第13章 意外な真実

   

第13章 意外な真実

 

 人気のない図書室の片隅で、男はかび臭い資料の山に囲まれて、懸命にある事実を突き止めようとしていた。

 ターレスの前世での名前、ローバート・ハミルトン。自分と同じハミルトン姓を、私生児である自分の子やその子孫であるロバートが受け継いでいたという背景には、恐らく男の死後に、彼の知らない何かがあったに違いない。内から湧き上がる不思議な力に押されるように、男は資料の山を無心に読みふけった。
 そして、その膨大な資料の中から彼が知った事実とは、実に意外なものだった。
「…」
 男はしばらくその場から動けずにいた。もっと詳しく事実を知るためには視聴覚ブースで関連資料の映像を見る必要があったが、その時すでに、彼にその気力は残っていなかった。

 男は疲れた体を引きずって自室に戻り、その日も前の日と同様に、ベッドに体を投げ出して一人で不貞寝した。

 翌日目覚めると彼は、いつも通りにいつの間にかきちんと用意されてある水泳セットを携えて、とぼとぼとプールに向かった。まだ早い時間帯のプールには人影はまばらだった。

 黒い水着に着替えると、いつの間にか水を恐れなくなった彼は、ドボンと大きな水しぶきを立てて足からプールに飛び込んだが、なぜか泳ぐ気にもなれず、そのまま脱力して、水の上に浮かんでみた。高いプールの天井は空のように青い色をしていて、中央の丸い照明はまるで太陽のようだった。
 水の上に浮かんだまま、男は自分の存在をまるで大海原を漂う木葉のようにはかなく感じた。自分という人間を取り巻く様々な環境の、その知られざる事実をまた一つ明らかにしてしまったことに、彼は混乱していた。

 
 ハロルド・ハミルトンの死後、彼に部屋を貸していた安アパートの家主は、彼の所有していた数少ない粗末な日用品と一緒に、彼の描き溜めていた100点近くあった油絵を二束三文で古道具屋に売りはらった。身内の存在を誰にも告げていなかった彼の持ち物を処分するには、それしか方法がなかったのだ。その作品の多くは、ガラクタの中に埋もれて破損したり、ドサクサにまぎれて紛失したりしたが、中には絵画好きの客に安く買い取られた物も幾らかあった。

 そしてその絵の中の一枚が、彼の死後十年以上経って、ロンドンのとある婦人服店に飾られ、たまたまその店を訪れたローズ・ハミルトンの目に触れることになったのだ。ローズはその時既に80歳近い年齢で、数年前にハロルドの死を知らされ、悲しみにくれていたのだが、その作品との出会いによって、彼女は残りの人生に新たな使命を見つけたのだった。ローズは、ハロルドの作品を収集することを決意した。そして、彼女は新聞社に広告を依頼した。
 “ハロルド・ハミルトンの作品を買い取ります。作品をお持ちでなくても、彼のことに関して何かご存知の方は、ご連絡ください”
 それから数週間後、貧しい身なりをした女がローズの許を訪れた。女は古びたトランクの中から大事そうに一冊のスケッチブックを取り出したが、それは確かに生前ハロルドが描いたものだった。女は、そのスケッチブックを売るつもりはないし、このことであなたに迷惑をかけるつもりもない、と前置きしてから、自分の知っているハロルドのことを、ゆっくりと語り始めた。ワトソンと名乗る訛りの強いその女こそ、ハロルドの最後のモデルを務め、彼の子どもを宿したカレンだったのだ。

 ハロルドの子どもの存在を知ったローズは、その子どもにハミルトン姓を継がせ、自分の財産をその子に与え、貧しい親子を母子ともに屋敷に迎えることを申し出た。彼女の強引なまでの行動力は昔のままだったが、ハロルドのことで大きな痛手を負った彼女は、その後一言付け加えるという謙虚さを身に着けていた。
「もしあなた方さえ嫌でなかったら…」
 その後、ハミルトン家は再興し、ロバートの代までその姓は受け継がれていたのだった。
 

 男はこの事実を昨日図書室で知った時、今まで以上に複雑な気分になった。ローズ・ハミルトンは、あの嫌な性格のまま孤独の中で生涯を閉じたと、彼はそう思うことで、半ば自分を納得させようとしていたのかもしれない。だから、彼女が晩年家族の温もりを取り戻し、彼女の望んでいたハミルトン家の再興を果たしたという事実は、正直なところ彼に少なからず衝撃を与えた。

