第3章 船内案内

第3章 船内案内

 次の日の朝、船室の小さな丸窓から注ぐまぶしい朝日を頬に浴びて男は目覚めた。彼の隣にはターシャの姿はなく、シーツの上に出来た浅いくぼみとほのかに残る睡蓮の花のような甘く澄んだ彼女の残り香が、昨夜の出来事を物語るだけだった。
 あの後、ターシャに子守唄を歌ってもらいながら、彼は文字通りスヤスヤと子どものように眠りに落ちていったのだった。では、その前は…。そこまで思い出すと、男は何か大きな失敗をおかしたような暗い気分に襲われて、ベッドの上で身体を丸めた。三十六回目に死んで以来一度も女の身体に触れていなかったためにそのことを忘れていた彼は、死後の肉体は単なる飾りに過ぎないという、最も初歩的なこちらの世界の法則をうっかり忘れていた。つまり、こちらの世界では肉体は何の欲望も喚起しない、単なる記号のような物でしかなかったのだ。
 毛布の中の、自分の身体の中心部分に視線を落としながら、彼は
「こんなもの、ぜんぜん意味ないじゃないか」
と呟いた。
 そして、しばらく丸まったままじっとしていた後、おもむろに体を起こして彼は部屋の中を見回した。そこは、狭くて実に簡素な作りの船室だった。家具と呼べる物は彼が体を横たえている、薄っぺらで固いマットの乗った木箱のようなベッドが一つ、そして背もたれのない丸椅子が二客、テーブル代わりのようにして置かれた空の酒樽をはさんで向かい合わせに置かれているだけだった。
「ちぇ、しけた部屋だぜ」
男は、当局の自分に対する扱いの悪さにほとほと嫌気がさし、ヨハネスのあの善意に満ちた微笑を、改めて忌々しく思い出した。
 腹立ち紛れに、手近にあった枕を壁に叩きつけると、白い綿埃が辺り一面に立ちこめた。生前患っていた喘息の発作の苦しさを思い出し、彼は急に気弱になって、白い壁に出来たシミをうつろな目でぼんやりと見つめながら、こんなことを考えた。
(またしても、自分は生まれ落ちてしまうのだ。そしてあの、肉体の生理反応という、恐ろしく不自由な現象にまた数十年間翻弄されなければならなくなるのだ。身体の痛みや苦しみ、食や排泄の欲求を満たすことの煩わしさ、そしてそれに割く膨大な時間と労力の浪費。もちろん、そこには幾らかの鮮烈な快感もある。昨夜自分が求めて得られなかった、まさにその快感。しかし、快感はほんの一瞬だ。それに比べて、その他大半を占める不快な事象の圧倒的な多さと言ったら…。生きている間ほとんどの時間を、不快な状態を回避するために人間は費やしているのだ。否、それでは生きていることにならない。「生」の反意語は「死」そのものではなく「死の回避」だ。あの世での生活の大半の時間、人間は本当の意味では「生きていない」のだ)
 男は、裸の上半身を起こしたままベッドの上で尚も思索にふけった。
(次の転生で早くも予想される、自分にとって最も不快な状況は、ヤツの子どもとして、その汚らわしい産道を通ってあの世に生まれ出るということだ。…正確には、ヤツの魂の転生後のその産道、とでも言うべきか?)
「なんであんながさつなヤツが、今度も女に生まれているんだ」
そうつぶやく男の脳裏には、今も鮮やかにローズ・ハミルトンの姿が蘇ってくる。

