていた。
「お前の評価の対象は俺の絵の表現力なのか、それともモデルの容姿なのか…」
「それは勿論…」
悟が最後まで言い終わらないうちに二人の背後からハスキーな女の声がした。
「遅っせーんだよ」
二人が振り返ると、そこには絵の中から抜け出たような真っ赤なウエーブヘアの一ノ瀬華凛の姿があった。しかし、彼女が身につけていたのは深緑色のワンピースではなく、首周りに大くき無造作にハサミで切り込みを入れ、ずり落ちそうな肩の部分を安全ピンで留めた白いTシャツに、黒いレザーの膝上30センチのミニスカートと編上げのロングブーツだった。
「一体今何時だと思ってんの?朝一の美術室って、マジ暇なんですけど…」
一ノ瀬花凛は眞一を睨みながら言った。
「…ってか、あたし今日は昼からバンドでライブに出るし、セティングとかリハとか超多忙なのに、昨日帰り際に先輩が『明日の朝8時半に絶対ここに来い』ってしつこく言うから…」
「すみません、僕が道に迷ったものですから…」
眞一が言い訳をする前に悟がそう言って詫びると、華凛は何も言わなくなった。
「忙しいのに待たせて悪かったな、一ノ瀬。それじゃあ手短に紹介しよう。これは、俺の従兄弟の乙倉悟。俺と同い年だが、頭の中身は俺とは全然違って、これでスポーツ万能な上に性格も申し分ないという、俺の自慢の従兄弟だ。悟、こちらは一ノ瀬華凛さん。この絵のモデルを引き受けてくれた、我が校随一の美女だ」
「はじめまして。この絵を拝見して以来、是非一度お目にかかりたいと、ずっと思っていました。今日はお会い出来て本当に嬉しいです」
少し顔を赤らめながら、しかし真っ直ぐに華凛を見詰めて、悟は挨拶した。
「あっ、どうも…」
素っ気なくそう言ってペコリと頭を下げると、花凛はすぐに悟から目を逸らした。
 微妙な空気がその場に流れ、眞一が何か言おうとした時、美術室のドアが開いて、数人の美術部員が慌てて駆け込んで来た。
「早川部長!大変です。昨日の風で外に立てかけてあった美術展の看板が倒れて、ひどいことになちゃってます!」
「マジか?くっそー、俺の力作が…。ちょっと待ってろ、すぐ補修に行く!」
慌てて奥の画材室からから絵の具や工具の入った布袋を取ってくると
「ゴメン、ちょっと待ってて…」
と言って、眞一は外に飛び出して行き、部屋の中には40点余りの油絵と、悟と華凛と二人を包むシンとした空気だけが残った。
 独り言のような小さな声で
「本当に遅いんだから…」
と、眞一が出て行ったドアの方を見たまま、華凛がさっきと同じことを、しかし今度は少し可愛い口調で言った。
「本当にすみません。去年も来たから、道は大丈夫だと思っていたんですが…」
「ウソ。今日は、あなたあたしより先に来てたじゃない」
華凛は急に悟の方に向き直って真顔でそう言った。
「えっ?」
悟は驚いて華凛を見た。
「だって、目立つんだもん、その制服。正門の前でずっと本読みながら待ってたでしょ?2階の軽音部の部室から見て、すぐ分かったわ。早川先輩があたしに是非会わせたいって言ってた人があなただってこと」
そっけない態度を取りつつも、眞一はしっかり根回しして悟のためにこの場をセッティングしてくれていたのだ。
「そっ、そうなんですか?でも、一ノ瀬さん…」
「華凛、でいいよ」
「でも、…かっ、華凛さん。華凛さんは、いつ校内に入られたんですか?僕があなたの姿を見落とすはずはないのに…」
眞一をかばうための嘘を見破られた事と、不覚にも華凛を見落としていた事に二重に動揺しながら、悟はそう尋ねた。
「あたし、今日は裏門から入ったの」
「そ…そうでしたか」
悟はサラサラの前髪を手の甲で払いながら汗を拭いた。
「随分待ったわ」
「すみません」
「もう、来ないかと思ってた…」
「…え?でも、華凛さんは2階の窓から僕のことを見てたんでしょう?」
「ええ、そうだけど…。そうよね、でも何でかな?やだ、あたし何か変なこと言ってるわね…」
そう言いながら、華凛も悟と同じように手の甲で額を押さえた。
「とにかく、お待たせしてすみませんでした」
華凛は黙って頷いて、しばらく窓の外を見ていたが不意に
「ねえ、今日1時から体育館であたしのバンドがライブやるんだけど、よかったら聴きに来て」

と、悟に言った。
「え?良いんですか?」
「勿論。お客は一人でも多い方が盛り上がるし…。それに、自分で言うのも何だけど、あたしの曲、なかなかイケてるのよ」
「華凛さんの曲?」
「そう、全部オリジナルなの」
「それって、歌詞は?」
「曲も歌詞も、あたしが作ってるの」
「すごいですね!華凛さん、シンガーソングライターなんだ」
「そんな、カッコイイもんでもないけど。単に、人の曲、上手くカバーできないだけ」
「そんなの関係ないですよ。すごいな、楽しみだな」
「特にね、ラストの曲はオススメ。魂震えるわよ」
「ラストの曲?何ていうタイトルですか?」
 開けた窓から秋の風が心地好く二人の頬を撫でて行った。
「destiny」
  壁の時計に目をやると
「じゃあ」
と言って、華凛は後ろ手に手を振って、足早に美術室を出て行った。
 すると、それと入れ替わりに
「ごめんごめん、看板ひどいことになてて…」
と、眞一が部員たちを引き連れて戻ってきた。
「どう?うまくいったか?」
華凛の後ろ姿が見えなくなったことを確認してから、眞一は悟の耳元でそう囁いた。
「ああ、午後のライブに誘ってもらったよ」
「え?それだけ?」
「ああ」
「何かさぁ、今どき連絡先の交換とかそういうの、普通しねぇ~?おまえ、あんだけ一ノ瀬一ノ瀬って騒いでたのに」
「いや、これでいいんだ」
「は?」
ぽかんとした顔をしている眞一に悟は
「これだけ話せば十分なんだ」
と満足そうに頷いた。
「彼女は、大事なことは全部話してくれたよ」
「あんな短時間に?何だ、それ?」
「僕には分かったんだ」
「何が?」
まどろっこしい謎々のような悟の言葉に、眞一はイライラしながらそう尋ねた。
「彼女も気づいたんだってことが」
どこまでも続く理解不能な悟の返答に、諦めたように眞一は大きなため息をつき、ふっと時計に目をやった。
「あれ?今の時間は受付の担当は誰だ?」
傍にいた部員に尋ねると
「例の3人組です」
眞一の絵とは反対側の壁にかけられた、数枚の美少女アニメのキャラクターのイラストを見ながら、メガネをかけた小太りの男子が、憎々しげにそう答えた。
「あいつら、誰も来てないじゃないか」
眞一も、同じような顔をして言った。
「本来なら漫画研究会に入るべきあいつらに『先輩たちとアニメの好みが合わないから、どうしても入部させてくれ』と泣きつかれて、渋々入部を了承してやったって言うのに、この、一年で一番人手の必要な文化祭当日に、当番そっちのけであいつらは一体何をやってるんだ!」
「何か、四階の空き教室を使って占いの館とかいうのをやるんだって、何日か前に言ってました。やつらは、オカルト同好会も掛け持ちしてるそうなんで…」
別の部員がそう言った。
「何だ?そのオカルト同好会ってのは?うちの学校はどんな同好会でも認めるんだな。…山ちゃんちょっと受付頼む。俺はあいつらを連れ戻して来るから」
そう言うと、眞一は肩をいからせて美術室を出て行った。悟も黙ってその後に続いた。


 四階は人影まばらで、文化祭とは思えない程ひっそりとしていた。その階の廊下の一番奥の部屋の前に黒地に緑と紫色で「占いの館」と書かれた看板が立てかけてあり、窓には暗幕がかかっていた。半分開かれた後ろの扉から眞一と悟がそっと中を覗き込むと、そこには蝋燭型のLEDライトが置かれた机があり、そこに男子生徒と女子生徒が対面して座り、何か話していた。女子生徒の後ろには数名の取り巻きがいて、二人のやりとりを興味深そうに見守っていた。その奥についたてがありヒソヒソ話し声も聞こえてくるので、どうやら他にも何人かの生徒が部屋の中にいる気配がしたが、灯りがほの暗く、部屋の中全体は見通せなかった。
「うーん、そうだな、君は一言で言うと人から愛されたいとか褒められたいっていう気持ちは強いけど、その反面自分に自信が持てなくて時々クヨクヨ悩んだり自分を責めたりするタイプだよね」
鼻にかかったしゃがれ声の男子の声に、相手の女子は
「え?そうだけど何で分かるの?」
と驚いて尋ねた。
「それでいて、大胆な面もあるけど、意外と繊細な面も持ち合わせてるよね」
「そうそう、早紀ってそういうとこ、あるある」
取り巻きの女子達が一斉に声を上げた。
 このやりとりを聞きながら悟は
「バナーム効果を狙った、極初歩的なやり方だな」
と呟いた。
「って言うか、そんなの大抵の人間には当てはまるような一般的なことばっかりじゃないか」
と眞一も素っ気なく言った。
「それと、君には自分でも気づいていない特別な才能があるんだけど、それが何なのか分からなくて、しかもその活かし方を知らなから、何だかいつも物足りなくて、イライラした自分を持て余しちゃうんだよね」
「そうなの、いつもイライラしてる」
「そう、それは君が皆とは違う特別な人だって証拠なんだよ」
「え~、そうなの~?」
女子生徒は両手で頬を押さえた。
「こうやって根拠のないことを並べ立てて相手の自尊心を刺激して確証バイアスを高めると、これ以降何を言われても当たってるような気分になるんだ」
「悟、お前詳しいな」
「ああ、以前社会心理学に少しだけ興味を持った時期があってね」
 二人がいることに気づかず、男子生徒は尚も話し続けた。
「でもなぁ…」
「え?何?」
「あっ、いや、何でもない」
「何よ、言ってよ。気になる~」
「い、いや、多分、これ聞くとショックだから…」
「何なの?やだ、余計気になる」
「いや、いいよ、忘れて…」
「良いから言ってよ。お願いだから」
 しばらく黙って考えた後、男子生徒はおもむろに言った。
「君さ、最近体調悪くない?」
「え~、そうだなぁ、別にそれほど…、あっ!でも、そう言えば最近時々頭痛が…」
「あ~、もうそこまで来てるか」
「え~、なに~?」
女子生徒は、泣きそうなほど不安げな声を出した。
「取り敢えず、すぐに大きめの病院に行ったほうが良いよ。で、精密検査を受けるんだ。でも、大病院は大抵予約で待たされるからな…。この手の病気は手遅れにならないうちに早く何とかしないと」
「え~、ヤダ~」
 女子生徒は涙ぐんだ。
「そうだ、これ、俺の描いた守護天使の絵なんだけど…、これを枕元に置いて寝たおかげて、難病が自然に完治してたっていうケースも今まで何例かあったな」
「それ、ちょうだい!」
「え、でもこれ描くのすごい大変だったからな…」
「じゃあ、売って!いくらで売ってもらえるの?」
「そうだなぁ。特殊な絵の具を使ってて紙も最高級のだし…」
 女子生徒は手提げカバンの中から財布を取り出し千円札を数え始めた。
「仕方ない、じゃあ、可哀想だから3000円で良いよ」
 女子生徒が財布から千円札3枚を取り出そうとした時
「おい桜井、お前いい加減にしろよ」
と、背後から眞一が声をかけた。
 悟が教室の前側に回って壁の照明スイッチを押したので、部屋の中は一気に明るくなった。桜井と呼ばれたその生徒は、黒い布を頭から被った小柄な少年だった。
「ぶ、部長!」
桜井は、驚いて布を深く被って、小さな体をより一層縮めた。
「さっきから一部始終を見させてもらったが、お前がやろうとしてることは、まるっきり詐欺行為じゃないか。こんなことが学校側にバレたら、お前即刻停学処分だぞ。幸い未遂に終わったから良いようなものの…」
 女子生徒達はポカンとした表情で二人のやり取りを見ていた。
 黒板の前から悟が女子達に語りかけた。
「これは、非常によくある詐欺の手口ですから、皆さん今後はこういうことには気を付けて下さい。今までに何が起こったかざっと復習すると…」
そう言いながら悟は器用に黒板に図を描きながら説明を始めた。
「まず、『愛されたい』とか『褒められたい』、『自信がなくて時々落ち込む』といった誰にでも当てはまる性格特徴や『大胆かつ繊細』といったどちらとも取れる要素を断定的に言うことによて、思い当たるという感情を相手に植え付けます」
悟は淀みなく説明を続けた。
「次に、『自分でも気づいていない才能』とか『特別な人間』という言葉によって相手の自尊心を刺激します。人は誰でも自分は未知の力を持つ特別な人間でありたいという願望がありますから。特に我々の年代にはその傾向は強いので、この人自分のことを分かってくれる、という実感がここで生まれます」
 女子達は、悟の板書に釘付けになっている。
「そして、この後おもむろに不安を掻き立てるようなことを言いました。しかもこの場合、かなり言い渋ったことで一層相手の不安を煽っていました。この辺はなかなか上手いと感心してしまいましたが…。とにかく、一度信頼させてその後いきなり不安感を与えられると、人間は案外簡単にマインドコントロールされてしまうものなのです」
「マインドコントロール?」
「そう、マインドコントロールカルト教団の勧誘や悪徳商法、その他の詐欺行為は大抵これに近い仕組みです。ただ、こういう事に引っかかりやすい人とそうでない人がいますから、それを覚えておいて下さい」
「それって一体…?」
「それは、自分のことを人任せにしないということです。人間は生きていく上で誰でも大なり小なり不安を抱いています。その不安感に付け込むのが今のような詐欺行為です。自分がどんな人間で今後何をすべきなのか、自分自身でしっかり考えることです。体の不調にしても、まずは自分の身体で感じることです。まずは生活習慣の乱れを正してみて、それでも症状が改善しなければその時点で受診すれば良いのです。もっとも、今の場合は、無理に訴えを引き出されたという感じでしたが…」
 女子生徒は恥ずかしそうにスカートのプリーツを触りながらうつむいた。
「本当の答えは自分自身が一番良く知っているのですから、それをどんな人間かも分からない相手に安易に委ねてはいけません。もっと自分自身をしっかり見詰めて。そして自分の素直な感覚を信じてみてください」
「はい」
女子達は悟をうっとりと見詰めて、声を揃えて返事をした。
「さすがK高トップクラス。すごい説得力だ」
眞一は感心してその様子を見ていたが、改めて桜井の方に向き直り
「大体お前、今日が何の日か知ってるか?」
と嫌味っぽく尋ねた。
「え?ぶ、文化祭…ですよね?」
「文化祭というのは、俺たち文化部員にとっては年に一度の貴重な発表の場だろう。お前、今の時間、美術展の受付当番なの覚えてたか?」
「あっ!いけねぇ…」
「お前らもだよ!」
衝立の向こうに向かって眞一が大きな声をかけると、他の二人の美術部員も申し訳なさそうに顔を出した。
「桜井、お前こんな事して恥かしくないのか…」
「…」
桜井は黙ったままうつむいた。
「お前、自分の絵に謝れ」
「え?」
桜井は、驚いた顔で眞一を見上げた。
「これはお前が命を吹き込んだこの世に一枚の絵だろう。こんなことに使われて、絵が泣いてるぞ」
眞一は、桜井が先程女子生徒に売りつけようとしていた、A4版の紙に書かれた守護天使の絵をそっと取り上げて言った。そこには美少女アニメ風の天使のイラストがアクリルで描かれていた。
「お前の画風は俺の趣味とは違うけど…。でも、お前入部の時に言ったよな『俺、本気で漫画家目指してますから』って。ただ既存のアニメイラスト模写してるだけじゃつまらないからって、漫画研究会じゃなく美術部に、お前無理矢理入って来たんじゃないか」
 桜井は眉を下げ口をへの字にして、いかにも情けない顔をした。
「漫画は、今や日本が世界に誇る確固たるアートの一ジャンルだと俺は思ってる。それが何だ、絵の魅力そのものではなく詐欺商法で人に絵を売りつけようなんて、これは芸術への冒涜以外の何者でもない。お前、もっと自分の絵にプライド持てよ」
眞一は必死で桜井に訴えた。
「お前は漫画家になるんだろう?だったら、もっと真剣に作品と向き合えよ。こんな所で訳のわかんないことやって時間を無駄に使ってる場合じゃねぇだろ」
 桜井は泣き笑いのような奇妙な表情で
「俺の漫画家になりたいって夢を真剣に聞いてくれるのは早川先輩だけです。他の皆はそんなのなれっこないって、最初から決め付けてかかるけど、先輩はそうじゃない」
「まあ、俺も本気で画家を目指してるって言ったら、大抵のヤツは同じような反応をするから、それは分かるよ」
「先輩、すみませんでした!」
桜井は床に土下座した。
「そんなことやってる間には、さっさと美術室に戻れ。山岡達が今、代わりに受付やっけくれてるんだから」
「はい!」
「お前らもな!」
衝立の後ろの美術部員二人にも眞一は呼びかけると、二人も小さく返事をした。
「それから、この占いの館は、速やかに撤収した方が良いと思います。こういう活動が明るみに出たら、みなさん全員に何らかの処分が及ぶかもしれません。もし、これまでにも何枚か絵を売っているのなら、それは速やかに返金すべきですね」
幸いまだ午前の早い時間だったため、来客はこの女子生徒が初めてだったと、中の一人が言った。気配を殺してずっと衝立の影にいたオカルト研究部の部員は、男女含めて総勢11名もおり、全員が非常に大人しそうな一年生だった。

