第1章 出航

 

    運命の船     森生 カナ子

 

 

 これは、今世にまだ生まれていない男の物語である。

 

 

 第1章 出航

 

「それでは何かね?君はまた今回も、あの船を見送るつもりかね?」

呆れた表情で、手にした分厚い書類に繰り返し目を通しながら、事務局長ヨハネスは、溜め息混じりに目の前の男に向かってそう尋ねた。

 白い顎髭を豊かに蓄えたヨハネスの風貌には、長年その仕事に携わる者の持つある種神々しいまでの威厳があったが、彼のそのオリーブグリーンの瞳には、うっすらと憐憫の情がたたえられていた。

 淡いブルーグレーの局長室の壁を背に、縁に繊細な彫刻の施されたマホガニーの重厚な机を挟んで、ヨハネスの正面にはグレーのシャツとズボンの中年の男が、ふてぶてしい表情で深緑色のベルベットのソファーにどっかりと腰掛けていた。 

 細身で比較的体毛の薄いその肉体は、むしろ彼を青年のように見せたが、それと同時に、疲れた表情に深く刻まれた眉間の縦皺と愁いに満ちた鳶色の瞳は、彼の人生の苦悩を物語っていた。

 蒼白い頬に薄っすらと無精髭を生やしたその男は、かさついた唇をへの字に結んで、いかにも不服そうに部屋の一点を凝視していたが、やがて局長に向かってこう抗議した。

「それは、出来るものなら僕だってあの船に乗りたいですよ。何せこれでもう三度目だもの、僕が乗船を見送るのは」

 窓の外に霞んで見える大型船舶に視線を向け、眩しそうに目を細めながら男は言った。

「一度目の時に僕が乗るはずだった便であっちに行ったケンイチは、今度の便でもう戻って来たんだから…」

 無言で頷くヨハネスに苛立ちながら、男は言葉を続けた。

「自分がどれだけ無駄に時間を費やしているかということぐらいは、僕にだって分かってますよ」

 男はヨハネスの目を見据えて、徐々に語気を強めた。

「でもね、どうして今回も奴なんだ?それが嫌で、こうして二度も乗船をキャンセルしてきたのに、どうしてまた、よりにもよってあいつなんですか?僕の身元引受人になるべき人は、他にもいそうなものなのに」

 何も答えないヨハネスに、苛立ちを隠せない男は、早口にこう言った。

「今までのポイントもきちんと貯まっているし、それ程重いペナルティーも今ではもうほとんど残っていない。僕の身元引受希望者は、まだいくらでもいるでしょう?」

「それが、いないのだよ」

おどけたように一瞬目を大きく見開いて、しかしきっぱりとヨハネスは畳み掛けるようにそう言い放った。

「当事務局の総力を結集して、今まで何度も身元引き受け希望者のリストを隈なく調べ上げてみたのだが、残念ながら君の条件に合う受け入れ先は、やはりそこしかなかったのだ」 

「そんな…」

男は、大げさにうなだれて落胆をあらわにした。

「あんまりだ。今まで僕は僕なりにこっちで精一杯真面目にやってきたっていうのに…」

「まあ、君なりにね。それはこちらでも十分把握しているよ」

ヨハネスは、物分りの良い老人を装うかのような優しい口調でそう言った。

「ここにいる他の誰より、僕はきちんと講義も受けたし、普段の素行にも、これ以上ないくらい気をつけてきたんだ」

男は過去を思い出して頭を抱えながら

「それもこれも、前回の結果があまりに悲惨極まりないものだったから…。そもそも、あいつのところに送られなければ、前回の僕の一生はもっともっとり素晴らしいものになっていたに違いないんだ」