 男の記憶の中の彼女は、その時大きくて重たいドアの前に立ちはだかっていた。わずかに開いたそのドアの隙間から、薄汚れた身なりの小さな少年が、おびえた目でじっとこちらの様子を伺っている。
「ハロルド、どうして母さんの言うことが聞けないの?」
 その重たく冷たい鉄のドアを背に、ローズ・ハミルトンはその太った大きな体でこちらに迫ってくる。
「何度言ったら分かるんだい!その子と遊んじゃいけないって、あんたはあたしに何回おんなじことを言わせるの?」
 返答に詰まる自分を、ローズはなおも責め続ける。
「この子は、どこの馬の骨とも分からない移民の子どもなんだよ。目の色はブルーなのに髪の色が真っ黒で、おまけにこの赤茶けた肌の色、気味が悪いったらありゃしない。その上こんな薄汚れたぼろを着て、まったく、どんな病気を持ってるか分かったもんじゃない」
「ジョゼットのパパはスペイン人だって・・・」
「そんなことを聞いてるんじゃないのよ!」
ローズは、恐ろしい形相で自分をにらみつけ、ドアの方に向き直って、その小さな少年に向かって怒鳴った。
「さっさとおうちにお帰り!そして、もう二度とうちのハロルドにちょっかい出さないでおくれ!移民の子は移民の子同士で遊んでりゃいいんだよ、あんたとハロルドは身分が違うんだ、身分が!そんなこともあんたの親は教えてくれないのかい?!」
 その少年は、ブルーの瞳で悲しそうにじっとこちらを見ていたが、ローズの後ろに何も言えず立ちすくんでいる自分の様子を見ると、くるりと背を向けて、通りを駆け抜けて行ってしまった。

 

(あの子とは、あの後一度も会うことは出来なかった。なかなか家の外に出ることを許されなかった僕に出来た、初めての友達。あの子が移民であるとか何とか、そんなことはどうだってよかった。あの子の親がイギリス人じゃないってことが、一体何だと言うんだ?ああそれに、何だその「身分」ってやつは?むしろ、容姿も人柄も、卑しいのはあの女の方じゃないか。それを、元貴族の出身だという下らない理由でお高くとまって、何かにつけて周りを見下すような態度をとって…。死んでこちらの世界に来れば、あの世での見栄や体裁がいかに馬鹿げたものかということが、あの女にも分かっただろうに…。あの世からこの世には、何も持っては来られない。ただどんな風に生きたかという、その人間の生前の生き様の証明以外には)

 そうやってベッドの上で前回の生について回想していた男の耳に、しっかりと三度、ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
 ドアが開く前から彼が予測していた通り、扉の向こうからはターシャのしなやかな姿が現れた。
「遅いお目覚めね、入ってもいいかしら?」
 昨日と同様にぴったり躰にそってまるで皮膚のように艶やかな黒皮のボディースーツに身を包んだ彼女は、扉の細い隙間をすり抜けるようにして、男のベッドの側の、背もたれのない硬い椅子に腰をおろした。
「そろそろ何か身に着けた方がいいんじゃないかしら?六四九七号」
「なんだい?その六四九七号っていうのは?」
 耳慣れない数字にきょとんとしている男に、ターシャは彼が昨夜脱ぎ捨てた、薄ねずみ色のシャツを床の上から拾い上げ、その胸ポケットを上にして男に差し出した。
「これがあなたのこの船の中での通し番号よ」
 見るとそこには、黒い糸で“六四九七”と丁寧な刺繍が施されてあった。
「いつの間にこんな…」
「この船旅の後、無事あの世に生まれることが出来れば、あなたはあちらの親から新しい名前を与えられます。三十六回目の死後も、あなたは生前のハロルド・ハミルトンという名を名乗っていたけれど、その名前は今日以降使用できません。だから、その数字はただ便宜的に付けられている番号なの。もし気に入らなければ、何か気の利いたニックネームを考えるといいわ。この船の乗客はみんな、大抵そのうちそうするでしょうし」
「何てこった、これじゃあまるで囚人じゃないか」
 ブツブツ文句を言いながらも、手渡されたシャツを素肌の上から無造作に羽織り、あちこちに散らばった昨夜の残骸のような衣服を拾い集めて言われた通り身づくろいする男の様子を、ターシャは楽しそうに眺めながら
「六四九七号、これからあなたにこの船の中をご案内するわ。何せとても広い船ですから、知らずにあちこち歩き回ったら、あなたの場合、すぐに迷子になってしまうでしょうから」
と訳知り顔で言った。
 生前相当な方向音痴で、しょっちゅう道に迷っていた男は、
「あなたの場合、って…、それは前回の転生ではたまたま空間概念が弱かっただけで。な、なんだ…?君はいったい僕のことをどこまで把握しているんだ?」
とうろたえながら彼女に尋ねた。
「それはもう、事務局で管理しているあなたの情報は全て。昨夜のうちにあなたのファイルには全部目を通させてもらいました。あなたが五歳のころ飼っていたウサギの名前から、学校の成績、関係をもった女性の数、それに、三十九歳の時に誰にも内緒で…」
「ああ!!もう分かった、それ以上言わなくていい!」
男は真っ赤になってターシャの言葉を遮った。
「さあ、準備は出来た。早く船内を案内してもらおうか!」
 