 

「何か妙なことになって来たな」
眞一は隣を歩く悟に小声で言った。
「まあ、仕方ないよ。彼らすっかり手持ち無沙汰になったんだから」
桜井と2人の美術部員が走って美術室に戻った後、それに続いて階段を降りようとする眞一と悟の後ろを、オカルト研究会のメンバーと詐欺被害に遭いかけた女子生徒達が皆でゾロゾロ付いて来ていた。
「あのK高の人、超カッコイイ」
「早川先輩の熱いトークに僕は感動したよ」
二人から少し離れた所で、その静かな集団はヒソヒソ二人の噂をし合っていた。
「ま、取り敢えず絵を観てもらうか」
眞一は苦笑いを浮かべた。
 美術室に戻ると神妙な面持ちで、桜井が受付に座っていた。
「先輩、先程はどうも…」
「もうそれは良いよ。それより、お前の仲間が全員絵を観に来てくれたから芳名録に記帳してもらって、その後皆に絵の説明とか、頼んだぞ」
「はい」
「それと、お前がいない間代わってくれてた分、夕方のヤマちゃんの時間、お前が代わりに受付しろよな」
 少し困った表情の桜井を見て、山岡と呼ばれる小太りの男子が言った。
「いいよ、いいよ。桜井は夕方はいつも時間ないもんな」
「そうなのか?」
「はい、母親の仕事が遅番の時は、俺が5時半までに妹を保育園に迎えに行かないといけないもんで…」
「お前の妹、そんな小さいのか?」
「ええ。ほら、この子です」
 桜井はポケットからスマホを取り出して、待受画面を眞一に見せた。そこには4歳ぐらいの目が大きくて色白のボブカットの女の子が映っていた。
「かっわいいなぁ」
眞一は心から感嘆の声をもらした。
「でしょ?もう、何やってもホント可愛くって。この子が生まれてから、俺の人生変わったって言うか、やっと守るべきものが出来たっていうか…」
「すっげー、シスコン」
「はい、自分でもそう思います。この子がいつかどこかの知らない男に取られちゃうのかと思うと今から涙が出そうで…」
「まるで、結婚式前夜の父親の心境だな」
眞一は呆れて言った。
「今まさに、うちの父がそんな状態だよ」
悟もその話題に加わってきた。
「うちの姉は母の連れ子だから父とは血が繋がってなくて、思春期の頃は父に懐かなくて随分苦労したらしいけど、その分父の思いい入れも一入で、20代前半まではほとんど男っ気のなかった姉に急に彼氏が出来て、あれよあれよと言う間に結婚の話になっちゃったから、父はすっかり動揺しちゃって、一時はホント大変だったよ」
「それにしても藍子姉、ある意味すげえよな。相手の男は藍子姉が初恋の人だったんだろ?」
「そうらしいよ。去年の年始に小学校時代の同窓会をした時、10数年ぶりに再会して、そこで一気に火が付いたらしい」
「へー、すげー、何かそれって」
「運命だよね」
悟は、その日二度目の同じ言葉を、前と同じく深く噛み締めるように言った。

 

「ああ、今日は本当に楽しかった!」
 駅へ向かう道の途中で、悟が珍しくはしゃいだように大きな声でそう言った。
「もう、華凛さん、最高!」
「あいつ、わりと歌上手かったよな」
「歌も上手かったけど、それ以上に曲と歌詞が良かった。あの歳であんな歌作れるなんて、天才だよ」
悟は、まだライブの興奮が抜けきっていないようだった。
「悟は本当に一之瀬にぞっこんなんだな」
眞一は、改めてそう言った。
「藍子姉は結婚するし、桜井には可愛い妹がいるし、俺の理想の美少女もどこかにいないかなぁ」
「改めて聞くけど、眞一の理想の女性って、どんな人なの?」
「俺の理想…、まあ、一番近いのは…」
一瞬静けさがよぎった。
「プロセルピナ。ベルニーニの作った彫像だけどな」
「彫像…。実在する人間でない所が何だか眞一らしいね」
「まあ、これはあくまでも雰囲気の問題なんだけど、儚げで可憐、かつ艶かしく官能的な、少女と女の両面を併せ持つ女性が俺の理想…かな。何か、言葉では上手く言えないんだけど、出会ったらきっと分かるはずなんだ。昔っからイメージはいつも頭の中にあるから」
「そうか、眞一もそういう思い込みの強い所があるんだね。やっぱり従兄弟同士だからかな、僕達」
「そうだな」


二人はそのまま言葉少なに駅の構内に入った。改札を抜けた所でふと眞一が
「なあ悟、あの制服どこの学校?」
と尋ねた。眞一の視線の先、二人の30m程前を、薄めのグレーに白の2本線のセーラー服姿の少女が歩いて行くのが見えた。
「え?あの制服…、さあ、どこかな。僕は初めて見るデザインのような気がするな」
「そうだよな」
 電車通学の二人は、いつも駅で様々な制服を着た他校の生徒を目にすることが常だったが、そのグレーのセーラー服には二人共全く見覚えがなかった。
「最近は私服の学校に、市販の制服を着て通学してる学生もいるしな」
眞一がそう言って納得しかけた時
「乙倉くーん」
と遠くで悟を呼ぶ声が聞こえた。声の方を見ると、そこには悟と同じK高の制服を着た、色白で線の細い、いかにも優等生風のメガネをかけた男子生徒がいた。
「ああ、会長」
悟が爽やかな笑顔で答えると、その男子生徒はにこやかに近づいてきた。これが今朝眞一が話題に上げた、K高生徒会長の佐野博人だ。
佐野は、眞一に軽く挨拶すると、ニコニコしながら真一とは反対側の悟の隣に来て、歩きながら色々話し始めた。
「来週のうちの文化祭の件だけど…」
「ああ、もう来週か。確か生徒会では『世界の海洋汚染に対する我が国の取り組みと今後の展望』ってテーマのパネルディスカッションをするんだよね。今からでも何か手伝えることがあれば、僕も協力するよ」
「ホント?乙倉君。嬉しい!」
佐野は、本当に嬉しそうだった。
(一ノ瀬のこと知ったら、きっとこいつ凹むだろうな)
 佐野の顔を横目でチラッと見ながら、複雑な人間模様に思いを巡らせていた眞一の足元で、何か軽い金属のつぶれる音がした。それは路上に落ちていたアルミ缶が眞一の靴底で踏み潰された音だった。アルミ缶は、眞一の靴底にガチッとはまり込んで、次の着地点を踏んだ。路面はよく磨かれた大理石調のタイルで、眞一は気持ち良いくらい大胆に、その日三度目の転倒をした。
「…痛ってぇ…。何で、こんな所にこんなもんがあるんだよ!」
靴に食い込んだアルミ缶に向かって忌々しげに、転んだ痛さと恥ずかしさをごまかすかのように大声をあげる眞一の目の前に、その時グローブのような分厚い手が差し伸べられた。
「眞ちゃん、大丈夫かい?」
そう言われて見上げた眞一の視線の先には、ガッチリとした固太りの男子の優しい顔があった。
「亀ちゃん」
眞一は、その分厚い手に助けられて、ノロノロと起き上がった。
「亀山君。久しぶりだね」
悟と佐野も、この亀山には面識があった。
「H高柔道部での亀山くんの活躍は、うちの高校でも有名なんだよ」
佐野が声を弾ませた。
 スポーツ推薦でH高に入った亀山は、悟や佐野の中学時代の同級生であり、眞一とは同じ町内に住む幼馴染みでもあった。
「亀山君、今、部活帰り?」
 たまたま同じ駅に向かう4人の高校生は、お互いの近況をザックリと報告しあった後、二列で歩きながら雑談に花を咲かせた。
 久しぶりに旧友との再開を喜んだ佐野が、文化祭の研究テーマについて熱く語ると
「僕は、両親が沖縄の出身ということもあって、子どもの頃から海が大好きなんだ」
と亀山は言った。
「良かったら、三十年前と今の珊瑚礁の写真を父から借りて持って来ようか?昔の珊瑚礁は今のとは全然違って、物凄くカラフルなんだ。並べて比較すると、海洋汚染の実態がハッキリ分かると思うから」
と言う親切な亀山の提案に
「わぁ、それはすごくいいアイデアだ!」
と、佐野は終始ニコニコしている。 
 亀山は、同い年だが不思議と落ち着いた雰囲気があって、小さい頃から何かと眞一の相談にのってくれたりしていた。この四人が一堂に会するのは初めてだったが、眞一は、幼い頃よりもっと前から皆のことを知っているような、不思議な感覚を覚えた。

 

 話しながら、四人はやがて駅に到着した。
「今日これから僕達は、2駅先の駅で電車を降りて、姉の結婚式の写真の前どりを観にロイヤルホテルに行くんだ」
悟が二人にそう言った時、佐野と亀山が話している声のすぐ傍で、眞一は何か微かな鈴の音を聴いたような気がしてふと立ち止まった。
「あれ?眞一どうした?」
少し前を歩く悟が振り返った。
「いや、何でもない」
不思議な感覚にとらわれて、眞一はしばらくその場に立ち尽くしていた。
(あの音。どこかで聴いたことがあるような、涙が出るほど懐かしいような、この感覚)
 眞一がそう思った瞬間、ホームの反対車線に電車が到着した。沢山の人が乗り降りする雑踏の中で、眞一は再びその音をすぐ耳元で聴いた。すれ違ったのは、先程のグレーのセーラー服の少女だった。少女は眞一の横を通り過ぎ、少し離れた車両に乗り込んだ。少女の後ろ姿はスラリとして、清楚なセーラー服を一層清潔に見せていた。背中の中程まである真っ直ぐな髪の毛は少し薄めの黒褐色で後頭部で髪の一部を小さな髪留めで留めていた。
 眞一は少女の後ろ姿をずっと目で追った。混雑した車両の中で少女は向こうを向いて扉の直ぐ傍に立った。西日が光の帯を作り、少女の髪の毛を金色に照らしていた。白いスカーフの先端を気にしながら少女がドアの方に振り向いた時、眞一ははっきりと彼女の顔を見た。
「でさぁ、英語の杉浦先生、その時僕に何て言ったと思う?」
 発車のベルが鳴った。
「眞一、おい!それ逆方向の電車!」
 閉まる直前のドアに滑り込んだ眞一を乗せて、電車はゆっくり動き始めた。
「”It`s your destiny”だって。参っちゃったよ」
 佐野は、昨日の英語の授業でのおかしなエピソードを、いつまでも楽しそうに話し続けていた。

  

       『運命の船』 完

 