 しかし、そこで彼が何か拍子抜けしたのは、これもまた彼の想像に反して、晩年のローズはその良くない性格の歪みがかなり矯正されていたためだった。きっと、以前の彼女なら、カレンの粗末な身なりを見ただけで相手を見下して、まともに取りあおうとすらしなかったのではないか?
 そして、彼はその記録を読んで、あることがひどく気にかかった。それは、なぜローズはハロルドの絵を収集しようとしたのか、ということだった。そう言えば彼の生前も、展覧会の落選作品を彼女は買い取ろうとしたことがあったのだ。彼が最も知りたかったのは、ローズが彼の作品の芸術性をどう評価していたかということだった。
「どうせ、年寄りの単なる郷愁に過ぎないんだ」
 身贔屓の激しいローズの性格を、男はよく知っていた。しかしそれと同時に、彼は生前自分の育てられた環境についても、改めて思いを馳せた。ローズは洋服の流行には全く無頓着な女だったが、思い返してみると、彼女の選ぶ家具調度や装飾品の類はどれも良質で、彼女の作る空間にはある種の統一感があった。部屋に飾られた絵画や彫刻は言うに及ばず、植え込みのバラの配色や、引いては朝食に使うティーカップの取っ手の形に至るまで、それらは彼女独自の審美眼によって選ばれ、彼の暮らす空間に空気のようにさりげなく配置されていた。

 客観的に見ると、ローズは実はかなり高い美意識を持った女だったのかもしれない。それに、彼自身、認めたくないがローズの美意識に知らず知らず影響を受けていたとも言えた。
「あの女には、僕の絵の真価が分かったのだろうか…」
プールに仰向けに浮かんだまま、男はそう呟き、しばらくブルーの天井を見詰めていた。その晴れ渡る空のような美しいブルーを見ていると、いつか男の目には、それが先日映像の中で見たマーガレットが着ていたドレスの色と同じに見えてきたのだった。

 愛のために全てを捨て、命がけで自分を生んでその生涯を閉じた実母、マーガレット。彼女のはかない美しさに男は憧れ、それに反比例するかのように、したたかなローズの現実性を彼は嫌悪した。母が早くに亡くなったのも、自分が私生児として生まれたのも、何もかもこのいやな継母のせいだと言わんばかりに、彼はある時期からローズに抵抗し始めたのだった。しかし、図書室での映像を通して知った事実は、彼の思い込みとはかなり異なっていた。男の嫌悪して止まなかったローズその人もまた、抗いがたい運命に翻弄されながら、その流れを受け入れて懸命に生きた一人の弱い人間であったのだ。
「しかし、だからと言って…」
 彼は、彼女の貧しい移民の親子にしてきた仕打ちを思い出した。
「どんな事情があったにせよ、あいつのしてきたことは許せることではない!」
 ローズが自分に初めて出来た幼い友達に向けた邪険な眼差しと、その後の顛末を、男は改めて思い出した。

 あのまま自分との友情が続いていれば、あの忌まわしい事故は防げたのではなかったか?街のチンピラの仲間に入って二十歳そこらで文字通り犬死してしまったジョゼットの運命を自分が変えられたかもしれないというのは、独りよがりで不遜な考えなのだろうか?