と悲痛な面持ちでそう訴えた。

「それは、あちらの時間で百年以上も前の話だがね」

すかさすそう付け加えるヨハネスを、男はキッと睨んでこう言葉を続けた。

「あいつのところにまわされてしまったのは、その前の、つまり僕にとって三十五回目の滞在中に、炭鉱で点検中の作業員が中に居る溶鉱炉に誤って点火しちまったその報いだと、それは今までに何度もあなたから聞かされてきたから、それはそれで仕方ないことだと納得もできる。でも、その償いは前回の四十二年間で、十分に済ませられたはずだ。本当なら、僕を育てるのはあいつじゃなかった、前回僕を生んだ女性は、あいつとは似ても似つかないほど可憐で美しい人だった。なのに…」

「君を産んだ時の心身の衰弱が激しく、それから三日後の船に乗って、その者はこちらに帰還した。その後に君を引き取って育てたのが、その時の君の伯母に当たるミス・ハミルトン、前回の君の母親の姉だった。前回、君は私生児だったからね」

小さな鼻眼鏡を使って書類を読みながら、ヨハネスがそう言った。

「ローズ・ハミルトン…、やつのあの醜い姿は未だに忘れられない」

男は両腕で体を抱え、唇を震わせながら言った。

「あの鋭くて細い目、垂れ下がった頬、流行遅れの花柄のドレスに太った体を詰め込んで、いつも外股に歩くあいつが女に見えたことなど、僕には一度もなかった」

「そんな風に悪く言うものではない。親を亡くした君を引き取って大切に育てた、しかも名門大学にまで入れて…。良い保護者だったではないか。もっとも、君はその大学を勝手に中退してしまっているがね」

 その時の光景を思い出し、男の口調は益々はげしさを増した。

「あの時、あいつは僕を蛇みたいな目でにらんでこう言ったんだ。『この恩知らず!せっかく育ててやったのに。お前の大学の卒業式に父兄として参列することだけが、あたしの唯一の楽しみだったのに。こんなことになるのなら、始めからお前みたいな私生児を引き取ってやるんじゃなかった!』ってね」

「そう言われても仕方ないのではないかね?それが事実なのだから」

「こっちはそんなこと頼んじゃいない。近所の友達とろくに話もさせてもらえず、何人もの家庭教師から出された課題に追われて、寝るのはいつも明け方近くだった。およそ普通の子どもとはかけ離れた生活を、それでも途中まではあいつの期待に応えようと僕なりにがんばったんだ。それが、大学に入った途端に、今度は大学院に進んで博士号を取れと言い出した。それも僕の苦手な数学で、だ」

「まあ、君にはそれはかなり無理な要求だったようだね」

「学者だった爺さんと同じ道に僕を進ませたいとかで、勉強の妨げになるからと、僕にとって唯一の楽しみだった絵まで止めろと言い出した。口論になった時、完成間近だった僕の母さんの肖像画を、あいつは窓から投げ捨てた。それは、たった一枚しかない古い写真を見ながら一生懸命描いた僕にとって本当に大切な絵だったんだ。ちょうど路地を通りかかった馬車に轢かれて絵はズタズタ…。それからだ、僕があいつの言うことを聞くのを止めたのは」

「それからの君は、坂道を転がるように堕ちていった。家を出て、職を転々と変えながらその傍ら絵を描くが、作品は一枚も売れず。君は悩んだ末、いっそ画業に専念しようと考えるが、それから生活はいよいよ貧困を極め、君はアルコールに溺れていく。最後には安酒を買う金もなくなり、消毒用のメチルアルコールを飲んで、焼けるような体を冷やそうとテムズ川に飛び込んで溺死。数日後君の水死体を発見した少女は、その後数ヶ月間抑鬱状態に陥る…、フムフム、この記録はなかなか細かいところまでよく調べられているな」

ヨハネスは記録を片手にもう一方の手で白い顎鬚をもてあそびつつ、部下の仕事に感心しながらそう言った。

「そんなことより…」

男は苛立ちを懸命に抑えるために机の下で強く拳を握り締めながら話を続けた。

「ここに来てからの僕をもっと評価して下さいよ。その記録にも書いてあると思うが、僕はここに来てから、少なくとも人の三倍は勉強しました。宗教学の単位も、普通なら一種類でいいところを、僕は何種類取得したことか。聖書もコーランも仏典も、本が擦り切れるほど読みましたし、苦行も何度行ったことか。そうだ、何なら今ここで般若心経を暗唱してみましょうか?」