第18章 門出

第18章 門出
 早々とベッドから起き上がると、男は早速描きかけのキャンバスに向かった。絵の中のターシャに、彼の脳裏にまだ鮮明に残る夢の中の彼女の残像を投射するかのように、男は絵を描き始めた。流れる髪の毛の一本一本を丹念に書き込み、やがてその白いうなじや、熟したザクロの実のような艶やかな唇に、夢の中で見た色を塗り重ねていった。まるで愛撫するかような筆使いで、男はそこに彼の理想の美を描き出していった。そして、その時彼はあることに気付いてハッと息を飲んだ。その瞬間、ノックが聞こえ、ターシャが現れた。
「僕は分かったんだ!」
いきなり男はそう言って両手に絵筆とパレットを持ったままターシャに詰め寄った。いつも冷静なターシャも男の尋常ではない勢いに圧倒されて、一歩後ずさりながら
「ど、どうしたの?一体」
と、吃りながら彼に尋ねた。
「たった今、僕は分かったんだ!」
尚も興奮し続ける男に
「だから、一体何が分かったというの?落ち着いて話して頂戴」
と、ターシャは世紀の大発見をした気分でいる子どもをなだめる母親のような口調で男をいさめた。
「僕は、自分の生まれる理由が分かったんだ!」
その言葉にターシャも瞳を煌めかせた。
「そう!それは良かったわ。おめでとう。で、それって一体何だと分かったの?」
「それは…それは…」
男は一瞬、口ごもりながら、丁寧に言葉を選んで言った。
「僕の生まれる理由、つまり僕の使命は、美を追求し、その美に永遠の価値を与えるという事だ!」
彼は、そう高らかに宣誓した。
「なるほど…、で、具体的にはそれはどういうことなの?」
ターシャはそう言って、男の言葉を促した。
「僕にとって、一番の美の対象は女性だ。女性の美を、その内面から滲み出る侵し難い気高さを、永遠かつ唯一の存在として、キャンバスの上に留めていきたいんだ」
 それを聞いたターシャは、長い髪をかき上げながら小首を傾げて
「そう言えば聞こえは良いけれど…、要するにあなたは単なる女好きとして、次の生を生きるつもりだと言うのね」
と、呆れた顔で言った。
「失敬な。そんな安直なものじゃないんだ!なぜならそこには愛がある。僕は女性美の中に愛を見出したんだ」
「何よ、あなた愛なんて知らないって言っていたじゃない」
「それが遂に分かったんだ。僕にも愛するという感情が」
「どういうこと?」
ターシャは、眉をひそめて怪訝そうに男を斜めから睨むような目で見た。
「つまり、だな…」
男は咳払いをして、襟元をちょっと正して、そして改まった顔でターシャを見詰め
「ターシャ、聞いてくれ。僕は…僕は…」
奇妙に上ずった声でそこまで言った後、少しの間を置き、ようやく思い切って男は切り出した。
「僕は、君を愛しているんだ」
 するとターシャは、目を丸くして一瞬動きを止めたが、その後すぐにいつものペースを取り戻し
「あら、そうなの」
と、淡々と反応した。
「あら、そうなの、って…」
出鼻をくじかれたような思いで、男もそこで黙ってしまい、二人の間に妙に気まずい空気が流れた。
「それは、それとして…」
少しの沈黙の後で、仕切り直すようにターシャが口を開いた。
「もうすぐこの航海も終わり、船が港に着くわ。あなた方乗客は陸には降りずに、一人乗りの小さな小舟に乗り換えて海と繋がる海峡を超え、その先無数に別れる支流を上って行くことになりますが…大丈夫、舟が自然にあなたを行き着く場所まで運んでくれるから。ただ、その一人乗りの舟は体を丸めて寝転ばなければいけない程狭く、しかも大抵は頭の方を先にして進むから、あまり乗り心地は良くないと思うけれど。でも、皆生まれるときはそうなのだし、それも一瞬のことですから、我慢するしかないわ。それに、少しくらい心細い思いをしても、それも生まれ落ちたと同時に直に忘れていくのだから…」
「忘れる?」
男は、ターシャの最後の言葉にだけすぐに反応した。
「すると、僕は生まれた後、君のことは…」
「当然忘れるわ、綺麗さっぱり」
いかにも清々しそうに、ターシャは言った。
「そ、そんな…」
「やっと、分かったのに、自分の存在理由が…。そして愛するという感情が…」
男はうろたえた。
「でも、仕方ないわ。最初からそういう約束なのだし。第一、私を愛したところでどうにもならない。私に恋愛感情がないことぐらい、あなたは知っているでしょう?」
キャンバスに描かれた絵を眺めながらターシャは言った。
「あちらに生まれてしばらく経ったら、きちんとした人間を相手に、もう一度その感情を経験すれば良いのよ。今度はきっと上手くいくわ。あなたの気づいた魂の存在理由が、どんなものだろうとそれはあなたの自由ですし…、私個人としては、あまり感心できるテーマではないけれど…。とにかく、この旅はもうすぐ終わってあなたは私のことも何もかも忘れてしまうのだから、そのことは気にしなくていいのよ」
奇妙に説得力のある口調で、ターシャはそう言った。
「気にしなくて良いと言われても…」
男はしょげかえった子どものような目で、うつむいて恨めしそうにターシャを見上げた。
「そんなの嫌だ!」
「何を今更…。最初に約束したでしょう?『君を困らせるようなことはしない』って、あなた言ってたじゃない」
「それは、そうだが…」
「それに、あなたの言うその『愛』という感情にしても、それってどうなの?と私は思うわ。だって、あなたが愛しているのは女性美、それはつまり私の容姿でしょう?我々の場合、それは普遍的なものだけれど、人間としての一生における美の留まっている時間なんて、ほんの一瞬のものでしかなく、それは、所詮幻影のようなものに過ぎない。例えば、私が人間の女性だったとして、年を取って皺だらけの老人になっても、あなたは私のことを愛し続けてくれると言うのかしら?」
挑みかけるようにターシャはそう言った。
「うーん、そうだな。それは、…愛し続けるように努力するだろうな…」
「何なの、その努力って…」
「だって、仕方がないじゃないか。僕の愛した君の今のその容貌は変わってしまっても、そこに君という人が存在するのなら、その皺だらけの君の上に今の完璧な君の姿をなぞらえて、そこに美を見出そうという努力をするというのが、一旦『愛』を口にした者としての責任というものではないだろうか」
「あら、その辺、案外真面目なのね…」
妙に拍子抜けしたようにターシャは大きく右肩を落として見せた。
「いいかいターシャ、愛とはつまり感動なんだよ。僕は君の美に心からの感動を覚えた。そして、それが一時的なものでないとうことが、僕には分かるんだ。僕は今この瞬間から、君の美の下僕になった。その美が永続的であれ一過性のものであれ、そんなことはどうだって良い。要は、君の美は僕の心に決して消えない感動をもたらした。感動とは、確かに一瞬の心の動きなのかもしれない。でも、僕は嬉しいんだ。こんな風に心が動いた、愛という感情を抱けたということが。この喜びは、誰に何と言われようが、例え君に認めてもらえなくても、僕だけの大事な感情なんだ」
「どうして、それが一時的なものではないと言い切れるの?」
「それは、だな…。まあ、これは勝手な自己分析に過ぎないのかもしれないが…。僕は、一旦これと決めたものには心底のめり込む質で、それが絵に向かったから前回の生では売れない絵描きをやっていた訳だが、この性質は一度生まれ変わったぐらいでは変わらない気がするんだ。そして、今僕は絵に対して長年抱いていたのと同じようなこだわり、…まあ、君に言わせれば執着ということになるのだろうが、その強いこだわりを君に抱いている。離れたくない、ずっとこのまま君と一緒にいたいという強いこだわりだ。そのこだわりがかなり強いものだということが、自分という人間を長くやってきた経験上、僕には分かるんだ」
「でも、そんなこだわりを持たれたって…」
少したじろぐターシャに向かって、男は穏やかに言葉を続けた。
「ああ、分かってる。君はそもそも恋愛感情を持たない、水先案内人としての職業的な使命感という優しさで僕のことを何くれとなく…まあ、かなり放置気味ではあったが…世話を焼いてくれてはいたが、僕がこの船を降りてしまえば、ただの過去の乗客の一人になってしまう。それは、最初から決まっていたことだから、そのことで、今更君を困らせようとは思わない。この船が港に着けば、僕は黙って船を降りるつもりだ。ただ、一つだけどうしても残念でならないのは、君のことを、そして君を愛したというこの感動さえも、何もかも忘れ去ってしまうということだ。僕がかつて母親に抱いていた憎しみの感情のようなものが残ったまま生まれ変わったら、確かに大変だから、そうやって全部一切合切忘れてしまう仕組みになっているんだろうが、でも、それにしても、そこだけは譲れない。僕は決して君の事を忘れない。ターシャ、今後生まれ変わっても、僕は君を愛し続けるだろう」
「そう、それならそう思っておけば良いわ。でも、きっとそんなの無理よ。支流に入ってその川の水に過去の記憶は消されてゆくのだから、一滴でも首から上に水がかかったら、途端に全ては忘却の彼方よ」
「ありがとう、そこまで教えてもらえれば、絶対に濡れないように頭部を隠して船に乗ることにするよ」
「そんなことしても無駄よ」
一縷の望みを見出したかのように目を輝かせる男に、ターシャはクールにそう言った。
「それにしても、あなたって変な人ね。あなたのその『愛』は、決して報われないというのに、何でそんなに嬉しそうなの?」
「だから言ったじゃないか。愛とは感動なんだよ、ターシャ。僕は一旦この気持ちを経験してしまったから分かるけど…。ああ、君に何て説明すれば良いかな?…つまり、僕は今、目の前に君がいるということが嬉しいんだ。残された時間があと僅かでも、君とこうして愛を語らう…これは僕の一方的な独白な訳だが…、この時間がとても楽しいんだ。君に出会えて良かった。君がいてくれたことが嬉しい。愛ってそういう感情なんだ」
「それが例え一瞬でも?」
「そう、君の美は、瞬間を永遠に変える」
優しい目で、男はターシャにそう言った。
「何だか急に詩人みたいになっちゃったわね」
ターシャは呆れたように男を見詰め、その後一瞬彼女も優しい顔になった。
「それでは、そろそろ始めようか、名画の制作を」
そう言って男がキャンバスに向かうと、ターシャは黙って黒革のボディースーツを脱ぎ、白いシーツを身に纏ってアフロディーテに扮すると、男の前でポーズを作った。
 彼はその時、その時間を心から幸せだと感じた。そして、自分の感じているこの幸せな気持ちをほんの少しでも彼女も感じてくれていれば、と願った。

 こんな風にしみじみと誰かの幸せを願ったのは初めてで、そこで改めて愛とはそういうものなのかと男は気付いた。肉体の交合もままならず、残された時間も限られた、当に今この瞬間に感じている、ターシャに幸せな気持ちを感じて欲しいという、他に何の邪念もない純粋な想いに、彼は思わず涙ぐんだ。今自分にとって出来る最善のこと、それは彼女の美をえがくことだ。表面的な美を超えた、彼女自身も気付かないような内面の美を、キャンバスの上に残すことだ。そう念じて、男は絵を描き続けた。
  丸い窓から午後の光が柔らかく注ぎ、船室に男の言う永遠の時間が流れていった。


 旅立ちの朝、男は50号の絵を前に、一人船室に立ち尽くしていた。

 彼の絵は完成した。キャンバスの中には、紺色の闇の前に白く浮かび上がる美女の姿が、実物と見紛うばかりの存在感で平面の中に閉じ込められていた。
 男は当初、その絵に美の女神アフロディーテの名を付けようと考えていたが、実際に描き上がってみると、そこにはアフロディーテのような光輝く美というものとはもう少し違った美が存在しているということに、改めて彼は気がついた。
「この絵はペルセポネだ」
男は一人そう呟いた。

 冥王ハデスにさらわれて冥界の女王となった、乙女ペルセポネ。冥界の柘榴(ざくろ)の実を4粒食べてしまったことによって、地上に帰れなくなった彼女は、母の懸命の計らいによって一年のうちの四分の三は地上に出られるが、4ヶ月間は冥界に戻らなければいけなくなり、その間は母である豊穣の女神デメテルの嘆きによって地上には冬が訪れるという、ギリシア神話の中の乙女。

 俯き気味に白い衣に手をかける彼女の指先や半開きになった艶やかな唇には、禁断の果実を食べたことへの戸惑いと共に、未知の世界への一抹の好奇心も、観るものに感じさせた。

 成熟した大人の女性であるターシャをモデルにしていたにも関わらず、そこにはまだあどけなさの残る少女のような表情の彼女がいた。
 思い返してみれば、確かにターシャにはそういった二面性があった。全てにおいて卓越した強さは、アフロディーテよりも知恵の女神アテナに近いような雰囲気だが、その反面妙に幼い印象を男に与える瞬間もあり、それは、決まって彼女が未知の「愛」という感情について語るときだった、ということを、彼は懐かしげに思い出した。
「ありがとう、ターシャ。…愛してる」
男はそう呟いて、絵の中の彼女にそっと口づけた。そして深く目を閉じたまましばらくそこに立ち尽くした後、意を決して彼はまぶたを開き、船室の中を見回した。

 殺風景な室内には、ベッドと小さな椅子とテーブル替わりの酒樽の他には、趣味の良いランプと画材の他特に何もなかった。しかし、男が改めて画材を整理していると、壁とベッドの隙間に何かが落ちているのに気がついた。ベッドに腰掛けて隙間に手を入れ、落ちているものを取り上げて見ると、それは図書室で貸りた彼の幼少期の映像の円盤が透明のケースに収められているものだった。
「そうだ、これはジーナが下船するときに渡されたものだった。今のうちに返しに行かないと…」
そう思いながら彼がベッドから腰を浮かすと、その隙間から「カサッ」という乾いた音がした。それで、彼がもう一度その場所に手を刺し込むと、カサカサした袋が出てきた。
「これは確か…」
そう言えば、セブンウークス諸島で下船した際に、露店の女主人からそれをもらった事を男は思い出した。
「そうか、確か…希望の薬と…後、何とかと言ってたな…」
袋の中をまさぐると、レモン色の紙袋とピンク色の小さな小瓶が二つ出てきた。ラベルなどの説明書きは何もなかったので、とりあえずレモン色の錠剤を一粒、彼は口に含んでみた。その粒は見た目通りのレモンの、とても清々しい味と香りで、一瞬にして男はその薬の即効性を感じた。

 世界が今までよりもツートーン位明るく楽しいもののように彼には感じられた。そして、本来は悲しいはずのターシャとの別れも、何か楽しいことが始まる前のほんの一瞬の別離のような気が彼にはしてきた。
「とにかく、これを返しに行かないとな」
彼は勢い良く体を起こして部屋の外に飛び出そうとしたが、その時ドアの前でターシャと鉢合わせた。
「やあ、おはようターシャ。僕の女神様。今日はまた君は一段と美しいね」
もっと落胆しているであろう彼を想像していたターシャは、驚いて男に尋ねた。
「あなた、どうしたの?何だか人が変わったように明るくなったわね」
驚きと笑顔の混じった表情のターシャに男は
「ああ、前にセブンウェークス諸島の露店でもらっていた希望の薬を飲んでみたんだ。一粒で凄い効果だ。何だか、これから先何もかもがうまくいくような気分だよ。僕はちょっとこれを図書室に返してくる。何なら君も飲んでみると良いよ。凄く楽しいぜ」
ターシャに投げキッスして、男はスキップで廊下を駆けて行った。ターシャは半分呆れた笑顔でその後ろ姿を見送った。
 図書室でファイルを返却し、受付の女性と軽く挨拶を交わした後、男は早足で部屋に戻った。
「女神様。帰ったよ」
男がドアを開けると、中は何だか様子が違っていた。正確には、部屋の中ではなく、ターシャの様子がいつもと違っていた。
「ねえ、これってどういうことなの?」
ターシャは戸惑いを隠しきれずに顔を赤らめながら男に尋ねた。
「希望って、こんなにドキドキするものなの?」
そう言いながら、彼女は至近距離で男の顔をじっと見つめた。その瞳は潤んで、キラキラと輝いていた。
「君もあの薬を飲んだのか?」
「ええ、だってあなたがあんまり楽しそうだから、なんだか面白そうだなと思って。でも、私の場合はちょっと違うみたい。胸の奥が締め付けられるようで、ドキドキしたり、あなたがこれから船を降りるという事実が、何故か悲しくて仕方ないの」
 男は不審に思って袋の中を確認した。中の小瓶は、レモン色の方にはほとんど変化がなかったが、ピンク色の粒は半分位に減っていた。
「君、こっちを飲んだのか?」
「ええ、ピーチ味の方。美味しくて、つい4粒も飲んでしまったわ」
「こっちを行ったか…」
男はしばらく記憶を手繰ってあの女主人の言葉を思い出そうとした。そして、船が大きな振動を立てて港に着岸した瞬間、男は彼女の言葉を思い出した。
「ターシャ、君が飲んだそのピンクの粒。それは…」
「これは?」
「それは惚れ薬だ」
 二人は見詰めあったままその場に立ち尽くしていた。