 そして、大学を辞めた直後、自分の描いたマーガレットの肖像画を窓から放り投げた時の、その怒りに満ちた忌々しそうなローズの顔を、またしても彼は思い出していた。
「あの顔は人間の顔ではない、…あれは、鬼の顔だ」
 久しぶりに自分の中に黒い塊のような憎しみの感情が充満してくるのを、男は感じた。その、少し懐かしいような感情に身を委ねようとした瞬間、それまでゆったりと水面に浮かんでいた彼の体はズシンと重くなり、いきなり彼はバランスを崩し、プールの水を大量に飲んでしまった。
「何だ?息が、…息ができない!」
プールの中で、男は体をバタつかせた。しかし、力を入れれば入れるほど、彼の体は水中に沈んでいくのだった。いつかのテムズ川でのことを彼は思い出した。
「助けてくれ!し、死ぬ~!」
 激しく抵抗しながら、男は水中に沈んで行った。プールの中は以前と同じように美しい珊瑚礁が広がり、その中を沢山の魚達が優雅に泳いでいたのだが、その中で、彼一人が人間の姿のまま、無様にもがき苦しんでいた。彼の意識が朦朧としはじめた時、見覚えのある一匹の海亀が姿を現した。海亀は黒い瞳で男を見詰めると、彼の体の下を低くすり抜けて泳いだ。
 その時、いきなり浅黒い大きな手が彼の肩を掴み、一瞬にして彼は水上に顔を上げることが出来た。
「大丈夫ですか?」
そう問いかける声の主に、男は見覚えがあった。男の目の前の、よく日に焼けた恰幅の良い頑強そうな老人は、数日前、舞踏会でマズルカを踊り損ねて転んだ彼を助け起こしてくれた人物だった。あの時も丁度今と同じように、老人は大きな手で力強く彼を引き上げてくれたのだった。
「あ、あなたはあの時の」
男は今回は更にバツが悪くて、前回同様ろくに礼も言えなかった。老人は、優しいまなざしで男に言った。
「おお、これは奇遇な。我々はよくお会いしますな。これも何かのご縁というものでしょう」
そう言って、老人は親しみ深い笑みを男に向けた。

 男は益々居たたまれない思いで

「はあ…」
と、曖昧な相づちを打った。

「それにしてもこのプールで溺れかけるとは…。あなた、何か相当、心に重い問題を抱えておられるようですな」
老人はプールサイドに男を誘い、白いデッキチェアに腰掛けると、そう言った。
「ええ、まあ、そう言えばそうですけど…」
男は少し驚いたが、どう答えて良いのか分からず、プールの水面を見つめたままそう言った。
「誰かを、…深く恨んでおいでですな」
「!」
 老人が預言者のように男の心中を言い当てたので、彼は驚いて椅子から転げ落ちそうになった。
「なぜそれが分かるのです?」
「ここはそういう場所なのです。心の中にわだかまりがあると、うまく泳げなくなる。そのことを意識すると、体が急に重くなるのです。特に憎しみの念、これは厄介でしてね。思い出すと急に水を飲んでしまうんです。そして体がどんどん沈み始める」
 確かにその通りだと男は思った。
「なぜ、そんなに詳しくお分かりになるのですか?」
男は不思議に思って、老人にそう尋ねた。
「以前は私もそうでしたからね」
そう言って深い皺の奥の瞳に暖かい光りをたたえて、老人は男に優しく笑いかけた。

 あの船上パーティーにも出席していた、見るからに穏やかそうなその老人に、かつてそんな感情があったということが、男には信じ難かった。


「私があの世で暮らしていたのは、20世紀の前半でした。あなたはご存知かどうか分からないが、あの世紀は、それまでになく世界中が大きく変動した時代で…。私の生まれ育った場所は、太平洋に浮かぶ小さな島でした。青い空と海に囲まれた、まさにそこは楽園でした。私達小さな島の住人は、静かに、それはそれは平和に暮らしていたのです。そんな平和な生活が、ある日突然壊れてしまった」

そこまで言うと、老人は、一旦沈黙した。彼の目の奥に一瞬、強い光が宿った。

「戦艦が来たのです。先進国の人間達がそれぞれ自国の利益のために世界規模の戦争をはじめ、我々の住んでいた島々は戦場と化したのです」
そう言うと老人は、今までになく厳しい眼差しで、プールの水面をしばらく凝視した。
「私の住んでいた村は、戦禍の最も激しかった場所でした。村の小道には死体が累々と横たわり、その中には生まれたばかりの乳飲み子の姿までありました。楽園は一瞬にして焦土と化しました。

 私の家族は、戦闘に巻き込まれ全員死んでしまい、前日たまたま隣村に食料調達に行っていた私だけが生き残ったのです。全てを失った私は抜け殻のようになって野山をさまよい歩き、家族の死から一ヵ月後に、餓死したのです」
 しばらくの間、沈黙が続いた。男は老人に何と声をかけて良いか分からず、黙って次の言葉を待った。
「私がこちらの世界に来てから、先に来ていた家族達とも再会できました。しかし、やはりあちらとこちらの世界ではまるっきり状況がちがい、我々はもはや家族ではなくなっていたのです。ですから、私は、こちらに来てからも死ぬ前の無念さをずっと抱えていました。軍人たちが来なければ、楽園のようなあの島でいつまでも幸せに暮らせたのに、そう考えると、悔しさに身震いしました。