 ターシャはクスクス笑いながら、低い音をたててきしむ立て付けの悪い船室のドアを開けた。
「そんなに急いで着替えるから…ほら、シャツのボタンを掛け違えているわよ。それに、『ああいうこと』は結構よくあることで…」
「だから、もうそのことはいいから!」
 男の嫌がる話題をわざと続けながら、ターシャはふざけて細長い廊下へ小走りに駆け出した。その後を追いかけるように男もつられて船室の外へ出た。隣り合った部屋番号のついたドアがずらりと並んだ薄暗い廊下を、二つの影はもつれ合いながら足早に通り過ぎていった。

 長い廊下の突き当りを左に曲がると、そこにはガラス張りの大きな扉が現れた。扉の外から中を覗くと、薄緑色のおびただしい数のロッカーが並び、その奥には“更衣室”と書かれた部屋が見え、また時折、そのドアの中から半裸の人が出てくるのが見える。
「ここは水中訓練のための巨大プールよ」
「プール?」
男がひどくとんちんかんな声を出したので、ターシャはさらに言葉を付け加えた。
「あなたの生前、あの世にはまだなかったわね。プールというのは水を沢山貯めて、海や川以外でも泳ぎが楽しめるように人工的に整備した水槽のようなものよ。これが出来てから、あなたのように泳ぎの苦手な人が随分少なくなったわ」
「いちいち嫌なことばかり言う人だね、君は」
男は、ムッとした顔でターシャをにらんだが、ターシャは「あら、そう?」とでも言わんばかりの涼しい顔で男に優しく微笑みかけてくるので、男はすっかり気が抜けて、ぼんやりした顔で、ポリポリ頭を掻いた。
「いずれこの中にあなたも入ることになるでしょう。ここは、肉体が与えられてから出生までの期間に母親の胎内で過ごすための練習をする場所なの。胎児によっては羊水の中で溺れてしまう者もいるから、そういった事故を防ぐための水中訓練をこのプールで行うことを、当局は奨励しているの。特にあなたのような人には是非必要な訓練だわ」
「それは、溺れやすいから、ということでかい?」
男は、無理に右の口角を上げて皮肉な笑顔を作りながらそう尋ねたが、ターシャは
「もちろん、それもあるけれど、それ以外にもこのプールには重要な役割があるのよ。まあ、それもいずれ分かるわ」
とそっけなく言って、また長い廊下をずんずん先に歩いて行った。ターシャはとても足が速く、しかも廊下の両脇には同じようなドアがずらりと並んでいて、しょっちゅう曲がり角があるその廊下はまるで迷路のようなので、男は彼女の姿を見失わないように後を追うのに必死だった。ほのかな甘い香りと時折かすかに聞こえる彼女の髪止めが発する鈴のような音が、ターシャの後ろ姿から男に彼女の所在を伝えた。