第17章 誤算


第17章 誤算

 船室の丸い窓から柔らかな午後の光が射し込み、6497号室の壁の薄いグレーに少し温かみを持たせていた。そのグレーの部屋の壁際のキャビネットには、薄いピンクとクリーム色とレモンイエローと真紅のバラがたっぷりと活けられた翡翠色の花瓶が置かれ、その花々の前には白いシーツをゆったりと体に纏ったターシャが立っている。潔く顕になったなめらかな象牙色の左肩から伸びたしなやかな腕は胸の前で曲げられ、布のひだの隙間から半分のぞいた左の乳房をさりげなく隠していた。右肩の上で布を結ぼうとして細い首筋を伸ばして顔を右に向けたその口元は微かに開き、肩に掛かった琥珀色の髪の毛は光に透けて一部分だけ金色に輝いていた。
「君がこんなにも僕の理想のモデルそのものだとは、思ってもみなかった」
男は、10号のキャンバス越しにターシャを鋭い目で見つめたまま、そう言った。
「それは良かったわ」
実に素っ気なくターシャは答えた。
「疲れただろう?少し休憩しよう」
男がそう声をかけても、ターシャは
「別に、どうってことないわ。そもそも、疲れるという体感自体、私には無いのだし。どうせなら、もう少し続けたらどうなの?何せ、もうあまり時間がないのだから」
と言うので、そのまま男は絵筆を走らせ続けた。
 しばらく黙々と作業を続けていた男は、やがて
「フー」
と大きく息をついて、パレットと絵筆を傍の小さな木箱の上に置き
「ちょっと一息入れよう」
とターシャに声をかけて、近くに置いてある粗末な椅子に腰掛けた。そうして、しばらくムッツリと黙り込んでいたが、突然カッと目を見開いて、改めてじっと穴が開くほどターシャを凝視した。
「何で、今になってこんなに君を描きたい衝動に駆られるんだろう?」
男は対象を観察する目で、ターシャを凝視したままそう言った。
「さあ、何故かしら?あなたの内なる美的世界を投影するのに、私の容姿はきっと適しているのでしょうね」
ツルッとした喉元を前に突き出して大きく伸びをしながらターシャが答えた。その拍子に、右肩の上で軽く止められていた布はほどけ、バサリと音をたてて床に落ちた。
「あら」
そう言うと、ターシャはことも無げにその布を拾うと、軽くまとめてベッドの上に置いた。一糸纏わぬ姿で男の前に立った彼女の肢体はまるで少し華奢なギリシャ彫刻のようで、ある種の神々しさを放っていた。その姿に男は一瞬たじろいで、思わず壁際に一歩退いた。
「き、君…その格好は…」
 「何か問題でも?」と言わんばかりの表情で、ターシャは
「どうかしたの?私のおヘソ、これ、何の意味もないただの飾りみたいなものだけど…。何か変かしら?」
と、男の視線の動きを察知して、とぼけた質問を彼に投げかけた。
「僕が気になるのは、君のヘソではなくて…、ゴホッ!…エヘン…ェヘン!」
妙な咳払いをしながら男は慌てて視線を他に外した。
「その…恥ずかしく、ないのか?」
顔を赤らめて男は尋ねた。
「え?」
ターシャは目を丸くして首をかしげながら
「何が?」
と、男に尋ね返した。
 あまりにも天衣無縫なターシャを前に、一人恥ずかしがっている自分を、男は滑稽に感じた。考えてみると、人間の感受性を持ち合わせないこの「水先案内人」と名乗る女は、自分とは全く異質な存在なのだった。自分がこれまで感じてきた喜怒哀楽や物事への様々な執着心、愛憎の念、無論、恋愛感情や性欲、また羞恥心といったものとも無縁な存在なのだと、男は改めてターシャを見て、ため息をついた。
「寒くはない…だろうが、これでも着ておけよ。目のやり場に困るから」
そう言って、男は自分の着ていた6497の刺繍の入った灰色のシャツを脱いでターシャに手渡した。
「あら、そうなの?」
大きめの男物のシャツを無造作に羽織り、ターシャは椅子に腰掛けて膝の上に頬杖を付き、不思議そうに男を眺めた。
「君は良いな。そうやっていつも、我々人間の愚かな営みを気楽に眺めていれば良いのだから」
「いいえ、そうでもないわ。基本的に私が付くのは転生を嫌がるそれなりに手のかかる乗客なのだから、それはそれで色々大変なのよ」
「まあ、確かに」
男は改めて自らのことを回想しながら
「君には色々手間を取らせたな」
としみじみと呟いた。
「でもね」
ターシャは、少し柔らかな声で言葉を続けた。
「前にも一度話したことがあるけれど…、羨ましいなって、思うこともあるのよ。あなた方人間のその生々しい感情の動きを。殊に、恋。その、「狂おしいまでの渇望」とか「切なさに涙する」とか、そういうの、いくら小説で読んで知識としては理解できても、私達には実感としては分からないのですもの。もしも、許されるものなら、一度だけ、人間としてのそういう複雑な感情を経験してみたいとは思うわ」
ターシャは、以前それを話した時と同じように、うっとりした目で遠くを見ながらそう言った。
「君達水先案内人が、人間になることは出来ないのか?」
「出来ないかどうか、ということになると…。可能性は…皆無ではないわ」
ターシャは珍しく妙に歯切れの悪い言い方をした。
「どうやって?」
「それは…、当局に願い出て、審査に合格すれば…。全く無理という訳ではないけれど…」
「じゃあ、そんなに人間を体験してみたいのなら、君も志願すればいいじゃないか?」
「まあ、それはそうだけれど…」
志願して変更が許されるのは一度だけ、しかも案内人から人間になることは許可されるが、人間から別の属性に変わる場合には本人の希望は反映されないというのが大まかな決まりだとターシャは言った。
「一度体験してみたいとは思うけれど、その先ずと人間として過ごすことになるかもしれない、というのはちょっと…」
「要するに、降格ってことだよな、君が人間になるというのは」
男は皮肉っぽくそう言ったが
「そうそう。そう言えば分かり易いわね」
と、ターシャは素直に頷いた。
「私達の同業者で稀にそうしたルートを辿るケースは、水先案内人として不適切な言動及び思考に至った場合に限るわ」
ターシャはそう言った。
「不適切な言動及び思考?」
男は繰り返した。
「要するに『人間っぽい』ことになった場合、ということね。魂のランクダウンをしてまで転生のサイクルに入りたいという非合理な発想自体、『人間っぽい』ということでしょう?どういう言動や思考がそれに該当するのか私には分からないけれど、おそらく恋でもしない限り、そんなことは起こらないでしょう」
「でも、恋をする感性が備わっていないのに?」
「そうなのよ。だから、それはどだい無理な話。オスの鶏に卵を産ませようとするのと同じことだわ」
そう言ってターシャは笑った。その笑顔は、いつもより少しだけ寂しそうに男には見えたが
(この女には寂しいなんて感情はないんだよな)
と気がついて、男は逆にそう感じた自分を寂しく思った。
「ところで、今後の予定だけれど…」
ターシャは裸に男物のワイシャツを羽織っただけのラフな姿で、いつも通りの事務的な話を突然始めた。
「これから後6つ島を経由したら、いよいよ目的地に到着よ。それまでに、今度の転生における諸条件をある程度選べるというオプションが付いているんだけど、あなたはそれらの事象を自分で選ぶのが良い?それともおまかせコースというのもあるけれど…」
「何だ、そのチープな設定は…。どっちが良いのか僕には分からない。君が良いように選んでくれ。
そんなことより、今は少しでも、この絵を仕上げることに残された時間を使いたいんだ」
そんな男に、ターシャは呆れたように言った。
「あなたはつくづく珍しい人ね。普通は、そういう設定には、皆物凄くこだわるものなのに。容姿や能力といったある程度先天的なものから出会いたい相手やそのタイミング、そして遭遇すべき試練とその難易度等、皆、各々に用意された分厚いカタログとにらめっこしながら大いに悩み始めるのがこの時期よくある光景なのだけれど。…でも、本当はあなたのような人の方が良いわ。何事にも執着しなければ、その分ポイントが加算されるので、それだけ魂の成長に繋がるのだから。特に出会いたい相手などに執着すると、ポイントの消耗が激しいの。それだけ何かに強く執着するということだから、魂の成長という観点から見ると大きなマイナスですもの。それに、相手のあることは、自分一人の努力ではどうにもならないこともあるから…」
それを聞いた男はぼんやり考え込みながら
「では、僕が前世の養母の許に転生するのは、あちらからの希望があったから、ということなのか?」
と尋ねた。
「ええそれは、恐らく途方もなく強い要望があったのではないかしら。あなたはそれを避けるために何度も転生を見送っていた訳だから、その執着たるや…。彼女はあなたの母親になるために相当ポイントを無駄遣いしているんじゃないかしら」
「なぜ、彼女はそこまで僕の母親になるという条件にこだわったのだろう?」
ターシャはクスクス笑いながら
「あなたはその逆のことをしてきたのだから、彼女の気持ちはよく分かるでしょう?」
と言った。
「うーん。そうだな…」
バツが悪そうに頭を掻く男にターシャは
「つまり、彼女はあなたとの親子関係をもう一度やり直したかったのよ。彼女のように前世のやり直しのために沢山のポイントを費やすことは魂の成長という転生本来の目的にとってはあまり得策ではないのだけれど、それをしないことには先に進めない魂というのもあるから…」
「つまり、彼女にとっても僕にとっても、親子という間柄での関係修復ということが、今度の転生の目的、ということなんだな?」
「ええ、まあそれも大きいでしょうけど、それだけではないわ」
ターシャは珍しく強い口調で言った。
「それ以外の目的もあるのか?」
男は、不思議そうな顔をした。
「今頃何を言っているの?魂の根本の目的を果たすために、そもそもあなた方人間はそんなにも苦労して何度も転生を繰り返しているというのに」
呆れ果てた顔でターシャは男の目を覗き込んだ。
「まさか、忘れた訳ではないでしょうね?あなたの魂の本来の目的を」
「ほ、本来の目的…」
男はターシャの妙な気迫にたじろぎながら
「そ、そりゃあ…。うーん、そうだな…」
慌てて口ごもる男にターシャは
「まっ、そんなものでしょうね。せいぜい到着までに頑張って思い出すことね。でないと、また今度の転生でも無駄に時間を費やすだけで終わってしまうことになるかもしれないのだから」
と冷たく言い放った。

「魂の本来の目的…」
木製のパレットに インディゴブルーの絵の具を絞り出しながら、男はそう呟いた。漆黒の背景に浮かび上がる透明感のあるターシャの肌の、その柔らかな曲線を描く頬のラインを丁寧に描きながら男は考えた。自分は何のために生まれ、生き、死んで、更に転生を続けているのだろう?何度肉体を入れ替えても絶えることなく続いていくこの魂に、真の存在意義があるとすれば、自分の場合、それは一体何なのか?そんなことを考えながらも、男は注意深い筆致で画面のターシャに肌の色を塗り重ねていた。ペインティングオイルをたっぷり付けて筆跡を残さないよう舐めるようにして色を重ねるのが男の描き方だった。ターシャの作る魅惑的な曲線と潔い直線に立体的な存在感を生むために、影の部分には濃い青色を大胆に乗せ、その上に肌色を重ね、更に柔らかな光の反射部分にうっすらと白を塗り重ねることで、絵はそれ自身に徐々に命を吹きこんでいるかのようだった。
 絵画製作中、二人は一切会話をしなかった。男は初めには考え事をしていても、そのうち次第に何も考えなくなっていた。唯ひたすらに、彼はその目の前の美の対象物を自分のキャンバスに収めることだけに神経を集中していた。如何にこの活き活きとした存在感を、そしてこの深みのある透明感を、更にはこの謎めいた憂いを、どうやって画面上に捉え出すかということにだけ、今や彼の関心は向いていた。そこには生まれ出る苦悩も生きて行く上での不安も、そして更にいつか訪れる死の恐怖も、何も存在しなかった。描いているその瞬間、彼には、生も死も、もはや転生そのものもどうでも良いことだった。思い通りの色や形や質感に辿り着くたびに、彼はそこに至福の喜びを感じた。
 彼が描いている間中、ターシャは彫刻のように身じろぎもせずポーズを取っていた。不自然に体をひねるポーズであるにも関わらず、疲れを知らない彼女は、何時間でもそのままでいられた。男が指定した通りの微妙な表情を作りながらも、彼女にその複雑な感情の機微はないらしく、それはまるでマネキンのようであったが、そんな彼女をじっと凝視しながら描かれる、男のキャンバスの中のターシャには、何故か生々しい息遣いが伝わるほどに活き活きとしていた。
 セブンウィークス諸島に入って以来、外の明るさは以前に比べて極端に移り変わりが早くなっていた。つまり、昼と夜が規則正しく入れ替わり時間の概念がはっきりしてきたという印象だった。夜になると明るさが足りなくなるため、そこで男は制作を止めた。ターシャはあっさりとした挨拶を残して部屋を去り、薄らとした明かりの灯った一人きりの部屋の中で、男はずっと昼間自分の描いた彼女の絵姿を見つめ続けていた。
 その夜、男は夢を見た。
 そこは白い円柱の並ぶギリシャ神殿の様な建物で、大理石の冷たい床の上に真紅の絨毯が長く引かれていた。建物の中には沢山の部屋があり、どの部屋も扉は開け放たれ中の様子が一目で見て取れた。部屋の中の調度はどれも豪華で、贅沢な装飾品があちこちに置かれていた。果てしなく続く長い廊下をあてもなく男が歩いていくと、そこに一つだけ扉が半分閉じた状態の部屋が現れた。扉に近づいて男が部屋の中を覗き込むと、そこには金の猫脚の付いた小さな浴槽があり、大勢の女達が浴槽に湯を運び入れたり、何色もの薄い布を壁際にある衣桁に掛けたりしながら、入浴の準備をしているところだった。すると、そこに屋敷の女主と思われる人物が現れた。煌びやかな衣装を纏ったその女は、高く結った髪を解くと、侍女に手伝われながら色とりどりの衣装を一枚一枚ゆっくりと脱いでいった。紫色の衣を脱いで、次に藍色の衣を脱いで、その次に青色の衣を脱いで、更にその下の緑色の衣を脱いで…。虹色に重ねられた薄い衣を黄色、橙色、赤色と脱ぎ捨てると、いきなりその下に雪のように白い女の裸体が現れた。数人の侍女達に見守られながら、貴婦人はゆっくりと浴槽に躰を沈めた。温かそうな湯から立ち上る湯気に乗って仄かに漂う甘い花々の香りが男の鼻腔を心地好くくすぐった。貴婦人は長い髪を湯の中に放って、頭の先まで湯の中に身を沈め、しばらくすると勢いよく湯の中から顔を出した。その仕草は、まるで水遊びしている子どものようで、開放感に溢れた様子で、彼女はしばらく湯の中で一人戯れていた。男のいる扉の傍から部屋の中心まではかなり距離があるため、女の顔は男にははっきりとは見えなかったが、その貴婦人は、若く美しい女であることだけは確かだった。男は、その美しい女の肢体を、もっとよく見たいと思い、扉の陰から身を乗り出した。
 すると、その時、侍女の一人が「あっ」と声を上げた。皆、一斉に男の方を見た。貴婦人も、驚いた顔で男を見た。そのまま、一瞬の間を置いて、貴婦人は突然湯船から這い出すと、一糸纏わぬ姿のまま、男のいる方と反対側の扉から部屋の外に逃げ出した。侍女たちの悲鳴で部屋の中は騒然となったが、男は、そのまま反対側の窓から向こう側の廊下に出て貴婦人を追いかけた。赤い絨毯の上を、全裸の貴婦人の白い躰が風のような速さで走って行く。人間の女というよりも、まるで野生の駿馬のように、その姿は、どんどん男の視界から遠ざかって行った。
 赤い絨毯の引かれた長い廊下の突き当りには白い木の扉があった。ギシギシと音をたててその木の扉を開けると、目の前に瑞々しい緑の草原が広がっていた。霧が立ちのぼる緑の草原の遠くから地響きが聞こえる。見るとそこには野生の馬が群れをなして走って来るのが見えた。馬達の荒い息遣いを聞きながら男はその馬の群れを凝視すると、その中に一頭の白馬が見えた。男は何故かその白馬を追いかけてそれに追いつき、たてがみを掴んでその背にまたがった。すると、白馬は徐々に走る速度を上げ、群れの中から他の馬とは別の方角に走り出した。風の中を飛ぶように、男を乗せて白馬は走った。まるで緑の中を透明な風になったように、男はいつしか馬と自分の境目がないように、そして、自分の存在さえも風に溶けていくように感じた。
 すると、突然目の前の視界が途切れた。断崖絶壁の上から男を乗せた白馬は、真っ逆さまに落ちていった。そしてしばらく経って男が夢の中で目を開けると、そこは白い雪の上で、男の跨っていた白馬は、先程の貴婦人に変わっていた。
 全裸の貴婦人は、死んだように目を閉じたまま、雪の上に横たわっていたが、「ホゥ」と大きな息をして、ゆっくりと目を開けた。貴婦人は男を見詰めた。その女の顔は、ターシャだった。