むきになって早口でまくしたてる男の言葉を遮って、ヨハネスは宣告した。

「とにかく、君の乗る船は、もうあれしかないのだ」

窓から見える、港に停泊中の巨大な船を指差して、ヨハネスは今までよりも少し強い口調でそう言って、男の目をじっと見据えた。

「大体、君は細かいことにこだわり過ぎる。宗教学の単位にしても、あれは勉強というは一種の偏執だ。その証拠に、君には大切なことが何も身についていない。なぜ、ああも執拗に次から次へ、様々な経典を読み漁ったのだ?どの経典も極めれば皆同じ境地に行き着くものを、君の場合、どれも中途半端なのだよ」

「…どうしても、…納得できなかったんだ」

しばしの沈黙の後、ふてくされたように男はつぶやいた。

「どの経典も、突き詰めると要は「親に感謝しろ」というところに行き着く。確かに理屈は分かる、世話になったことは事実だから。前回の場合は、生みの親と育ての親・・・・、考えたくもないが事実上あいつが僕の育ての親ということになるが、その両方が存在する。命と引き換えに僕を生んでくれた前回の僕の母親には、今でも心底感謝している。だけど、あいつ…ローズ・ハミルトンには、世話になったことより苦しめられたことの方が多すぎて、どうしても感謝する気持ちになれない。僕のペナルティーを軽くするためにはそれが一番の近道と、どの教授にも諭されたが、どう考えても無理だった。僕には、あいつが僕にしてきたことが許せない。あいつが僕を育てたのは愛情からではなく、自分のエゴからだ。つまり僕を自分の思うように育て上げることで自分の社会的地位を他人に認めさせたかったんだ。醜女であのとおりの性格で、一生独身で親の遺産を食い潰していただけのあの女には、確かに僕は格好のおもちゃだったに違いない。だから僕は、あいつに感謝するということ以外のペナルティーの軽減方法を、あらゆる経典に求めたんだ」

「…で、その結果はどうだったかね?」

憐れむような深い眼差しで、ヨハネスは男を見つめた。

 男はうつむいて拳を握り締めたまま黙り込んでしまった。しかしその沈黙は、やがて入り口の扉をけたたましく叩く音によって破られた。

「事務局長殿、出航の時間がせまっております」

ドアの向こうから甲高い少年の声がヨハネスを急き立てた。

「あと五分出発を遅らすように船長に伝えてくれたまえ」

ドア越しに大きな声でそう答えると、彼はいよいよ真剣な眼差しで男を見つめ、ブルーの小さな紙を差し出しながら諭すように優しくこう言った。

「さあ、この乗船券を持って、早く港へ行くのだ。今ならまだ手続きに間に合う」

 男は腕組みし、そっぽを向いて

「あんなやつの所にやられるくらいなら、死んだ方がましだ!」

と毒づいた。

 その言葉を聞いた途端、ヨハネスの顔に何とも言えぬ皮肉な笑みが浮かんだ。彼は、勿体ぶったようにとりすまして重々しい声でこう言った。

「この期に及んで何を寝ぼけたことを言っているのだ。よいかね、自分がここにこうしているということをもう少し真剣に受け止めたまえ。君はまだ生まれていない、つまり、死んだままなのだ。この上どうやって、更に死ねると言うのかね」

「あんなやつの子どもになるくらいなら、次の転生では畑のキャベツにでもなって、青虫の餌になった方がまだましだ」

男も負けじとそう答えた。

 すると、ヨハネスはたしなめるように声を潜めてこう言った。

「植物を侮ってはいけない。彼らの中には君などより遥かに魂のレベルの高い者達も多くいるのだ。彼らは捕食者に命を与えることで、実に高度な修行をしている場合もあるし、第一君のように執着の多い者は植物には向かない。おおかた書類選考ではねられるのが落ちだ。そうやってあらゆる生命体の不適合者としての烙印が押された者がどうなるかということくらい、ここに長く居る君ならとうに知っているはずだろう?」