 そのまま月日が流れ、私は転生の機会を得て、この船に乗ったのです。そこでこのプールの存在を知りました。ここは私が以前泳いでいた海ととてもよく似ていて、私はとても嬉しくなりました。それで勢いよく水に飛び込んだのです。当然あちらの世界では私は泳ぎが得意でした。しかし、ここでは違っていました。海の青さを思う時、私はいつもあの戦争のことを思い出し、すると私の心の中は憎しみで一杯になりました。すると、その瞬間、先ほどのあなたと同じように、私の体は水の中で自由を失うのでした」
そう言うと、老人は再び沈黙した。男は緊張し、横目で彼の表情を盗み見たが、しかしそこには穏やかな横顔があった。
「泳ぎの上手さにかけては私かなり自信を持っていたので、これには参りましてね。どうしたものかと考えあぐねました。何度か失敗を繰り返すうちに、やはり、この憎しみの感情をどうにかしなければいけないと思うようになったのです」
「どうにか…と言っても」
男は言葉に詰りながらも、老人の話に何とか相槌をうった。
「ええ、それは、た易いことではありませんでした。自分の幸せを一瞬にして奪っていった憎い仇に対する恨みの感情ですからね。それは長い時間の中で、半ば私の体の一部のようになっていたのです。そう簡単に捨てることはできませんでした」
 それからしばらく二人の間に長い沈黙が続いた。プールサイドには無邪気な子ども達の戯れる声が響いていた。
「私は海の男です。死んでこちらの世界に来た後も、その誇りは変わりません。その私が、こんなちっぽけな水溜りの中で溺れるなんて、自分が情けなくて許せなかった。しかも、その理由は、自分の中にある良からぬ感情にあるらしいのですから…。私は何も悪いことをしていないのに、その私が死んだ後も苦しい思いをして、ここに来て尚こんな辛い目に合わなければいけないなんて、人生とはどこまで不条理なのかと、私は一時期それまで以上にすさんだ気分でいましたが、そうやっていつまですねたところで、状況は一向に変わらないのです。ある時、私ははたと気づきました。『現実はどうだったのだろう』と。亡くなった私の家族の身に降りかかった現実は、無残に焼け爛れた彼らの亡骸から察することが出来ました。しかし、その背後にある者の現実はいったいどうだったのだろうか?と、私はある時ふと考えたのです。それは、生まれつき人の心を持たない犬畜生にも劣るような下劣な人間どもの実態を見てやりたい、そしてその者達を心底軽蔑しきってやりたいという、邪悪な感情も半ば手伝ってのことでした」
そこまで言うと、老人はまたしても沈黙した。その沈黙があまりにも長く感じられて、男は
「それで、あなたはどうしたのですか?」
と、痺れを切らしたように、身を乗り出して尋ねた。
「ある特別な資料を、見たのです。あの図書室の中で」
そう言うと老人は、プールサイドでじゃれあう子ども達の方に視線を向けながら、言葉を続けた。
「身内の者以外の個人情報を閲覧するには、特別な許可書が必要なのですが、致命的な損害を与えられた者に対して、その加害者の個人情報の閲覧には、その許可書が発行されるのです。それで私は、あの図書室の中で、あの戦闘に参加していた軍人達数人の、生まれてから死ぬまでの映像を見たのです」
「…」
男は鋭い眼差しで、老人の横顔を凝視した。まるで、そうすることしか許されていない者のように、彼は瞬きもできず、息を殺して老人の言葉を待った。
「そこに映っていたのは、鬼でも悪魔でもない、我々と同じ、普通の人間達の姿でした」
老人の声は、低く静かに、そして少しだけかすれていた。
「彼らもまた、私と同じ、時代に翻弄された憐れな人間達でした。彼らにも私と同じように愛する家族がいて、その愛する者達を守るため、彼らは自らの身の危険も顧みず、戦場に赴いたのです。ああ、それでも人間とは弱い生き物です。そして、戦争とは本当に悲惨なものです。彼らはもともと悪い人間ではなかった。しかし、戦場での極限の飢えと、殺らなけらば自分たちが殺られるという恐怖が、彼らから人間の感性を奪ったのです」
 男は、ハッとして、彼の視線は一瞬行き場を無くした。老人はそのまま話し続けた。
「戦争が終わり、彼らが命からがら国に帰り着くと、彼らの祖国も一面焼け野原でした。そこでは彼らの家族も、敵国の兵隊に沢山殺されていました。敗戦と同時に彼らの国家は急激に価値観を転換し、その時代の波に流されながらも、彼らは軍服を脱ぎ、がむしゃらに働いて、国家を再建していったのでした」