 男は、次の瞬間、本当に目を覚ました。彼の心臓は激しく拍動していた。その瞬間、彼は気づいたのだった。自分は、もうじき別れる予定のターシャを、愛し始めていたということに。

最終章まで後3章

 皆様にご愛読いただいております『運命の船』は、8月5日更新予定の19章をもって完結とさせていただきます。

 これから終盤に向けて、物語は思いがけない方向に展開していきます。

 皆様、最後までお楽しみください(^^)

 

第16章 作戦

第16章  作戦

「…で、これをどうやって使うんだ?」
 丸底フラスコの下の部分だけのような球体のガラス容器を手に、男はルーカスに尋ねた。
「これから立ち向かう闇の存在に対して、必要なのは光です。この中に、あなたの光を集めるのです」
「…それは一体どうやって?」
「具体的にご説明しますと…」
 ターレスは小さな咳払いをすると、その球体の穴の部分を眉間に押し当てながらこう言った。
「今までこの船の中で見た前世の記憶を振り返りながら、次の4つの感情を想起して、このようにして中に集めるのです」
「4つの感情…というのは?」
「『愛』と『感謝』と『懺悔』と『許し』です」
「…それは、まるで何かの宗教じゃないか?」
「この際、方法は何でも良いでしょう。しかし、厳密に言うと、これは宗教ではない。宗教というものは外側からこれらの概念を注入するものですが、この方法は自分の中から発掘する作業ですから、中身は全て自前です。教祖がいないものは、宗教とは呼びません」
「ふぅん、そんなものか…。まあ、確かにこの際、方法はどうでも良い。急がなければ、とにかくもうあまり時間がない」
「その中が光で一杯になったら出かけましょう。それまで、私も自分の光を強化しておきます」
そう言い残すと、ターレスはどこかに消えた。

 美しく整えられたターレスの部屋の中に一人残された男は
「『愛』と『感謝』と『懺悔』と『許し』」
と先ほど与えられた課題を反芻した。
「愛、…愛ねぇ…」
 以前、ターシャに「愛という言葉の意味が分からない」と自分が言ったことを、男は思い出していた。しかし、これまで見た映像の中には、確かに何人かの人々が自分に与えてくれた確かな「愛」があった。
 命をかけて自分を産み落とした実母、マーガレットの悲しい愛。
 何も見返りを求めることなく自分の芸術を理解し、献身的に尽くしてくれたモデル、カレンの健気な愛。
 そして、今まで決して認める事の出来なかったことだが、どんな困難をももろともせず自分を育ててくれた養母、ローズの強くたくましい愛。
 確かに自分の前世には、多くの愛が存在していた。そんな彼女達のことを思い出す男の心の中には、今はもう歪んだ先入観はなくなっていた。客観的事実として、純粋に自分を愛してくれた彼女たちのことを思うとき、極自然に、男の心の中に「感謝」の念が湧いてきた。とんだ災難の連続だったと思っていた自分の前世は、実はそれ程最低なものではなかったのかもしれない。少なくとも、この3人の女性達からの愛情、そして、生命の危機を感じずに済む安定した生活環境。また、努力によって人生を改善できるという可能性を信じられる余地。自分が前世において、意識することなく当たり前に享受していたものが、先程観たチョウキチの人生では、当たり前ではなかった、ということに男は気づいた。
 愛する者の為に命がけで戦うチョウキチの姿を、男は改めて思い出した。彼の経験していた戦というもの、それは悲惨極まりないものだった。しかし、その是非はともかく、自分自身は、何かのためにあれ程までにがむしゃらに命がけになったことはあっただろうか?19世紀のイギリスで、画家としての自分が追求しようとした美に対する姿勢には、果たしてそこまでの気迫のようなものがあっただろうか?
 その時彼は、大きな事実に直面した。自分は今まで様々な問題を、全て誰かに責任転嫁してきたのではなかったか?実母が早くに病死して継母に育てられることになったという生い立のせいに、養育者の芸術に対する理解のなさせいのに、また印象派芸術の台頭という時代背景のせいにして、自分はそこまで本気で自分自身や自分の求める美というものに向き合って来なかったのではないか?それらの諸条件によって自分は不遇だったと今まで思い込んでいたが、実は自分はそれらを言い訳にして、そこまでの努力を怠っていたのではないか?
 あまりに突然の気づきに、男はまるで頭を思いきり殴られたような衝撃でめまいを感じて、テーブルに肘をつきがっくりとうなだれた。
 図らずも、これこそが真の「懺悔」だと、男は苦笑いを浮かべた。要するに前世の自分は、その悲しい境遇に甘えていたのだ。そして、相手の愛に気づかないことによって、随分彼女らに迷惑をかけてしまったのだ。実母のマーガレットに関しては、それは彼には不可抗力だったが、後の2人には多大な迷惑をかけてしまった。

 知らないうちに彼を密かに恋い慕うモデルのカレンを未婚の母にして、想像できない程の苦労をかけてしまった。

 また養母のローズにも、激しい反抗の末に失踪したことによて、ひどく心配をかけたに違いない。

 先程の映像の中での、チョウキチの母親が大声で叫んでいた姿を、男は思い出した。あの母親の、悪態をつきながらチョウキチを必死で止める叫び声は、最後には泣き声に変わっていた。きっと、子を思う親の気持ちには、時代も国籍も、そして実母か養母かということも関係ないのだろう。かつてローズも、あのチョウキチの母親のように、自分のことを罵倒しながら涙にくれていたのではなかったか?
「僕は、…随分ひどいことをしてしまった」
男は一人そう呟いた。自然に彼の目に涙が溢れた。
「誰か、僕を…許してくれ」
 彼女らに許しを乞うのではなかった。なぜなら彼女らはそもそも男を責めてはいないのだから。しかし彼は、その時、真に許しを乞うていた。
 誰に?
 …神仏?
 否、そんな形式的なものではない、と男は思った。
 …それでは自分自身に?
 否、そんなセンチメンタルな問題でもない、と彼は再度自分自身の考えを打ち消した。
 そうしてよくよく考えると、やはり彼は許されるべき対象を持たないことに気がついた。
「つまり、僕は、…既に許されていたのか!」
 周囲の人間の気持ちを思いやることもなく、自分自身の芸術というものへの執着だけに突き動かされてがむしゃらに過ごした前世の42年間、ずっと彼はそうすることを許されてきたのだった。社会的承認は得られず、その為に暮らしは苦しかったが、しかし、それでもその生活を、彼は何か大いなる力に導かれたかのように、続けることが出来ていたのだった。
「こんな僕でも、許されていたのだとしたら…」
 男は、不意に今まで彼が許せないと感じ続けてきた、ローズの諸行に思いをはせた。
 移民の子という理由で、幼い自分から唯一の友達を遠ざけたローズ。
 苦手な数学で学位を修めることを強要し、大好きな絵を取り上げようとしたローズ。
 それは、どちらも彼女のエゴであり、前世の自分はそのローズのエゴによって人生を大きく動かされてしまったのだ。しかしまた、自分自身も、自分のエゴによって人の人生を大きく変えてしまったのではなかったか?
「人は、皆…過ちを犯す…」
男はそう呟いた。
「僕に、彼女を裁く資格など、ないのだ」
 男は、先ほどターレスに手渡された球形の容器をゆっくりと額に近づけた。その容器の口が彼の額に触れた瞬間、その接点は強い光を放った。男はそのまま、静かに目を閉じた。自分の中から溢れ出る光を直視出来なかったのだ。そして、そのまま彼は光の中に包まれた。それまで、自分の中でずっとくすぶり続けていた黒い物が、今静かに消滅し、憎しみが完全に浄化されたことを彼は体感した。
 部屋を満たしていた強い光は、徐々に小さくなり、球体の中に収まった。その球体は、直視できない程の眩しさではなく、白い静かな光を放つ電球のようになった。その白い球体を眺めていると、
今まで感じたこともないような安堵感と、暖かな充足感がゆっくりと男を満たしていった。今彼は、曰く言いがたい初めての感情を手に入れたのだった。


 やがて、静かなノックの音によって男は我に返った。彼のものと同様に白く発光する球体を携えたターレスが、端正な顔立ちに一層清浄な雰囲気を加えて戻ってきたのだ。
「準備は整ったようですね」
「ああ、そのようだ」
男は、ゆったりと答えた。
「それでは、参りましょう。あの悪霊の巣へ」
 二人は見つめ合った。その時、男は初めて、ターレスに向かって屈託のない微笑を投げかけた。

 

 重い扉の向こうには、薄暗い緑色の光の下、ボロを纏った悪霊達が例によって泥団子のような塊を作って、壁にぼんやりと映し出された映像に見入っていた。
「こいつは、七週間前に87歳で癌で死んだ、回帰航路の乗客だ」
ミッちゃんの乗船許可書を中央に置いて、そこから浮かび上がった映像を見ながら、鼠男は仲間に向かって得意げにそう告げていた。
「何?87歳まで生きながらえて、殺人でも事故でもない、一番平和な病死を迎えるなんて…。その上、こんな若くて綺麗で、何の悩みもなさそうな姿を手に入れるなんて…」
声だけで、何とか元は女だったと分かる、ボロ雑巾の塊のような悪霊が、憎々しげにそう言った。
「何て羨ましい…」
と数名が一斉にそう言った声は、地を這うような怪しいハーモニーを奏でた。
「さて、どうやってこいつをいたぶってやろうか?まずは、いつものように悪寒と幻聴で恐怖心を与えて、死んでしまったことへの恐怖を与えてやろう。そして、混乱した隙に転生ルートから引きずり出してしまえば、後は地縛霊になって、俺たちみたいな転落を辿るのがお定まりのコースだからな。一旦転落人生にはまったが最後、そうやすやすとは抜け出せない。長寿の末に癌でちょっと苦しんだくらいでそう簡単にまた幸せな転生なんか、させてやるものか…」
甲高い男の声が、せき立てるようなヒステリックな調子でそう言った。
「それと、さっき、この獲物が届く前にやりかけていたこの小娘だが…」
そう言って別の悪霊が、淡い緑色にうすぼんやりと発光するひもう一つの映像をひねり出した。そこには、以前同じこの部屋の中で悪霊達の餌食になりかけていたあの藍子の寝顔が映っていた。熊のぬいぐるみのミッシェルをしっかり抱きしめて眠る子どもっぽい寝姿の藍子は、しかし、以前よりほんの少し大人びた顔立ちになっていた。藍子は時折寝苦しそうに体をよじったり眉をひそめてうわごとを言ったりしていた。額にびっしょりと汗をかき、悪夢にうなされていることが、その映像から見て取れた。
「この娘、最近急に可愛らしくなってきて…」
先程の女の声の悪霊が、一層恨めしそうに歯ぎしりしながら言った。
「それじゃあ、始めるか」
ねずみ男がそう言った時、
「待て!」
というターレスの力強い声とともにドアが開き、眩しい光が薄暗い部屋の中を一気に照らした。
「なんだ!これは!!」
悪霊たちは眩しさのあまりうずくまって悶えながら叫んだ。
「やめてくれ!苦しい!そんな強い光、早くどこかにやってくれ!」
突然の奇襲攻撃に悪霊たちはなすすべもなく、まるで溶けかけたスライムのように地面に這いつくばった。
「だ、誰だ…お前は…」
床に這いつくばったまま、ねずみ男ターレスに向かって、呻きながら尋ねた。
「今までここで、仲間が何度か世話になった者だ」
「…まっ、またしてもお前か。一体何だというんだ。どうしてこう、…何度も俺たちに…か、絡んで来るんだ…」
息も絶え絶えに何とか話そうとするねずみ男に、近くの女の声が加勢する。
「そう、…何でまた、このあたし達に、そうも執拗に、…関わろうとするのよ…。こんな、人生の全ての喜びから見放されたあたし達の唯一の楽しみ、…人を呪うという、ささやかな楽しみを…、何だってあんたは、邪魔ばかりするの?」
「そうだ、何の権限があって、お前は俺達の邪魔をするんだ…」
先ほどのヒステリックな若い男の声もそれに賛同する。
「こんなことをして…」
ターレスは低く静かな声で悪霊達に語りかけた。
「こんなことをして、一体何になるというのだ」 
 床に倒れこんで苦しそうに身悶えする悪霊たちに向かって、ターレスは言葉を続けた。
「あなた方がこのような姿に成り果てたには、それなりの理由があったのだろう。何者かに対する行き場のない恨みを抱いたまま亡くなった魂のまま、一旦は転生の為にこの船に乗り込んでみたが、やはり無念を晴らしきれず、悪霊としてこの薄暗い船の最下層の部屋に長年住み着いて、自分でも訳の分からぬまま、現状から抜け出せずにいるのだろう?今のあなた達のその姿は、本来の姿ではない。長くこの部屋に居たために、本来の姿を忘れた者は、思い出すが良い。自分が初めてこの船に乗り込んだ時のことを、今一度、思い出すのだ!」
 ターレスは力強くそう言うと、一番近くに倒れ込んでいた女の声の悪霊の上にしゃがみこんで、先程の丸い瓶の口をその額に当てた。
「な、なにを…?!」
女の声の悪霊は驚いて必死になって体をバタつかせた。
「や、やめて!苦しい…!」
「しばらく辛抱しなさい。自分の中に光を取り戻すまで!」
ターレスは、女の悪霊に馬乗りになっての逃さないように押さえ込んだ。
「ウヒャー!!ギョエー!!」 
異様な呻き声を上げてその悪霊は尚もしばらくジタバタもがいていたが、そのうち動かなくなった。すると彼女の口のあたりから濃い緑色の煙のようなものがモヤモヤと立ち上ってきた。ターレスがそっと悪霊の身につけているボロ布の端ををめくってみると、そこには蒼白く痩せてはいるが、人間の姿を取り戻した女の顔があった。女は苦しそうに眉を潜めながら、長い悪夢から目覚めたようにゆっくりと目を開けた。
「わ、私、どうしてここに…?」
女は、呆然とした表情でターレスに尋ねた。
「あなたの中にあった弱い心の為に、しばらくの間、悪い夢を見ていたのです。でも、もう大丈夫。こうしてまた、人の心を取り戻したのですから。もう一度、この船の中で補講を受けて、改めて転生先を見つけるのです」
「…転生?」
女は、古い記憶をたぐり寄せるようにその言葉を繰り返した。
「そう、あなたはかつて、生まれ変わって新しい人生を始めるはずだった。それが、あなたの捨てきれなかった何らかの執着によって阻害されてしまった。そして忘れてしまっていたのです、大事な予定を。ですから、今一度、転生のサイクルに戻って行くのです。大丈夫、どんな所だって、ここよりは良いはずだ」
 ターレスは穏やかな深い眼差しで女に向かって諭すように言った。
「私や私の仲間も、これから転生するのです。あなたは一人ではない。ここにいるあなたの仲間も皆一緒だ。恐れることはない。あなたはもう、孤独ではないのです」
女は眩しそうにターレスを見詰めた。
「行きましょう、我々とともに、あちらの世界に」
ターレスの静かな言葉に、女はしばらく無反応だったが、やがておずおずと言葉を発した。
「…良いのですか?私のような者が今更あちらに生まれて行っても…」
 ターレスは深く頷いてこう言った。
「必ず、あなたに出会うべき人があちらの世界にいるはずです。遠い昔に出会った誰かの魂が、今もあなたを待っている」
「…私を…待って?」
「そう、世界はあなたを待っている。生まれるべきでない魂など、本来どこにもないのです。さあ、行きましょう。我々とともに、新たな世界へ」
慈愛に満ちた表情でターレスは女にそう言った。女の頬を、一筋の涙が伝った。
「…はい」
女は静かにそう答えた。