 次の角を曲がると、いきなり大きな扉に突き当たった。その扉には、古めかしい真鍮でできた曲線的な装飾が施されてあり、飾り文字のようなもので「図書室」と刻まれた、やはり真鍮製のプレートがかけられていた。
「中に入ってみましょう」
 重そうな扉をターシャは軽々と開けた。部屋の中は、とても静かで、沢山の本棚と机と椅子が整然と並べられた、そこは巨大な図書室だった。部屋の中央は三階分の吹き抜けになっていて、天井に近い壁には滑らかな曲線の裸婦像が細密に彫刻されたガラス版が何十枚も並んではめ込まれており、そこから取り込まれる外の光が、部屋の空気を明るく清浄なものにしていた。それぞれの本棚の前には数人の人が立っていて、静かに本を探したり、机に向かって難しい顔をしながら読書にふけっている者も大勢いた。
「少し見ておくといいわ、後でいろいろ調べるのに便利だから」
 ターシャについて手前の数列の本棚の間の通路を歩きなが、棚の中の本の背表紙を男は目で追っていった。そこは、様々な種類の歴史書や図鑑が並べられたコーナーだった。
「ここの蔵書の大半は、こんな風な歴史書よ。この部屋を訪れる人の多くは、自分の過去に何らかのこだわりや囚われ、または不可解さを感じているの。今までの転生で忘れてしまった記憶の一部を取り戻して、自分なりの謎解きをしようという勤勉な人たちが、この部屋の主な利用者よ」
そう声をひそめて説明を続けるターシャに、男も同じようにヒソヒソ声で
「謎解きって、それはいったいどういう謎なんだい?」
と尋ねた。
 するとターシャは、意味ありげに男を真正面からしばらく見詰めて、きっぱりとした口調で
「自分の魂の存在理由よ」
と答えた。
 その声が、部屋の中の沈黙を破るかのようにあまりにもはっきりと響いたように感じて、男はなぜだかバツが悪い思いでキョロキョロあたりを見回した。すると一人の金髪の青年がじっと彼を見詰めている視線にぶつかってしまった。男はますます動揺して、意味もなくズボンのポケットに手を突っ込んで、何か探しているふりをしながら慌ててその青年から視線をそらすと、ターシャを追い越して別の本棚の方へと歩いて行った。
 本棚の間の長い通路の突き当りには、入り口の扉と似通った建築様式の階段があった。手すりや柵に施された真鍮の曲線的な装飾は蔦をデフォルメしたようなデザインで、ところどころに蔦の葉の形をした緑色の七宝の飾りがはめ込まれていた。その手すりに施された蔦の葉の形をした装飾の微妙なグラデーションを目で追いながら、男は、吸い寄せられるように階段を上った。
 上の階には、小さな間仕切りのような白い壁に区切られた半畳ほどの狭い空間が、沢山並んでいた。
「この階は視聴覚ブースになっているの」
足音もなく男の後ろから階段を上がってきたターシャが静かに言った。
「シチョウカク…?」
「あなたには馴染みのない言葉だと思うけれど…」
と言いながら、ターシャは空いている近くのブースに男を誘って、そこにあるタフタ地の薄桃色の柔らかい一人がけのソファーに彼を座らせた。
 その半畳ほどの空間は、ソファー以外何も無く、三方を覆う白い壁の右下のあたりには、長さ10センチ程度の細い隙間が縦に空き、その下には半透明の石でできた小さなボタンが5つ、控えめに並んでいた。
「もしあなたが、この航海中、自分の過去に何らかの疑問を抱いたら…」
そう言いながらターシャは、どこから取り出したのか手品のようだと男が感心するほどの手つきのよさで、金色の円盤状の薄い板を壁の隙間にスルリと差し込んだ。
 すると、目の前の壁に、いきなりローズ・ハミルトンの顔が大きく映し出された。
「これは前回のあなた、つまりハロルド・ハミルトンの生涯を映像で記録したものよ。42年分の全通版とその中から特に重要な場面を抜き出して編集したダイジェスト版とがあって、このソフトはダイジェスト版の第1巻『幼少期』よ」