 男は、長期残留者達の間で時折囁かれる『混沌の沼』のことを思い出して背筋が震えた。噂によると、そこではもうこの上何者にも生まれ変わることの出来ない者達が、ゆっくりと時間をかけて土に戻っていくという。それは、死という概念の存在するあちらの世界では全く自然な現象だが、この死を超えた、つまりあらかじめ死んでいる者達の住む世界においては、これ以上救いようのない状態だと、皆話しながら声を詰まらせた。あらかじめ死にながら、その上半永久的に死に続けるということ。『終わりのない死』という言葉が、一瞬男の脳裏をよぎった。もっとも、それはあくまで噂に過ぎない。なぜなら、そこから帰って来る者は誰一人いないのだから。

 蒼ざめて黙り込んだ男に、ヨハネスは慈愛に満ちた笑みを浮かべて語りかけた。

「あの世に生を受けるということは、何も生涯親元で子どもの時代だけを過ごす訳ではないということは、君だってよく知っているだろう。甘美な楽しみは…まあ永続的なものではないにせよ、いくらでもあるはずだ。幸い君の希望通り、前回に引き続き、今回の渡航でも君は男だ。…私の言っていることは、君なら十分理解できるだろう?それとも、あまりに永くこちらに居すぎて、この世にはないあの世の楽しみを、君はもう忘れてしまったのかね?」

 ブルーの乗船券をヒラつかせながら、事務局長ヨハネス・ステファスは、勝ち誇ったように薄笑いを浮かべた。もはや、この男に反論の余地はないはずだと、彼は内心安堵の溜め息をついていた。

「さあ、このチケットを持って早く港へ」

肩を落してガックリとうなだれたまま動かない男と大きな柱時計の秒針を交互に見比べながら、ヨハネスは右手の親指でせわしなく万年筆のキャップを開け閉めしていたが、やがてドア越しに、先ほどの少年に向かってこう告げた。

「二―ル、船長に、あともう五分の延長を伝えてくれ。それからターシャ、…ターシャを至急呼んできてくれ」

「はっ、かしこまりました」

 弾けるような靴音が階段を駆け下り、数分後、息を切らした少年と共にそこに現れたのは、黒革のボディースーツに身を包んだ、猫のような身のこなしの若い女性だった。

「ターシャ、突然で悪いのだが、今回はこの男の水先案内を君に頼みたいのだ。時間の関係で今は詳しく説明できないので、後でこの資料に目を通しておいてくれたまえ」

「はい、かしこまりました、ヨハネス様」

しっとりとしたはりのある声でそう答え、女はヨハネスに一礼するなり、いきなり男の手を引いてドアの方へ向かいながら

「さあ、急ぎましょう、時間がないわ」

と彼を促した。

「嫌だ!あいつの子どもになるなんて」

男がそう言い終わらないうちに、ピシャリと鋭い音をたてて、ターシャの右手が男の左頬を打った。

「いい加減になさい!いつまでぐずぐず言っているの!あの船の中の大勢の乗客は、皆あなたのために出航を延期させられているのよ。こちらの世界とあちらの世界の時間の長さが全く違うことぐらい、あなただって知っているでしょう?これ以上出発が遅れたら、皆の予定に大きな誤差が出てしまう。ほんの数分の遅れで、出会うはずの相手に出会いそびれてしまうことだってあるのよ。何千人もの人たちの人生をあなた一人が狂わせてしまうことになったら、この先のあなたのペナルティーは相当なものよ。それとも、このまま一人で冷たい沼に浸りながら、何百年もかけて泥になるつもり?」

 いきなりの平手打ちと、ターシャの瞳のあまりの強さに、男は二の句が継げなかった。その様子を黙って見守っていた事務局長ヨハネスは、やがて小さく頷くと目の前の大きな印章に手を掛けた。分厚い書類の束の表紙の上に渡航許可の大きな印がつかれた時、局長室の白くて厚い壁に、ズシリと鈍い音が響いた。