「ルーカス!さあ、入って下さい。他の者達にも今の方法で浄化を施します」
 僅かに開けた扉の隙間から中の様子を伺っていた男も、ターレスと同じく光の玉を持って入室したため、部屋の中は尚一層明るくなり、悪霊達は眩しさに再び悲鳴を上げた。


「もしもの時の為にあなたに外で待機してもらっていましたが…」
床に倒れた他の悪霊の上に馬乗りになって先程と同様に浄化を行いながらターレスが言った。
「それにしても、何かあっけない位うまくいったな。何だか無気味な程だ」
男もターレスと同じ姿勢で、もがき苦しむ悪霊の上に跨って浄化を行い、やがて一人二人と、悪霊達は人間の姿を取り戻して行った。
 二人の光の玉によって明るく照らされた部屋の中で、十名程いた悪霊の大半は浄化を終えて人間の姿に戻り、半ば放心したようにその場にぐったりと横たわり、まだ浄化を行っていない残りの数名は、苦しそうに身悶えを続けていた。部屋の中央には、若い姿のミッちゃんの静止画像と、その隣には、幾分寝苦しさから解放されかけた藍子がくまのミッシェルと共に寝ている映像とが薄ぼんやりと浮かんでいた。
ターレス、後どの位で終わりそうだ?」
「これから我々が浄化しようとしているこの二人で最後のはずです」
そう言いながら、ターレスは苦しそうにうごめく未浄化の悪霊に跨りながら言った。
「そうか、じゃあ、こいつで最後だな」
男もターレスと同様に別のうごめく塊を組みしだいてそう言った。
「この作業もなかなか疲れるな」
男は額を右手の甲で擦りながらそう言った。
「そうです、自分の中の光を他者と分かち合う行為ですから。でも、だからと言ってあなたの中の光が減っている訳では決してない。光というのはそういう性質のもので、分けても減ることがない。いえ、逆にどんどん伝播して広かっていくものなのです。ただ、この者達は内なる闇がかなり深かったですから、彼らが浄化の際に発する緑色の煙を吸い込んでしまったら、しばらくはその闇に感化されて、多少疲れを感じるかもしれませんね」
ターレスは涼しい口調でそう言ったが、しかし彼も幾分疲れた表情で、額にかかる前髪をかきあげてそう言った。
 やがてその二人の浄化も終わり、辺は静かになった。もう誰も苦しそうにうごめく者はなく、辺は穏やかな平安に包まれた。
「これは?」
男は、手元の光る玉を見ながら言った。
「ご自分の中に戻しておくと良いです。そうすれば、疲れも幾らか和らぐはずです」
そう言いながら、ターレスは手元の光の玉を自分の額に当てた。中の光は音もなくターレスの額に吸い込まれて、空のビーカーが手元に残り、そうすることで、部屋の中の明るさは半分位になった。
「では僕も…」
男も、ターレスと同じようにしてビーカーの口を額に当てた。何か清らかな力強い物が自分の中に入って来たようで、先程の疲れが一瞬で取れたように、男は感じた。彼のビーカーも空になり、部屋の中は元のように薄暗くなったので、中央のミッちゃんとアイコの映像が、はっきりと見えるようになった。
「彼女に早くこれを返してやらないと…」
男はミッちゃんの乗船許可書を手に取った。
「それから、こいつらは…?」
周囲に倒れたままの、人間の姿を取り戻した十名程の元悪霊達を振り返りながら、男はターレスに尋ねた。
「あなたの水先案内人を介して、当局に早急に身柄を保護するよう連絡していただけませんか?このままここに倒れていても衰弱するばかりです」
「早急に…?そうか、それならこれで彼女を呼ばう」
男はズボンのポケットからターシャの髪留めを取り出して振ろうとした。するとターレスは
「おそらく、既にこの海域はそうしたアイテムの通信圏外に入っていると思われます」
と言った。
「何?そんな話は聞いてないぞ?」
男は怪訝そうに、髪留めを見つめながらターシャがそれを彼に手渡した時のことを思い出そうとした。
(「小さな音だけれど、通信圏内ならどこからでも私に伝わるから安心よ」)
確か彼女はそんな言い方をしていたはずだ。下船時にターシャと連絡が取れなかったのは、自分が船外にいるせいだと思い込んでいたが、実際は、既にこの海域全体が通信圏外ということなのだと、男はその時初めて気がつた。
「ここより先の海域は、時間の流れがあちらの世界での早さに変わるのです。全ての機構がそれに影響を受けるのです」
ターレスは、まるで彼自身が水先案内人であるかのような口調で、男にそう説明した。
「それなら、まずは部屋に戻ろう。そうすれは、彼女もどこからともなくいつものように現れるだろうから」
 男はターレスに気軽にそう声を掛けたが、ターレスは無言のままだった。
ターレス、どうかしたか…?」
 ターレスは、怪訝そうな表情で藍子の映像を見詰めてこう言った。
「この少女、相変わらず苦しそうにうなされているのは何故でしょう?」
「それは、何か悪い夢でも見ているからだろう」
「それにしては、苦しみ方が尋常ではない気がしませんか?既に、悪霊達の干渉は取れているはずなのに…」
ターレスは、緊張した険し面持ちでそう言った。
「…そう言えば、さっきから何となく気になっていたんだが…。この部屋の中、何かこう…嫌な感じがしないか?何となく、空気が、重いというか、…悪霊はもう、居ない…はず、だよな?」
「ええ…、その、はずですが…」
ターレスは、引きつった笑みを浮かべてそう答えた。その笑顔にいつになく無理があることで男も顔を引きつらせながら、努めて明るくこう言った。
「…そう言えば、あの、…ネズミ男、あいつはどうだった?ヤツがこの中のリーダーだった訳だから、浄化するのは相当大変だっただろう?」
「え…?私はてっきり、あの者はあなたが浄化されたのだろうとばかり思っていました…」
 二人は、同時に顔を見合わせた。
「ということは…」
「…どういうことだ?」
「こういうことだ」
 二人の後ろから、聞き慣れた低い声がした。それは、二人がその時一番聞きたくない声だった。
 途端に、濃い緑色のガスが背後から大量に湧き上がった。息が詰まるような悪臭が部屋中に充満し、男は激しい頭痛と吐き気に襲われた。それはまるで前世で画家をやっていた頃、深酒した翌日の激しい二日酔いの感覚にそっくりだった。
「な…、何だこのリアルな感覚は?僕達の肉体はまだ本来存在しないはずなのに!」
男は、込み上げる吐き気を抑えながら、苦しそうに叫んだ。
「こ…この海域では…、既に我々は…部分的に身体感覚を、取り戻しているのです…」
苦しそうに喘ぎながら、ターレスはそう答えた。二人とも、急いで出口に向かい、ターレスがドアノブを掴んで激しく押したが、ドアはビクともしなかった。
「何てこった…」
 やがて二人は、息苦しさに立っていられなくなりその場に倒れ込んだ。二人の前に、暗闇の中ですっかり活力を取り戻したネズミ男が得意げに仁王立ちになって言った。
「浄化されたフリをして、苦しいのをじっと我慢するのは、なかなか骨が折れたぞ。だが、今度こそ、お前達の息の根を止めてやる。可哀想に、折角もう少しのところで無事に転生できたのに。余計なお節介が命取りになるということだ。今度転生する時の為に、そう肝に銘じておくがいい。ま、もっとも、この部屋に入ったが最後、まともな転生のサイクルに戻ることなど望むべくもないことだがな」
いやらしい薄笑うを浮かべながら、ネズミ男はそう言った。
「我々のことをそんな風に憐れむなら、お前は何故転生を拒み続けるんだ。お前も、本当は転生したいのではないのか」
ターレスが、渾身の力を振り絞って諭すようにネズミ男に言った。
「ハン、転生?今更笑わせるな。強いものが弱いものを支配する、あんな腐ったあの世に戻るなんざ、まっぴらだ。それに、これだけ長くここに居れば、今更誰も俺を待ってる人間なんかいやしねえ」
ネズミ男は、ちゃんちゃら可笑しいと言わんばかりにそう答えた。
「おシノは、どうなんだ?」
男のその言葉に、ネズミ男は一瞬ビクッとした。
「お、お前…、何故その名前を…」
「悪いが、あんたの前世は全部調べさせてもらったぞ。彼女だって、どれだけ無念な思いで死んでいったか分からない。それも、全てはあんたを思うがゆえの行動からだろう。彼女の思いをあんたはどう受け止めているんだ?第一、今のその姿を、彼女が喜ぶとでも思うのか?」
男の口から、思いがけない強い言葉が出てきた。彼は尚も言葉を続けた。
「あんたは逃げているんだ。生まれることから、そして、生きることから」
「お前に、何が分かるというのだ。わしの何が…」
怒りに顔を歪めながらネズミ男は、より一層濃い毒気を口元から吐き出した。
「お前になど、分かるものか!」
ネズミ男はそう叫んだ。
「僕には分かるんだ。己の運命を儚み、転生を拒み続けてきた僕にはな。だが、今は違う。僕は転生を受け入れた。今まで時代や周りの人間のせいにして逃げていた自分の本来の姿と、もう一度向き合ってみることに決めたんだ。だから、ここでこのまま悪霊の仲間になるわけにはいかない。僕を待っている人がいるんだ。もともと望まない転生ではあったが、そこに生まれることもまた、受け入れるべき僕の運命なんだ」
「お前の説教など、聞きたくはないわ!」
ネズミ男は尚も感情的に叫んだ。
「おシノはずっとあんたに会えずにいるんだぞ!」
男も叫び返した。
「あの娘は、もうとうにどこかの誰かと幸せになっているわ。わしのことなど、とうに忘れて…」
「それは、あんたの勝手な思い込みだろう?彼女の本当の気持ちにあんたはどれだけ気づいてたんだ?」
「うるさい!黙れ!黙れ!」
ネズミ男は更に逆上した。
「それ以上何も言えないように、とどめを刺してやる!」
ネズミ男は再度、濃厚な毒気を男に吹きかけた。呼吸困難に陥って男は意識が朦朧とした。隣に倒れているターレスは既に意識を失っているようだった。
「ミイラ取りがミイラになるというのは、こういうことを言うのだな…」
 徐々に霞んでゆく男の視界に、悪夢にうなされながらくまのミッシェルをきつく抱きしめている藍子の映像が映っていた。起毛素材のミシェルの体は所々糸がほつれて耳の端から中の綿が少しはみ出し、キラキラ光る瞳は黒いボタンで出来ていた。このぬいぐるみはおそらく藍子が赤ん坊の頃から、ずっと傍で彼女の成長を見守って来たのだろう、と男は薄れゆく意識の中で、そんなことを考えた。自分が赤ん坊だった頃、そこにもぬいぐるみはあっただろうか?頭上で回るオルゴールから流れる子守唄。そして…。
 いつか、眠れない夜にターシャが歌ってくれた子守唄。あれは、以前子どもに先立たれた乗客から教わったと彼女は言っていたっけ…。
 彼はいつしか幻視を見ていた。大きな屋敷の中の小さな揺り篭。窓辺のレースのカーテンを揺らす初夏の風。
 するとその時、突然男の記憶の扉が開いた。自分に注がれる優しい眼差し、そしてそこに流れる懐かしいメロディーとローズの柔らかな歌声が、男の脳裏に鮮明に蘇った。ターシャの歌っていたその歌は、ローズが自分に歌ってくれた歌だったのだ。彼女の子どもになることをあんなに拒んでいた、それは遠い昔のことのように今の彼には思えた。
「ああ、…母さん」
 このままここで意識を失ったら、おそらく二度と彼女の子どもになることはできないだろう。赤ん坊の誕生を嬉々として待ち望むケイコの顔が、男には思い出された。
「すまない…」
 その時、男は藍子の映像に小さな変化を感じ、薄れゆく意識の中で必死に目を凝らした。何かが一瞬キラッと光った気がしたのだ。それは、映像の中の、ボタンで出来たミッシェルの目玉だった。ぬいぐるみのミッシェルがキョロキョロと目玉を動かしているのに男が気づいた時、ミッシェルは男に向かって、小さくウインクした。
 次の瞬間、ミッシェルの目玉から、暖かな光の洪水が圧倒的な強さで放たれた。
「ヒエー!!!」
おぞましい悲鳴を上げてネズミ男はその場に倒れてのたうちまわった。
「なんだ?これはー!」
ネズミ男は叫んだ。
「これは、あの少女を守る為にくまのぬいぐるみが放った愛の光だ。あんたも昔、そんなも物をおシノに持たせたじゃないか」

 男は仰向けに倒れたまま、隣でうつ伏せになったまま苦しんでいるネズミ男に語りかけた。

「愛という言葉の意味を知らぬままに、僕は前世の命を終えた。だが、僕の知らないところで、自分は多くの愛によって生かされていたと、この船に乗って色々な出会いを経験する中で、ようやく僕は知っていったんだ」

「それが、どうした。お前ののろけ話を今更わしに聞かせて、どうしようと言うのだ!」

 ネズミ男は、肩で苦しそうに息をしながら吐き捨てるようにそう言った。

「泣きながら出征を止めようとしたあんたの母親や、自分の感情を殺して大殿の元に嫁いだおシノの気持を、あんたはどれだけ分かっていたんだ」

 ネズミ男は、ビクッと体を震わせた。

「自分の気持に精一杯で、相手の思いに気づかずに…いや、ひょっとすると気づかないふりをして、あんたは前回の一生を駆け抜けたのだろう。僕がそうだったように」

 ネズミ男は、何も言わなかった。

「…無念だとは、思わないか?」

「誰がだ!」

「あんたを愛した者達が、だ」

「!」

「自分を犠牲にしてでも愛する者を守ろうとしたのは、実はおシノの方だろう。それを、自分を守りきれなきっかった事をいつまでも気に病んで、とうとう悪霊にまで成り果てたとあっては、おシノは浮かばれないのではないか?」

「…おシノが…。わしを?」

「そうだ」

「あんな、チビでみみっちい百姓の倅を…」

「そんな事は、関係ない」

 またしても、ネズミ男は黙り込んだ。

「この、鈍感な僕にでも分かったんだ。あんただって、薄々気づいていたのだろう?ただ、怖かったんだ。あの美しい娘を守りきる自信が、あんたにはなかったんだ」

「わ、わしが、…おシノを追い込んだのか?」

「結果は、そうだったのかもしれない。しかし、あの時は、それしかなかったのだろう」

「…わしが、…おシノを…」

ネズミ男は、空を掴むようにして、体を震わせた。

 

「待っているかもしれないぞ」

 しばらくの沈黙の後に、男は同じ姿勢のままでそう言った。

「おシノはあんたを、何世紀もの間待っているかもしれないぞ」

「そんな事、あるわけが…」

「ないとは、言いきれないだろう?現に、僕にはいたんだ。随分待たせた相手が」

 うつ伏せのまま、ネズミ男は男の方に顔を向けた。

「いや、実際は待っていないかもしれない。けれども、それを見届けてみたいとは思わないか?彼女のその後があんたは気にはならないのか?」

「そ、そりゃぁ…、気にならない訳では…」

「だったら、行こう。…怖いのは分かる。僕だって怖いんだ。けれども、これは、責任なんだ」

「責…任?」

「この船に乗った時点で、僕達は既に生を与えられたことになる」

 男はゆっくりと語りかけるように言葉を続けた。

「この船の中で、初めて気づいたことなんたが…。与えられた生を全うするということは…」

「…」

「一度でも、愛を知った者の、責任、なんだよ」

 部屋の中の毒気は一気に消え、隣のターレスは、いつしか意識を取り戻し、黙って二人のやり取りを見守っていた。

 もはや無抵抗なネズミ男は、目を閉じたまま、うつ伏せになってその場に倒れ込んでいた。ターレスは、擦り切れて既に衣服の体をなさない、ネズミ男上着の肩を掴んで顔を横に向け、そのミイラのような額に、改めて彼の光を注入した球体を押し当てた。

