第2章 船室

第2章 船室


「ねえ、君は僕とこんなことになって、本当によかったの?」
船室の、水滴の跡で曇った小さな丸い窓から見える黒い夜の海を眺めながら、男はターシャの長く艶やかな琥珀色の髪に触れた。白いシーツの上に広がった彼女の髪は、一束ずつがまるでそれぞれ意思を持った生き物のように、しなやかに男の指の間を滑っていく。彼女の陶器のように白い裸の背中が、自分と同じベッドの上の彼のすぐ目の前に横たわっているというこの事態が、彼にはまだよく理解できない。
 おどおどとそう尋ねる男の方にゆっくりと向きなおるとターシャは
ヨハネス様は、この航海中、あなたの望むことは何でも叶えて差し上げるようにとおっしゃったわ」

と、それまで砂色の毛布で隠されていた肢体を惜しげもなく男の前に曝しながら無邪気にそう言った。

 ギリシャ彫刻よりやや細身でメリハリのある、均整の取れ過ぎた彼女の裸体に、男は圧倒されて言葉をなくした。これ程完璧な女性の肉体を、それまで自分は見たことがあっただろうか?こんなことが、自分の身に起こっていいのだろうか?と、彼は瞬時に自問自答していた。

「私がこうしてここにいるのは、あなたの目がそう望んだからよ。これから、あなたが目的の場所にたどり着くまで、私に出来ることは何でもして差し上げます」

 あり得ないくらい嬉しいはずのその言葉は、男の耳にはかえって空々しく聞こえた。そんな言葉、前世でも、そのまた前世でも、こんな美女から言われたことがあっただろうか?「ノー」彼は自らの問いに心の中で即答した。そして、その理由は、彼女の次の言葉によって明らかにされた。

 

「ただし、途中で船を降りないことと、目的地に着いたら速やかに下船すること、この二つは必ず守ってもらいます。そうしなければ、今度は私が罰せられることになるのだから…」
そう言って、ターシャは悪夢を思い出したかのように怯えた表情で眉をひそめた。

 当局の巧妙なやり方に、男はあきれて溜め息をつき、しばらく考え込んだ後、観念したようにこう言った。
「分かったよ。安心して。君に迷惑をかけるようなまねは決してしないと約束するから」
 その言葉を聞いた途端、意外なほど無邪気な笑みが、安堵したターシャの口元からこぼれた。
「よかった。やっぱりヨハネス様のおっしゃる通り、あなたは優しい人だわ」
そう言って細い両腕を男の首に絡めるこの女は、どう考えても数時間前、いきなり自分の横っ面をはった女と同一人物とは思えなかった。そして、更に、この女の異様な気持ちの切り替えの早さに、彼は全くついていけなかった。
「僕が聞きたいのは…」
彼女に抱きつかれたまま、男は言葉を続けた。
「あのおっさんが許すとか許さないとかではなく、君自身がこのことに納得できているかどうか、ということだよ」
「まあ、ヨハネス様のことを『あのおっさん』だなんて…」
ターシャは男から体を離して一瞬顔をしかめたが、すぐまたもとの表情に戻って
「納得?それは、何に対してどんな風に?」
と子どものような目をして男に尋ねた。その様子があまりに無垢に感じられて、男はすっかり拍子抜けして、まるで幼児に諭し聞かせるような口調でこう言った。
「いいかい?君と僕は、数時間前、あの局長室で初めて会ったんだ。いきなり君にビンタをくらわされて僕はいささか驚いたが、もっと驚いたのは、夜になった途端、今度もいきなりだったが、君が僕のベッドに潜り込んできたことだ」
ターシャは、何だそのことか、とでも言いたげに、笑顔で答えた。
「ですからさっきも言ったように、あなたは初めから私に対してそういう感情を抱いていたんですもの」
「いい女を見て、そういう感情を持たない男はいない。しかし、それなら君は、君に対して関心を寄せた男みんなとこうなるのかい?」
「そんな…、ベッドを共有するということがそんなに重大なことなの?」
あまりにもあっけらかんとそう言い放つターシャに、男はあきれてしばし言葉を失った。
 しかし、しばらくすると、また気を取り直して、皮肉めいた声で
「つまり、それが君の仕事ということなんだな?」
と、呟いた。
「それって?」
「要するに、男を楽しませるということだ。つまり君は当局に雇われた娼婦なんだね」
 意地悪い目つきで男がそう言うと、ターシャは首をかしげながら 

「あなたはあの世の言葉を使うから、私にはあなたの言っていることがよく理解できないんだけれど…」

と言って、男の首筋に改めてゆっくりと両腕をまわした。そして

「添い寝があちらの世界でそんなに特別なことだなんて、私知らなかったわ。それに、添い寝の時に服を全部脱ぐんだってことも。あなたは以前、あちらでそういう習慣の暮らしをしていたのね。きっと前世では、暑い国に住んでいたんだわ」

と言いながら「よしよし」と、男の髪を撫でた。それは、まるで母親が子どもにしてやるそれのようだった。ターシャにゆっくりと一定のリズムで頭を撫でられながら、男は黙って考えを巡らせた。要するに、この女は自分が彼女に母親の代わりを求めていると勘違いしているのだ。この、あまりに世間知らずな勘違いに男はあきれ果てて再び言葉を失い、しばらくされるがままになっていた。
「今夜は少し冷えるから」
と、ターシャは自分の脚の間に男の両足を挟み込んで暖めながら、子守唄を歌い始めた。それは、優しく、どこか物悲しい響きを持った歌だった。澄んだ柔らかなその歌声を聴いていると、男には不思議と昼間の事が少し遠い出来事のよう感じられてきた。
「それは、昔君がお母さんに歌ってもらっていた歌なの?」
と、彼がターシャに尋ねると
「いいえ、私にはお母さんはいないの。私は今まで一度もあの世に生まれたことがないんですもの」
と彼女は答えた。

 そして、自分は二つの世界の間をつなぐ船の水先案内人で、この男のように渡航を嫌がったり、もう一つの世界を極度に恐れる乗客に付いて船に乗り込むのが仕事なのだと彼に語った。
「この歌は、以前、子どもに先立たれたという女性に添い寝した時、彼女が私に歌ってくれた歌よ。彼女は航海中、私を子どものようにかわいがってくれて、あちらにいた頃自分の子どもにしたのと同じことを私にしてくれたわ。ちょうどこんな風に、頭を撫でたり体を温めたり」
そう言い終わると、彼女はまた別の子守唄を歌い始めた。その日はあまりにも慌ただしく、しかも不本意かつ不可解なことが多すぎて、男はすっかり疲れていた。彼は、初めて聴くはずのその子守唄になぜか懐かしさを覚えながら、間もなく深い眠りに落ちていった。