 老人は、静かな口調で語り続けた。

「彼らは、時に戦争の苦労話を家族に話して聞かせたりもしました。しかし、私の島での出来事については、決して誰にも語ろうとはしなかった。彼らにとって、それは忘れたい忌まわしい記憶だったのでしょう。毎夜、火達磨の人間がうめきながら死んでいく夢を見て、とうとう精神に異常をきたした者も何人かいました。長く生き残った者も、生涯その出来事をを忘れる者はいませんでした」
 そこまで話し終わると、老人は深く息をして、キラキラと波立つ水面を見つめ、悟ったように目を閉じた。
「彼らも私と同じように、戦争の被害者だったのです。大きな時代の抗いがたい流れの中で、彼らは他に生き方を選べなかったのです。そのことに気づいた時、私の中から憎しみの感情が消えました。そして私の体は、このプールの中で自由を手に入れたのです」
 高らかに歌うように、老人の声が一瞬弾んだ。男は、少し不安げに首をかしげながらおずおずと老人にこう尋ねた。
「あなたは、許したのですか?その兵士達を」
 すると老人は、男のほうに向き直り、彼の目を見つめて、ゆっくりとその問いに答えた。
「彼らのしたことは、私には許せません。そして何より戦争という残虐な行為を、私は憎み続けるでしょう。けれども、結果的に私の家族の命を奪うに至った彼ら一人一人の人間をいつまでも恨み続ける資格は、私にはありません」
「憎み続ける…資格?」
男は不思議そうにその言葉を繰り返した。
「私は50年以上、その島で漁師として生きて来ました。嵐が来ない限り毎日漁に出て、沢山の魚を捕って、それで暮らして来ました。よくよく考えてみれば、私の釣った魚達にもそれぞれ命があったのです。生きていくために私は、まるで息をするように自然に、他の生命を奪ってきたのです。そこには何の罪悪感もなかったけれども、釣られた魚達はどんなにか無念だったに違いない。私が釣りさえしなければ、その魚達は、次の日もあの豊かな美しい海の中を自由に泳ぎ回っていられたかもしれないのですから。人間と魚が相手では次元が違いすぎると思われるかも知れませんが、こちらの世界では命というものの重さにおいては、人も魚も同じです。私も、私の恨み続けた兵士達同様、生きるために他の多くの生命を殺してきたことには違いないのです。彼らのように自責の念に苦しむことさえなく、私は自分だけが被害者だと思って、長年過ごしてきたことを恥じました」
 そこまで言うと、老人は軽く男の背中を押してこう言った。
「恨みの感情からは何一つ良いものは生まれません。あなたも早くそのことに気づくことができるように、そしてこの船旅が、あなたという魂の成長に大きな幸をもたらすことが出来るよう、私は心から祈っていますよ」
 老人がそういい終わるかどうかという時、男の目の前を大きな赤いものが飛んで行った。老人が両手で捕まえたその赤いものは、人の頭より二まわりほど大きいビーチボールだった。
 プールサイドで数人の子ども達が老人に手を振った。
「おじさぁ~ん」
 老人は子ども達の方にボールを投げてよこした。
 ボールを受け取った少年が老人に呼びかけた。
「海亀のおじさん、向こうの珊瑚礁まで、僕達と競争しようよ」
 少年はそう言うと、勢い良くプールに飛び込んだ。きれいな赤と黄の縞模様の熱帯魚がゆらゆらと水中を泳ぐ姿が男の目にはっきりと見えた。その子につられて残りの数人も皆一斉にプールに飛び込むと、そこにカラフルな熱帯魚の群れが現れた。
「よーし、今日こそは負けんぞ」
老人はそう言って立ち上がると、プールに歩み寄り、男の方を振り向いて顔の片側に深い皺を作って片目を閉じながらニッと笑うと、大きな水しぶきを上げてプールに飛び込んだ。
 ゆらゆらと水面を漂いやがて熱帯魚の群れを追って遠のいてゆく大きな海亀の姿を、見えなくなるまで男は見つめていた。