 そう言われて、改めて目の前の映像を眺めてみると、確かにローズの顔は、彼が知っているそれよりは幾分若く、贅肉のつき具合も後年に比べるとはるかに少なく、お世辞にも美しいとは言い難いが、かと言ってそれほど醜くもなかった。
 映像の中の若いローズは、その時少し怯えた目をしていた。彼女の頭上には、くるくる回るおもちゃがあり、そこからはオルゴールの音色でブラームスの子守唄が流れていた。視点は次第に上に上がり、天井から部屋の中を見下ろすようなアングルになった。すると今度は、その部屋の中央に置かれたゆりかごが大きく映し出され、そこには生まれたばかりの赤ん坊が、白いおくるみに包まれて眠っていた。
「これが、…僕?」
その白い布切れに包まれたサルのような赤ん坊は、腫れぼったい瞼を閉じ、小さな口をへの字に結んで、ゆりかごの中で静かに眠っていた。顔の中央にかすかに隆起した低い鼻は、時折小鼻をぴくぴくさせ、広い額の上にはまるで青カビのように柔らかそうな髪の毛がうっすらと生えていた。
「どう見ても、かわいいと言える代物ではないな」
男は、映像に向かってそう呟いた。
「そうね。だけど、新生児というのは大体みんなこんなものよ」
ターシャは横で相槌を打ちながら、ソファーの肘掛の部分に軽く腰掛けた。
 二人の目の前の白い壁に映し出された、映像の中の若いローズは、振り返ると側にいた小柄なメイドに向かって
「ドクターは何て言ってたの?」
とヒステリックな口調で尋ねた。メイドは、訛りのきつい発音で
「はい、先生は、お乳さえしっかり飲ませれば、だんだん衰弱は回復してくるだろう、っておっしゃってました。マーガレットお嬢様が亡くなって丸一日、あの寒い部屋で寝かされていたのに、この子は何て丈夫なんだろう、発見が後数時間遅れていたら、取り返しのつかないことになっていただろう、って…」
「それで、この子の乳母は見つかったの?」
「それが…、あまりにも急なことなもんで、方々声をかけてはいるんですけど…」
ローズは落ち着きなく部屋の中を行ったり来たりしながら
「誰でもいいから、お乳の沢山出る女はいないの?こんな生まれたての子には、山羊の乳じゃだめなのよ。人間の…お乳の出る女…。そうだ!すぐそこの長屋に子沢山の女がいたじゃない?あの女、年中赤ん坊を抱えているんだから、お乳も沢山出るでしょう。アンナ、今すぐあそこの長屋に行って、あの子沢山の女を連れてきてちょうだい」
「でも…、ローズお嬢様は、あの長屋の連中は柄が悪いから付き合うなって、普段から…」
「今はそれどころじゃないのよ!アンナ、おまえは事の緊急性がまるで分かっちゃいない。ぐずぐずしてたらおまえみたいな役立たずは、とっとと田舎に送り返してやるわよ!」

 アンナは、それを聞くと一目散に階段を駆け下りて、近所の長屋に走って行った。そのけたたましい靴音と激しくドアを閉める音に赤ん坊は目を覚まし、突然火がついたように泣き出した。ローズは一瞬うろたえたが、決心したように揺りかごの上にかがみ込んで、ぎこちない手つきで激しく泣きじゃくる赤ん坊を抱き上げ、あやしはじめた。
「かわいそうに、お乳がもらえなくてお腹がペコペコなのね、おおよしよし。もうじきお乳がたっぷりもらえるわよ。それまでもうすこーし、待っててちょうだいね」
ローズがいくらそう言い聞かせたところで、赤ん坊は泣き止むわけもなく、かえって一層大きな声で、顔が赤黒くなるほど激しく泣きじゃくった。オルゴールに合わせてローズが歌う子守唄も、赤ん坊の泣き声にはあっけなくかき消されてしまう。
 泣きじゃくる赤ん坊とそれを泣きそうな顔で抱いたまま途方にくれる若いローズの背後の窓を、冷たい風と雪が容赦なく叩きつける。窓の外は、いつしか吹雪になっていた。