「ウグググッ!!」

 宙を掴むように苦しみに喘ぐネズミ男の前に、男はひざまずくと

「頑張れ!もう少しだ!」

と言って、その、大トカゲほどに爪の伸びた、枯れ木のような右手を両手で掴んだ。

 ネズミ男は、一瞬驚いてハッとしたように目を見開いた。

「グワァァァ!」

最後の断末魔と共に、ネズミ男は男の両手を強く掴み返した。すると、男の皮膚に食い込みかけた長い爪は、短く艶やかな桜色の爪に変わり、ボロ布の下からは、若き日のチョウキチの顔が現れた。

 

 男は、先程取り戻した記憶の中に、再び浸っていたいと思った。ローズの歌う懐かしい子守唄に吸い込まれるように、男はその場で意識を失った。

 

 男が目覚めると、そこは既に見慣れた彼の部屋だった。
「お疲れ様。今回のあなたの働きには当局も感心しているわよ」
窓辺に溢れんばかりの沢山のバラの入った花瓶を飾りながらターシャがそう言った。部屋の中には新鮮なバラの芳香が満ちており、その香りの帯を辿るように小鼻を動かしながら
「あの部屋の住人は、どうなったんだ?」
と男はターシャに尋ねた。
「彼らはこの度のジーナと同じように、しばらく教育を受け直した後、あなた方より少し遅れて転生することになったわ。転生に対する不安の強い者たちばかりなので、転生先でもそれなりの指導係を付けてケアしていくということだわ」
「へー、そうなのか。指導係なんていうのが付くのなら、僕にも付けて欲しいものだ。僕だって、まだまだ不安の塊なんだから…」
上体をベッドから起こして、大きく伸びをしながらそう呟く男に
「あら、その指導係というのは、あなた方のことよ」
と、ターシャは事も無げに言った。
「へ…?」
「あの者達の唯一の拠り所は今のところあなたとターレスの二人だけなんだから、そんなの当然でしょう?それに、あれだけの残留者を一度に更生させたあなたが、今更不安だなんておかしいわ。あの者達を導いたのは、あなたの中の生に対する肯定的な感情なのだから」
「…」
男は黙ってうつむいたまま真っ白なシーツのシワを見詰めた。確かに、悪霊にとどめを刺されて遠のいていく意識の中で彼が見た幻影は、彼の過去に対する肯定であり未来への希望そのものだった。初夏の風と優しい歌声が、彼の脳裏に再び蘇った。
「なあ、ターシャ」
不意にそう呼びかける男を、ターシャは小首をかしげながら振り返った。
「確かに、生まれることは、そんなに悪いものではないのかもしれないな」
 男のその言葉を聞いて、彼女は一瞬ハッとしたように男を見詰めた。そして、男が見慣れたモナリザのそれではなく、香り高いバラの花びらがゆっくりとほころぶように、その時ターシャは彼に向かって微笑んだ。彼女の笑顔がいつになく鮮やかで、眩しい物を見たように、男は一瞬目を細め、その後慌てて再びシーツのシワに目を落とした。
 そのまましばらく男は無言のままうつむいて、何か考え事をしているようだったが
「なあ、ターシャ」
と、彼は再び彼女に呼びかけた。
「なあに?ルーカス」
キョトンとした表情で再び振り返る彼女に男は言った。
「今更こんなことを頼むのは遅すぎるのかも知れないが…」
しばらくためらった後、彼は言葉を続けた。
「僕の絵のモデルになてくれないか?」
 ターシャは、フェルメールの絵の中の真珠の耳飾りの少女のような表情で男を振り返ったまま、そこに立ち尽くしていた。

 

第15章 追跡

第15章 追跡


 男は自分の鼓動がどんどん早くなって行くのを感じた。彼は鼠男を追いかけたが、そのどす黒い塊のような姿は、あっという間に人込みの中に埋もれて見えなくなってしまった。
 男はしばらく雑踏の中に立ち尽くし、遠くの人影に目を凝らしてみたが、そこにはすでにミッちゃんとハナちゃんの姿もなくなっていた。 
[いったい、何がしたいんんだ!」
 男はどす黒い鼠男の姿を思い出しながら、吐き捨てるようにそう言った。その言葉には鼠男への激しい怒りと共に、自分自身に対する苛立ちに似た思いも込められていた。
 鼠男の考えははっきりした所までは分からないが、彼が何か良からぬことを企てていることは明白だった。そして、そこに何の罪もない人間が今まさに巻き込まれようとしている現場を、男は目撃してしまったのだった。まだ時々痛む胸の傷に手を当てながら
「僕には、関係ない…」
と呟きながら、しかし、先程彼の目の前を通り過ぎて行った、可憐な若いミッちゃんの姿が、繰り返し男の脳裏によみがえった。
「いったい、何を考えているんだ」
 男は、鼠男の良からぬ企てを想像してみた。奴はミッちゃんの乗船許可書をどうしょうと言うのか?大方例の呪い部屋の仲間と一緒になってミッちゃんをなぶりものにするのが目に見えている。こうしている間にも、彼女の身に危機は確実に迫りつつあるのだ。
「こんな時、ターシャなら…」
ミッちゃんを救うための良い方法を何か知っているかもしれない。そう思って男はポケットから例の髪飾りを取り出して降ってみたが、しばらく経ってもそこにターシャの姿は現れなかった。
「船の外は圏外なのか?」
男は唇を噛み締めた。このまま、あのミッちゃんと呼ばれる可憐な女性が悪霊の餌食になるのをみすみす見殺しにすることに、男の正義感は耐えられなかった。
「どうすれば…」
男はしばらくその場に立ち尽くしたまま、次に取るべき行動は何かと考えあぐねた。彼はもはや自分がどうしたいのかということは分からなくなっていた。そもそも、一旦船に乗せられたら時から、彼は自分でどうしたいのかということを考えること自体をやめていた。自分がどうしたいのか分からない時には、自分は今、どうすべきか考える他ないと彼は思った。しかし、どうすべきかということさえ、今は何も思いつかないのだった。
「だめだ…」
諦めかけた彼の脳裏に、不意に海亀の老人の顔が浮かんだ。
「彼ならば、どうすべきかきっと分かるのだろう…」
そう呟いた時、男はあの老人の言葉を思い出した。
「特別閲覧…」
その言葉を思い出した刹那、男は船に向かって一目散に走りだしていた。

 

「ある人から聞いたのですが、生命の危機にさらされた相手については、その人間の記録を特別に見ることが許されているとか…」
男は息を切らしながら、図書室のカウンターで係の女性にそう尋ねた。
「どのような被害に合われたのですか?」
以前何度か資料の閲覧を頼んだことおある、見覚えのある優しそうな係員は、顔立ちから想像するより低く落ち着いた声で、男にそう尋ねた。
「この場合、被害を受けたのは生きた肉体ではなく、死後の魂なのだが…」
「…とおっしゃいますと?」
怪訝そうな表情の係員に、男は、以前呪いの部屋で鼠男から受けた被害状況を客観的に伝えた。
「相手の名前は?」
「わからない」
「死亡年月日は?」
「それも知らない」
「では、その被害に遭われた日時と場所は?」
「数日前に、この船の最下層の部屋で…」
そこまで聞き終わると、資料を検索していた係員の手が止まった。
「しばらくお待ちください」
そう言って数分カウンターを離れた後、係員の女性は銀色の薄いファイルケースを持って戻ってきた。
「こちらがお探しのデータです」
 係員の女性に礼を言うと、男はそのまま階段を駆け上がった。空いている視聴覚ブースを見つけるとそこに滑り込み、所定の位置に素早く銀色のファイルをセットした。
「今日中に何とかしなければ…」
 給油とメンテナンスの為に船が港に停泊するのはたったの1日。その間に何とか鼠男からミッちゃんの乗船許可書を取り返さなければ…。男は急いではいたが、同時にとても冷静でもあった。彼には、今自分が何をすべきかということが直観的に分かっていた。


 男の目の前の白い壁一面に、月明かりに仄かに照らされた花野が現れた。そこを7歳くらいの女の子が泣きながら走って来る。
「おシノ、どうした?またいじめられたのか?」
声変わりしかけの少年が、心配そうに駆け寄って女の子の顔を覗き込んだ。前歯の目立つ痩せた小柄な少年と泣いている女の子は、少し年の離れた兄妹のように見える。 

「チョウやぁーん!」
女の子は少年にすがりついて泣きじゃくっている。
「おシノ、どうしたのじゃ。誰に何と言うて苛められた?」
「タロさん達に…、みなしごおシノ!南蛮人のあいのこよ!ように顔を見せてみい!着物を脱いで尻尾がないか見せてみい!って言われて…。追いかけまわされた…」
「それで、おシノはどうしたのじゃ」
「本当に着物を脱がされそうになって、怖くて…。地蔵さんの祠の陰に…ずっと隠れとった」
「タロめ、またそんなことを…。おシノ、ほんに無事じゃったか?あれ等に何もされなんだか?」
「暗くなるまで隠れとったから、何もされなんだ」
おシノと呼ばれるその少女は両手の甲で涙を拭いながらそう答えた。 

 白い肌に艶やかな黒髪、くっきりとした目鼻立ちが印象的なおシノを見て、男は不意にロンドンにいた幼い頃の友人、ジョゼットのことを思い出した。彼と同様、このおシノもまた混血児なのだろうと男はその事情を察した。言われのない差別を受ける彼らだったが、しかし、血は異質のものを混ぜ合わせる程、良い性質を発揮するものなのかもしれない。幼いおシノは、既にその容姿が彼女の人生に何らかの影響を及ぼすことが予見されるほど、美しさを約束された少女だった。
「男の子は嫌い」
おシノは泣きながらそう言った。
「皆、おシノのことじーっと見たり、追いかけて意地悪する。チョウやんだけ、嫌なことをしないのは」
そう言って少年にしがみついたおシノは、昼間の恐さを思い出して身震いした。
「おシノ、もう大丈夫じゃ。わしがおる。このチョウやんが、何があっても守ってやる」
 小柄な少年は、小さな体を少しでも大きく見せようと思い切り胸を張った。
「わしは今はこんなチビでみみっちい百姓の伜じゃが、今に戦で強うなって、誰もおシノに手出しできんようにしてやる。それまでは、何かあったら今のように逃げるのじゃ。逃げ足の速さなら天下一のこのわしが、うまい逃げ方を教えてやるから、今は何とか逃げのびるのじゃ」
「今は?」
「そうじゃ、今は…」
その先は考えまいというように、少年は首を振って、少女の顔を見つめた。
「おお、そうじゃ。今日はこれをおシノにやろうと思っておったのじゃ」
そう言って、少年は着物の懐から藁で出来た小さな人形を取り出した。 
「この人形を守りと思うて持っておけ。わしが念を込めて作った人形じゃ。わしのおらん間は、この人形がわしの代わりにおシノを守ってくれるぞ。わしが付いておる、大丈夫。大丈夫じゃ、おシノ」
少年は自分自身に言い聞かせるようにそう呟いた。

 

 そこで場面は変わって、画面には小柄な若い男の姿が映し出された。ジャポニズムのサムライに似た独特の髪型をして、粗末な着物を身に纏ったその男は、先程のチョウやんだろう。突き出した二本の前歯はやはり鼠のようだったが、その目は澄んで希望に燃えていた。
「おっ母ぁー!」
彼が薄暗い粗末な家の戸口に立って大声で呼びかけると、中からみすぼらしい初老の女が現れた。
「おっ母、戦じゃ、戦!わしはこれから戦に行くぞよ!」
「このバカたれ!おまえなんぞ戦に行ったら露払い同然、先頭に立たされて、真っ先に斬り捨てられるのが目に見えておると言うに!」
女はそう怒鳴った。
「おっ母、人の話を最後まで聞け。それがな、わしはこの度、大殿様から特別な任務を仰せつかったのじゃ」
「なぜにおまえごとき水呑百姓の伜が、特別扱いなどされようものか。大方おシノとの手引きでもさせようという魂胆に違いあるまい」
言葉に詰まる男に、その母親はまくしたてるように言った。
「この辺りの男衆で、おシノのことを知らぬ者はおらぬ。親のないあの娘が浜で倒れておったのをお父が拾うて寺に連れて行ってから10年ばかり、あの娘は年々玉のように美しうなっていく。まだあのような子どもじゃから、今は寺の手伝いなどさせておけば良いが、そのうちにあの娘の噂は国中に広まるじゃろう。そうなる前に早く手を付けて側女にでもしようというのが、大方の男の考える所であろうが」
「大殿様はその様な方ではないわ!」
男は怒鳴った。
「大殿様はな、わしの足の速さと話術を買うてくれたのじゃ。敵の陣に忍び込んで雑兵共を誑し込んで我が兵に寝返らせるのがわしの役目。もし上手くゆけば、家臣として録を賜ることとなろう」
「なんじゃ、その小狡い戦術は」
「戦とはそうしたものよ。おっ母、これよりしばしの別れじゃ。このチョウキチ、戦で必ずや手柄を立てて戻るゆえ、皆にもように伝えておいてくれ」
 そう言い終わるが早いか、チョウキチはひらりと身を翻して、元来た道を一心に駆け戻っていった。
「こら、チョウキチ!この親不孝者めが!この辺りの百姓は皆、お主のようにそうして勇んで戦に行っては、虫けらのようにあっけなく切り捨てられてしまうのじゃ!これ!待たぬか、チョウキチ!」
 母親の声を振り切るようにチョウキチは一心に田の畔道をひた走った。本人の言う通り、その足の速さは、どんどん変わる周りの景色から、視ている男にも伝わる程だった。
「おシノ!」
 東洋様式の寺院の境内のような場所に行って男が大声で呼ぶと、大きな銀杏の木の影から、抜けるように白い肌のおシノが箒を持ったまま現れた。その姿は、男の想像通り、また先程のチョウキチの母親の言葉通りだった。
「おシノ、わしはこれから戦に行く!」
息を弾ませながらチョウキチは言った。
「チョウやん。本当に、行ってしまうの?」
そう言って心配そうにチョウキチを見詰めるおシノの目は、大人と子ともの狭間の微妙な年齢の少女が持つ、独特の魅力を放っていた。
「これおシノ、そのような顔をするな。大丈夫じゃ。わしは此度の戦では大殿様から特別な任務を与えられておるのじゃ」
「大殿様?」
おシノは、チョウキチの言葉を繰り返した。
「よう聞け、おシノ。わしの主の大殿様はの、それはそれは立派なお方なのじゃ。戦術の斬新さや先見の明、また適材適所で兵を動かす統率力と判断力、どれを取っても武将としてこの上なきお方じゃ。それに、そのお人柄も素晴らしく、その証拠にわしのような一兵卒にもきちんと目をかけて下さっておる。わしは、あの方のためなら、命懸けて戦うことをいとわんぞ」
「だめ、チョウやん。戦で死んではだめ!」
「じゃから、心配要らぬというに…。良いかおシノ、この戦で手柄を立てたら、わしには一つの考えがあるのじゃ」
おシノは目をパチクリさせてチョウキチを見詰めた。
「戦で手柄を立てたら、最早この村でわしに文句の言える者はいなくなる。そうすれば、わしはそなたをわしの妹として我が家に迎えようと考えておるのじゃ」
おシノの顔がパッと輝いた。
「お前ももう良い年頃、いつまでもこの寺に置いてはもらえまい。男を怖がるお前を見ず知らずの男に嫁がせることも、さりとて仏門に入れて尼にならせることも、わしにはかわいそうに思えるのじゃ。わしの妹になれば、いつでも傍でわしが守ってやれる。もう誰からも逃げ回ることはしなくてすむ」
チョウキチは少し顔を赤らめて、言葉を続けた。
「じゃ、じゃが…、お…、おシノに好いた男が出来たら…。その時は、そなたの好きにすれば良いのじゃぞ。ただわしは…、おシノに無理はさせとうないのじゃ」
「チョウやん…」
チョウキチを見詰めるおシノの瞳は潤んでいた。

 

 そこからは、激しい合戦シーンが繰り広げられた。白い矢が雨のように飛び交い恐ろしい形相の敵兵が刀を構えて向かって来る中、敵の陣地に向かってチョウキチは走りに走っていた。彼の足元には敵味方入り混じった兵士の遺体が無数に転がり、またその傍では瀕死の負傷兵が激しい声で悶え苦しみ、

その兵士の下には、死後何日も経過して腐敗しかけた死体が横たわっていたが、その倒れた兵士たちの上を踏み越えながら、チョウキチは無心に走り続けた。途中、敵兵の遺体から自分のものとは異なる旗印のついた鉢巻をもぎ取って素早く付け替えると、チョウキチは作戦を着実に遂行していった。
 激しい戦闘場面を見かねて男がしばらく映像を早送りしていると、やがて大勢の男達が車座に座って食事をしてるシーンが現れた。
「おお、チョウキチ。おまえ、大殿に呼び出しを受けているそうじゃねえか」
岩のように屈強な髭ずらの大男がチョウキチにそう声をかけると、丼茶碗を片手に飯を頬張って猿のように頬を膨らませたチョウキチは、無言のまま頷いた。
「多方、おシノのことだろうよ。あんな綺麗な娘がお前のようなチンケな男としかろくに話もできないなんて、何だか変な話だぜ」
「でも、ああして恥かしがる所もまた、あの娘の可愛いところだ」
「それにしても、何でまた、大殿様がチョウキチを直々に呼びつけたりされるのか?」
集まった男達は、銘々好きなことを話しだした。
「大殿様に所望されれば、女御の方に断る余地などないであろう。そんなことをすれば、即刻打ち首じゃ」
「しかし、大殿の妾になるなど、我らのような身分の女にとってはこの上なき話。そのような玉の輿をみすみす蹴る女もおるまい」
「しかし、あのおシノは分からぬぞ。何せ、変人じゃからな」
「いずれにせよ、その気になれば大殿様は下々の女など如何様にでもできるのじゃから、それはチョウキチとは関係あるまい」
皆の噂話がおわらないうちに、食事を済ませたチョウキチは無言でその場から立ち去った。

 

「お召しによって参上つかまつりました。チョウキチにござりまする」
 広々とした殺風景な板の間にひれ伏して、チョウキチは緊張に凝り固まったまま挨拶をした。
「うむ、そちがチョウキチか。此度の戦でのそなたの働き、物頭から聞き及んでおる。大義であったな。褒美をとらすぞ」
これまたサムライのような風変わりな髪型の目つきの鋭い男が、板の間の正面に壁を背にして座り、鷹揚な態度でチョウキチにそう言った。
「ははっ!ありがたき幸せに存じまする!」
チョウキチは再度床に頭を擦りつけて、喜びに肩を震わせた。
「それはそうとチョウキチよ。今日はそちに折り入って頼みがあるのじゃ」
「はっ!何なりと、このチョウキチめにご命じ下さりませ!」
チョウキチは忠実な番犬のように期待に満ちた目で大殿を見つめて、次の言葉を待った。
「頼みというのは他でもない、あのおシノのことじゃ」
 その瞬間、チョウキチの体がビクンと固まった。
「わしは、予々あの娘に目を付けておってな。先祖の墓参に寺に参った時、まだ幼いおシノを一目見た時から、ゆくゆくはわしの側室にと考えておったのじゃ」
「し、しかしながら大殿様、あれはまだ子どもにござりまする」
チョウキチは恐る恐るそう言った。
「そうは言うても、もう13.4にはなっておろう。いずれにせよあの様子では、既に女の体になっておることは確かじゃ」
そう言った大殿の口元からは、赤い舌がチラチラ見え隠れしていた。
「それに…、恐れながら….。お、おシノは、…男というものを怖がっておりまする」
言葉に詰まりながら、チョウキチは必死になってそう言った。
「そうじゃ、そこなのじゃ」
大殿は言葉を続けた。
「何もそちの手引きがなくとも、小娘一人どうすることも本来ならばたやすきこと。しかし、これにはちと訳があってな…」
窓の外で、鶯が優雅に鳴く声が聞こえた。
「半年ばかり前に、わしはある八卦見から、『身分低き女に無理矢理手を付けたならば、末代までの祟りに合う』という卦を示されたのじゃ。占いなど、もともと気にする質ではなかったが、このところの戦況はことごとくその八卦見の言う通りになってきたので、さすがのわしも怖うなってな。そこで、そちに頼みたいのじゃ」
大殿の目がキラリと怪しい光を放った。
「おシノが自ら進んでわしの元に嫁ぐよう、仕向けて欲しいのじゃ」
  チョウキチは、呆然とした顔でそのまましばらくその場を動けずにいた。

 

 場面は再び、男達の食事のシーンになった。食事内容は、前回同様、丼鉢に入った茶色い米飯のみだ。
「さあ食え、チョウキチ。腹が減っては戦は出来ぬぞ」
山盛りの丼飯をチョウキチの目の前に置いた気の良さそうな中年の男がそう言った。
「…皆の言う通りであった。大殿様は、わしの力を買うてくれていたのではなかった。最初から…、おシノが目当てだったのじゃ…」
がっくりとうなだれたまま、チョウキチは力なくそう言った。
「しかし、おシノにとっては良い話ではないか」

 チョウキチの肩に手をかけて、中年男は言葉を続けた。
「よいか、チョウキチ。わしらは所詮しがない雑兵。少しくらいの褒美を賜ったところで、戦の度に命懸けの、明日をも知れぬ身の上じゃ。よしんば生き長らえたとしても、一度戦で負傷したら最後、後は辻で物乞いでもして人の情けにすがるより他は、生きて行く術がないのじゃ」
チョウキチは黙って頷いた。
「その点大殿様の奥方になれば、おシノの行く末は安泰じゃ。武将の妻にもそれなりの苦労はあろうが、少なくとも喰うや喰わずの生活からは程遠い」
 そして、男はチョウキチの肩に乗せた手に力を込め、声を落としてこう続けた。
「それに、最早断れる話ではあるまい…」
 チョウキチは、ハッと目を見開いて男を見上げた。


「大殿様に?…」
 寺院の裏庭の大きな椿の木の下で、チョウキチはおシノにそのことを告げていた。成人に達しても小柄なままのチョウキチと、スラリと長身のおシノは、向き合うと同じくらいの目線の高さになる。
「嫁に行かずとも良いと、…言っていたのに…」
そう呟くおシノの顔は真っ青だった。
「ああ、それは、この村の連中には…ということで、お相手が大殿様なら話は別じゃ」
チョウキチはとぼけた顔をして、頭を掻きながらそう言った。
「良いではないか、おシノ。大殿様の奥方ともなれば、今まで見たこともないような綺麗なべべを、山のように買うてくれるぞよ」
「そのような物は要りませぬ」
「諸国から取り寄せた珍しいご馳走も、腹いっぱい食わせてもらえるぞよ」
「それも要りませぬ」
「多くの侍従が傅いて、身の回りのことを何でもしてもらえるのじゃぞ」
「それもこれも、おシノは何にも要りませぬ!」
おシノは怒って声を荒げた。
「おシノは、チョウやんの妹になりたいのじゃ!誰にも気兼ねのう、チョウやんと百姓をして、静かに暮らしていきたいだけなのじゃ!」
そう言って、おシノは泣きだした。チョウキチは困った顔でしばらくおシノを見つめていたが、やがて口元をへの字に結ぶと、意を決したような強い口調でこう言った。
「わしは、百姓は嫌いじゃ!」
 驚いて、おシノが顔を上げた。
「百姓の暮らしはそなたが思っているような生易しいものではないのじゃ。鉄砲水や日照りで一度飢饉が起これば、バッタバッタと人が死ぬる。牛馬も死ぬる。仮に豊作だったとしても、いつでも高い年貢に苦しめられ、果ては戦で田畑を滅茶苦茶に荒らされる始末」
チョウキチの語気に力が込もる。
「わしは戦で出世して、この貧しさから抜け出したいのじゃ!おシノが大殿様の御許に上がれば、わしも少しは取り立ててもらえよう。のうおシノ、わしに楽をさせてくれ!貧しいこの村を助けてくれ!」
チョウキチは深々と頭を下げた。
「おシノが大殿様の許に嫁げば、…チョウやんは本当に、…楽に、なるのか?」
おシノは大きな瞳でチョウキチを見つめて、そう訪ねた。
「そうじゃ…、そうじゃ、…おシノ」
搾り出すように、チョウキチはそう答えた。
 長い長い沈黙の間、木の上ではモズが忙しげにさえずっていた。やがておシノは、目を閉じて大きく息を吐くと、ゆっくりと目を開けて凛とした口調でこう言った。
「分かりました。おシノは、…大殿様の御許に参りまする」
「よう言うてくれた!おシノ、…おシノ…」
チョウキチは、おシノの肩を掴んで何度も頭を下げた。
「チョウやん…」
おシノは子どもの頃と同じように、チョウキチの体にしがみついた。しかし、ぴったりと密着させて体を沿わせるその様は、子どものするそれとは明らかに違っていた。チョウキチは、掴んでいたおシノの肩から手を離して、そのまま両手を宙に浮かせていた。そのままおシノを力いっぱい抱きしめたい衝動を必死に抑えているチョウキチの切ない思いが、画面を視ている男にもひしひしと伝わってきた。
「チョウやん、おシノは本当は…」
熱を帯びたように頬を赤く染めながら、おシノがそう言いかけた時、不意に頭上の木の枝に止まっていた一羽のカラスが大きな声で鳴きだした。おシノはその鳴き声を聞くと弾かれたようにチョウキチから離れて、寺院の裏口に向かって走り去って行った。
 途中で一度振り返ったおシノがすっかり建物の中に入ったのを見届けると、チョウキチは目から涙が溢れ出した。
「すまぬ、おシノ!こらえてくれ…」
 椿の木の幹にすがったままチョウキチはその場に泣き崩れた。
「こうするより他、仕方がないのじゃ。こらえてくれ、おシノ。わしではそなたを、…守ってやれぬ…」
 へたりこんだチョウキチのすぐ傍に、踏みしだかれた赤い斑入りの白椿が一輪、ひっそりと落ちていた。

 その先は、ひたすら無残な戦闘シーンが繰り広げられた。累々と横たわる兵士の遺体、中には既に腐敗して、中からウジが這い出してきている物もある。その遺体の山を踏み越えて、
雑兵達は、互いに殺し合っていた。

 

 次の場面では、空を厚い雨雲が覆い、遠くで雷の音が聞こえていた。チョウキチは槍の刃こぼれを気にしながら、鉢巻を締めていた。戦いが始まる前の静かな時間、不意に、彼の後ろで兵器を積んだ荷台を運ぶ二人組の話し声が聞こえてくる。
「それにしても、大殿様もむごいことをなさるものよ」
「さりとて、そのまま逃がしては、大殿様の面目が丸つぶれじゃ」
「じゃが、それにしてもあのような美しい娘を…」
「何の話じゃ!」
殺気立った顔で、チョウキチは二人に詰め寄った。何も知らない二人は、チョウキチ交互ににこう語った。
「それがの、美貌で名高きおシノという若い娘がの…」
「望まれて大殿様に嫁いだまでは良かったが…」
「床入りの晩に逃げ出そうとしたとかで…」
「その場で手打ちにされたのじゃそうな」
「…手打ち、じゃと…?」
 ポツリと雨粒が数滴落ちたかと思うと、突然激しい雨が叩きつけるように振ってきた。
 その時、遠くで開戦の合図の法螺の音が轟いた。豪雨の中、白い矢が容赦なく飛んできて、チョウキチの頬をかすめた。雨と血と泥にまみれて走る味方の兵に突き倒されて、チョウキチは泥の中に膝をついて倒れ込んだ。彼の背中を踏み越えて、兵はどんどん前に進んでいく。泥の中に倒れ込んでそのままチョウキチは動かなくなった。

「死んだのか?」

かなり長くその場面が続いて、映像を見ている男がそう呟いた時、チョウキチは槍を杖代わりにゆっくり立ち上がった。

 その泥まみれの顔面は、真っ赤に充血した目だけが、辛うじて生きた人間であることの目印のようだった。

 野獣のような声でチョウキチは低くうめいた。
「何故じゃ?」
 そしてチョウキチは、突然向きを変えると、皆とは逆方向に向かって猛烈に疾走し始めた。脱走者を防ぐため背後に控える味方の攻撃をもかいくぐり、味方の大本営に駆け込んで、チョウキチは喉が張り裂けんばかりの大声で叫んだ。
「何故じゃ!なぜに、おシノを!!」
たちまちチョウキチは甲冑を身につけたサムライ達に取り押さえられ、大殿の前に引き立てられた。
「自分から望んだのではないか!全て、思う通りになったのではないか!それなのに…」
血走った目で大殿を見据えて、チョウキチは渾身の力を込めて叫んだ。
「何故、おシノを殺したのじゃぁぁぁ!!」
 顔色一つ変えず大殿は答えた
「あの娘が悪いのじゃ。このわしに一言もものを言わず、汚い藁人形を握りしめて部屋の隅で震えておるばかり。その人形を表に打ち捨てたら、その隙に逃げ出そうとしおった」 

 おシノは子どもの頃にチョウキチからもらった人形を、肌身離さず持っていたのだった。
「逃げようとしたのではないわ!!おシノは…おシノは…」
チョウキチが全ての言葉を言い終わらないうちに、大殿は傍の家来に向かって顎をしゃくって見せた。刀を持った兵士が後ろからチョウキチの背中を斜めに切りつけた。血しぶきをあげてチョウキチはその場に倒れ、泥まみれのボロ雑巾のような姿でそのまま動かなくなった。

 そこで映像は途切れ、後にはチョウキチの心の声がナレーションのように流れた。
「今に見ておれ、大殿よ。わしはお前を呪うてやる。お前の恐れる悪霊に、このわしがなってやるわ。末代までも祟ってやるぞよ。よいか、大殿、覚えておれよ」

 

 男はしばらく、じっと視聴覚ブースの椅子に座ったまま動けずにいた。地下室のあの鼠男に、このように悲しい過去があったとは。
 のろのろと席を立ち、カウンターに寄ってファイルを返し、出口に向かって歩く男は、後ろから誰かに軽く肩を叩かれた。男が振り向くと、そこにはターレスがいつもの微笑みを浮かべて立っていた。
「よくこの場所でお会いしますね。ルーカス、あなたは本当に勉強熱心だ」
 男は、はたと我に返ると、ターレスの顔を見て急に何か思いついたように目を輝かせ、ターレスの両手を握った。
ターレス、君に折り入って頼みがある。ちょっとした人助けをするので、手を、…それと知恵を、貸してくれないか?」
 ターレスは嬉しそうに、笑いをこらえながら言った。
「ルーカス、あなたの口から『人助け』という言葉が聞けて、私は嬉しく思いますよ。まあもっとも、あなたはいつも無意識に、それをしているのですけれど」
 ターレスは言葉を続けた。
「良いですよ。どこのどんな人を助けるのでしょう?」
「通りすがりの若い娘と、後は…」
「後は?」
「地下室の悪霊だ」

「♪」

 男のその言葉聞いたターレスは、楽しそうに口笛を吹いた。